重い身体を叱咤ながら、雷蔵は楽器を袋へ収め置くと、樹に凭れかかって眠る美吉の方へ寄り、傍らに膝をついた。意識はしばらくは戻らぬだろう。脈を取るように手を取れば、そこここに火傷を負って白くなっていた。硬く閉じた目元には色濃い影が落ち、顔色は青白い。
 霊媒による神降ろしとは違ってある程度人の身に同調しているとはいえ、審神者に名を呼ばれぬ限りは長く存在を保っておくことのできぬ不安定な神霊だ。完全に一体化しているわけではないから、神力を使えば人の身の器が追いつかず、こうして傷つく。

 にもかかわらずあの神はまるで頓着せず力を行使する。完全な『定着』をせぬまま器が滅びれば自分も消滅するとわかっていながら。自由になりたいといいながら、まるで矛盾した破滅的な行動。
 これだけ酷使されたのならば、回復まで時間もかかるだろう。
 それともこのまま目覚めぬ方が、いっそ今の美吉には望ましいことなのかもしれない。

 物思うように伏せがちにしていた目を上げ、さて、と気を入れかえる。美吉は当分目を覚まさぬだろうから、しばらく留まることになるだろう。手当も必要だが、それには荷の中の薬と道具が必要だ。
 雷蔵は隣のユストに声をかけた。

「悪いんだけど、俺たちの荷を持ってきてくれない? 美吉を放っていくわけにはいかないし、俺が行くと色々不都合だと思うから」

 ユストは佇んだまま、それにポツリと返す。

「あれだけのことをした私を、信頼するのですか」
「ほかに方法がないからね」

 雷蔵はなんということもなさそうな声音だった。だがユストには分かった。彼は初めからユストを信頼しているわけではない。ただ、どうでもいいのだ。裏切らないことだけは確信できているから、それで十分なのだと。

 そういえばユストが『悟り』と知った時でさえ、雷蔵の態度に変化はなかった。『悟り』の力を得て以来、ユストは強い人間不信に陥った。表と裏を使い分ける人の顔。一致せぬ口と心の声。否応なく聞こえてくる内面の汚濁に、吐き気さえした。ユストが心を言い当てれば、人はユストを恐れた。気味悪がり、何より己の汚い面を曝け出される恐怖に、距離を取った。当然だろうと思う。もしも自分だって、心の読める人間が目の前にいたら、やはり同じことをするだろうと思った。
 実際美吉の呪眼を知った時、同じ能力者であることに喜びつつも、自分は内面を読まれぬということに深い安堵を覚えたのだ。
 だから一つ、最後に聞いてみたかった。

「あなたは、ミヨシさんが怖くはないのですか」

 吐息に似た声だった。
 意表をつかれたのか雷蔵はきょとんと瞬き、首をかしげる。

「天目一箇が宿っているから?」
「それもあるし……その眼についても」

 ユストの言いたいことを察して、雷蔵は笑った。

「怖い……・ねぇ。どうかな。そりゃあ天目一箇はおっかないけど、でも美吉は美吉だよ。何を視られたからって別にどうってことないし、彼もむやみやたらには視ないと思うから」

 雷蔵の心の奥深くを探ることはできない。けれどその言葉は飾り気ないものに聞こえた。それはたぶん、この男が人並みの虚勢や体面といったものに価値を見出すようには思えないから。ユストが『悟り』であることを知ってもなお普通に接していたことが何よりの証だ。何を読まれようとも本当に一向に興味がないのだろう。美吉が気を許して共にいるのも、このためかもしれない。
 それに、と雷蔵は美吉に目を落とした。

「確かに呪眼は厄介だ。実際美吉もとても苦しんでいる―――けれど同時に助かっている部分もあるんだよ」

 彼がここまで生きてこれたのも、呪眼の力のおかげ。雷蔵だって何度か窮地を救われた。たとえどんなに忌わしくとも、その事実を否定することはできない。
 第一、宿る神を今更引き離すこともできぬのだから。

「離せない?」

 ふと聞えて来た心の声に、ユストが瞬く。

「少なくとも俺が知る限りでは無理だね。美吉のそれは単なる神降ろしの類じゃない。魂に溶け込んでしまっていて、分かつことができないんだ。言わば表裏一体―――恐らく、どちらかの自我が尽きて併呑されるまで、このまま共生し続けるしかないだろうね」 

 つまり解放はどちらかの『死』を意味する。
 ユストはもう何も言わなかった。
 物言わぬまま、踵を返した。
 去っていく気配を背で追いながら、雷蔵は美吉の懐を探って巻物を取りだした。一旦荷を受け取った時、彼は密かに〈秘伝〉だけを持ち出していた。普段は荷の中に入れっぱなしにしているのだが、雷蔵がわざわざ龍弦琵琶に〈秘伝〉を括りつけたように、美吉にも何か思うところがあったのだろう。
 己の持つのによく似た巻物をしばらく見つめ、小さく断った。

「開かせてもらうよ」

 そして自分のものとは色違いの、黄金色の紐に手をかける。くるくると巻かれていたものを逆方向へ回し開けば、中は白紙だ。
 雷蔵は〈秘伝〉の一端を美吉の膝に置き、一端を手に持って開きながら周囲を巡る。まるで囲うように、樹ごと美吉の身体にぐるりと巻きつけていく。 地の気は美吉の味方だから、此処でこうしておけば少しずつ身を養えるだろう。

 そう息をついて立ち上がろうとしたところだった。
 ハッとして、引きかけた腕を咄嗟に押しとどめた。
 ちくりとした痛みが衣を貫き後ろ肩を襲う。
 衣の上から小さな針が煌めいている。それを確認もせずに無造作に引き抜き、雷蔵は距離を取った。草の雨露が舞う。
 間髪いれず飛来してきた凶器を避け、うち一つを後ろ手で掴み取り、掌中でくるりと回した。短い得物の場合、順手に持つのは守り、逆手は攻めに特化する。息もつかせずに次々と放たれる手裏剣を順手に構えた苦無ではじき落とす。さらに弾きあげた手裏剣の一つを空いている方の手で捉え、素早く返し放った。
 突然の反撃に調子を狂わされたか、襲撃者は身を捩り、そして地上に着地した。

「随分な御挨拶だね」

 一難去ってまた一難。
 おまけに、意外なところでの意外な人物との邂逅ときた。
 苦無を隙なく構えたまま、雷蔵はその人物に気さくな声をかけた。
 見覚えのありすぎる装束に包まれた長身を起こし、伸ばしっぱなしの髪が揺れる。

「どういうことか説明してもらおうか、棟梁殿?」
―――……」

 影梟衆を束ねる若き凄腕の頭目は、相変わらず茫洋と雷蔵を見返していた。

「薬叉、悪いが一緒に来てもらおう」

 開口一番の一言に、雷蔵の表情がかすかに訝りを帯びる。

「一般人は巻き込まない主義の君が一体どういう風の吹きまわし?」
「こちらも色々あってな。とにかく黙ってついてきてくれないか」
「……断るといったら?」

 それとなく美吉の方を気にかけながら、相手の反応を窺う。

「事情は後で話す。今は時間がない」

 どこか硬い声音は、確かにいつになく切羽詰まっている。

「今すぐは駄目だ」

 逡巡しながらも首を振る。人事不省の相棒をこのまま放置するわけにはいかない。神を封印したばかりの美吉は精神的に不安定だ。情緒の揺れは再び箍外れを起こしやすくする。

「ならば―――力づくでも連れていく」

 言うが早いか、姿が掻