重苦しい空気を破ったのは、場違いに明るい声音だった。

「ごきげんようお二人サン」

 横合いからかかった若干訛りのある挨拶に、雷蔵と美吉は同時に振り返った。そこに立ってにこにこと見てくる人物に、二人は一度互いに目を見合わせてから、向き直る。
 美吉が小さく呻いて反射的に左目を眇めた。訝りを含ませる雷蔵の視線に、首を振る。一瞬チクリと刺すような感触が走ったが、衝撃にも似たごくわずかな痛みで、大したことはない。ゴミでも入ったかな、と美吉は適当に納得づけた。

「またお会いしましたね」

 ユストは初めの時と同じく丸型の帽子を取った。

「先ほどの問答、見ておりました」

 そして沈鬱そうにそっと瞼を伏せる。

「我らの同胞が失礼をしました。神に忠実な僕であるがゆえの過失です。どうぞお許し下さい」

 雷蔵は黙然と美吉を窺う。実際にやりとりをしたのは美吉だから、勝手に代答するわけにもいかない。

「別に、あんたが謝ることじゃねえよ。俺もちょっと……言い過ぎたしさ」

 左眼を使って相手の記憶を読み取り、それを逆手に攻撃した。
 「お互いさまって奴だろ」そう言って顔を逸らす美吉に、ユストは喜色を乗せて眼を上げた。

「それでは私たちはまだ友達ですね」
「……」

 美吉は目を合わせず渋い顔だ。やや警戒気味なのは先日の行いが響いているらしい。
 それをどう勘違いしたか、ユストは少し困ったように、

「この間はすみませんでした。どうもこの国の風習にまだ慣れていなくて。あれはあくまで挨拶のつもりでして」
「どんな挨拶だよ……」

 ぼそりと突っ込んだ美吉に、額面通りに受け取ったユストは、「ええっと」と頭を捻っている。
 そして何かを思い立ったように異国語で近くの知人を呼び付けた。
 ユストと同じ恰好の、しかし白襟ではない黒装束が駆け寄ってくる。

〈イルマン・フェレイラ、どうされました?〉

 白い肌にそばかすの散った面は、ユストよりも更に幼い。
 それが二人を交互に見るや、あからさまに敵意を宿して顰められる。が、はたと雷蔵をもう一度見て、更に翡翠色の瞳が大きく開かれる。美吉が目語で知り合いかと尋ねるが、雷蔵も分からずただ小首を傾げるばかりだった。

「アーロン、すまないが我等の国での挨拶を実演してくれないか」

 倭語で言われたアーロン少年は、依然ちらちらと好意的ではない視線を横に投げながら、訝った顔をする。しかし再びユストが母語らしき言葉で説明すると、心得たように頷いた。
 と、いきなり二人は抱き合い、互いの頬に軽く唇を触れた。
 それを見ている往来の人々はクスクスと笑っている。
 身を離したユストは、言葉なく唖然としている二人に向かって苦笑を向けた。

「我々がこうすると何故かよく笑われます。どうも我々の流儀はこの国では馴染まぬようだ」
「そりゃあ馴染まないだろ」

 再び美吉が苦々しそうに唸った。しかし先程より警戒は解けている。

「んなことされたら、衆道趣味かと疑われるのがオチだぞ」

 途端、アーロンが何事か叫んだ。異国語のそれに、美吉はぎょっとする。

「我らを侮辱するのは許さない」

 今度は和語で噛みつく。過剰ともいえる反応に、美吉は「不味いこと言ったかな」と雷蔵を伺う。雷蔵とて、さぁと首を傾けるしかない。
 毛を逆立てるアーロンを制しながらも、ユストも難しい顔だ。

「シュドーはpederastのことですね。かの偉大なるパーデレ・フランシスコ・ザビエルやパーデレ・ルイス・フロイスも、その書簡でこの忌まわしい習慣について言及されておられました。しかもBonzosたちが中心となり、年端も行かぬ幼子に罪を働いていると……」

 聞きなれぬ音が飛び交ったが、前後の文脈でなんとなく言いたいことを察する。

「稚児のことかな」
「あーまあ坊主はなぁ」

 ぴんときたらしい雷蔵と、ぽりぽりと頬を掻く美吉。二人とも僧形ではあるが、真実僧職というわけではない仮身なので、実情は部外者として知るのみである。
 この目にするまではとても信じられぬことでした、とユストは嘆かわしげに首を振る。

「先人たちのおかげで、極東の文化の異なることはある程度知ってはいますが、我々には受け入れがたい。同性愛は禁忌、神の戒める罪悪です。この国の人々は善良であるのに、どうしてこのような忌むべき風習が溢れているのでしょう。理解できません」

 どうやら相当に嫌悪しているらしい。軽い冗談で言ったつもりの美吉の方が、むしろ気まずくなるくらいだった。

「いや、ま、俺にも理解できないけど」

 むしろしたくない、と思いつつ、一応自国のことだけに軽く擁護もしておく。先ほどと同じ轍を踏まぬよう注意しながら。

「なんつーの、そこは人それぞれの趣味っていうか」

 他人事(実際他人事だ)のようにぼやいた美吉に、ハッとユストは二人を見やった。同じく汚いものでも見るかのような(いや、これは最初からだったかもしれない)眼付きのアーロンと共々、身を引く。

「ま、まさかアナタ方も……」
「まさか」
「やめてくれよ」

 雷蔵は明るく笑って、美吉はげっそり暗い顔で、それぞれきっぱり否定した。
 「ですよねー」とホッと撫でおろし、ユストは元の柔和な微笑みに戻った。

「申し訳ありません。我々にとっては敏感(デリケート)な事柄でして。けれどオスクルムは決して性愛を意味するものではなく、親愛と平和の印なのです」

 あっそ、と美吉は言いながら、平和だろうと何だろうと二度としてくれるなと心の中で付け加えた。

「んで、俺達を呼びとめたのは何の用なわけ」
「いやぁ、別に用というほどのことはないのですが、折角お見かけしたので」
「改宗はしないよ」
「あれ、やはり?」

 すかさず宣言した雷蔵に、困った風に笑う。

「用がないなら行くぜ」

 あからさまに離れたげな様子で、美吉がさっさと背を向けようとすると、ユストが慌てて声をかけてきた。

「もう行かれるのですか。何かお急ぎなのですか」
「今日此処を発つからね」

 美吉のぶっきら棒さとは違う、穏やかな答えにユストの目が丸くなる。

「えっ、今日ですか? お二人とも?」

 雷蔵が無言で美吉を窺うと、

「ああ」

 しれっと即答した。確かに美吉は今からでも旅立てるよう荷を背負っている。不測の事態が多いので、いつでもトンズラできるように、宿泊中でも荷は常に身につけて外出するようにしているのである。
 それでも今の今までは、引き続き滞在する予定だったはずだ。
 それを急に覆したのは、ユストに会ったからだ。

(どうにも嫌な感じがするんだよな)

 胸をモヤモヤと巡る不快さに、美吉は眉を寄せる。あの問答の所為だろうか。
 雷蔵もその胸中を察したか、特に何も言わなかった。

「こんなに急にだなんて」

 折角お近づきになれたのに、と異教徒の青年は、異教徒らしからず悲しげに発言する。アーロンなどは「さっさと行っちまえ」とばかりの形相で睨んでいる。恐らくこちらの方が本来の反応として正しい。何せ互いに崇めるものを異にし、相容れぬ関係だ。もちろん中には異国人に友好的な僧侶もいるにはいるが。

「それならばしようがありませんね……」

 心底残念そうに呟き、背を向ける。
 もういいだろう、と雷蔵たちはまた互いに目を交わし合い、踵を返した。
 背後ではユストとアーロンがそれぞれ何事かをボソボソと囁き合っている。

〈えっ、で……でも〉

 当惑気味にアーロンが一瞬声を高める。ユストは唇に指をあて、

〈いいから言うとおりに〉
〈しかし、それは……欺くことになるのでは―――
〈いいや、よく考えるのだ。これは彼らを救うためなんだよ〉

 いつになく強引なまでに力強いユストの言に、少年はただただ困惑している。

〈本来は私がやるべきなのだが……私は彼らに接触しすぎて警戒されているから、失敗する可能性が高い。君しかいないんだ〉
〈でも〉
〈アーロン、我らの使命を忘れたのか。我らは善良なジャポネの人々を悪魔から救い、全能なるゼウスの教えへと導く―――そうだろう〉
〈はい〉
〈これはその神の導きの一端なのだ。時にはいささか強引な手段は禁じえない〉

 アーロンは俯いた。その白面は未だ迷いを乗せながらも、やがて諾々と頷く。

〈そう、それで良い〉

 ユストはアーロンの肩に手を置き、優しく微笑みかけた。
 だがその二つの瞳には、凍てついた薄氷が凝っていた。




 ようやく朝餉にありつきついでに携帯食まで買った二人は、街道に向かう途中だった。
 ぼんやり考え事をしていた美吉は、いつもに増して注意力散漫気味だった。
 そこに正面から力一杯突き飛ばされたのだから、吃驚仰天もいいところである。

「どわあ!」

 面白いくらいにひっくり返り、尻餅をつく。横で雷蔵が何をしているんだとばかりの呆れの眼差しを注いでいた。

「ってぇ、なんだよ一体」

 腰を擦りながらぶつかってきた相手を見て、眉をあげる。

「てめえはさっきの」

 衝突の反動か地面に這う南蛮少年は、美吉を見て一瞬瞳を揺らした。だがすぐさまキッと敵意を漲らせると、

「この盗人!」

 一気にまくし立てた。

「は?」

 美吉は、反射的に眉間をしわ寄せた。
 アーロンは美吉の足元を指差すと、

「それが何よりの証拠だ!」

 そこには、木製の十字の首飾りが落ちている。

「はあ?」

 何が何だか分からず首を傾けるが、アーロンは聞いていない。
 盗人め!と大声でまくし立てるものだがら、何事かと周りに人が集まってきた。

「何があったのです」

 人を掻き分け、ユストが現れると、おや、とわざとらしく騒動の中心にいる顔ぶれに声をあげた。

「イルマン、この男は罪深き盗人です。私の聖なる十字架を盗んだのです」

 アーロンが駆け寄り、必死に言いつのる。そして落ちたままの十字の首飾りを指し示した。

「なんと、それは」

 やや厳しい表情をつくり、アーロンはいまだ尻餅をつく美吉と、傍らで佇む雷蔵を交互に見やった。

「おい、ちょっと待て。なんだかよく分からねえが大きな誤解だ」

 若干動転気味に美吉は指を差した。

「俺は何も盗んじゃいないし、これはそいつがぶつかってきた時に自分で落としたんだろ」

 実際美吉の眼には、握っていた十字を故意に手放すアーロンの姿が視えていたのだ。
 しかし残念ながら、今この場にそれを証明してくれる第三者はいなかった。

「厚顔無恥!」
「んな」

 アーロンの反駁に、どんな和語の覚え方してるんだ、と美吉は心中で毒づいた。

「これはどういうことでしょうか」

 ユストが雷蔵へ目を送れば、雷蔵は肩を竦めた。

「さて。どうやら俺たちの預かり知らぬところで陰謀が働いているようだね」

 物思わせぶりに言って、ユストを見つめ返す。青年はそつなく人のいい微笑を浮かべた。
 そこに人垣を蹴散らすように、粗暴な空気が割って入った。

「おうおうおう、ここをどこだと思っていやがるんだ」

 絵に描いたような型通りの掛け声をあげて、男たちが荒々しく取り囲む。野次馬たちは一目見るなり触らぬ神にとばかりに慌てて逃げ散った。
 明らかに真っ当と言い難い風体の輩が、穏便とは程遠い険呑とした目つきで睥睨してくる。

「俺たちの縄張り(シマ)で面倒事はよしてもらいたいんだがな」
「天下の往来で騒ぎを起こす奴ぁ坊主とはいえ容赦はしねぇぞ」
「ちと向こうでナシつけようじゃねえか、兄ちゃんら」

 男たちが押し包む。雷蔵は早々に抵抗を諦めた。逃げるのは簡単だが、これだけ人目を集めている中で大立ち回りを披露するのは好ましくない。美吉もまた、あえてされるがままになりつつも、憤然と抗議した。

「おい、ふざけんな!」
「話は後でな」

 無理やり引きずられながら、「てめえ」とユストを振り返り睨みつける。

「これにはきっと何か行き違いがあるに違いありません。ひとまず落ち着いてお話をしましょう。平和的に、ね」

 憎らしいほど爽やかに、いかにも平穏を愛する態度で、ユストは告げた。
前へ 目次へ 次へ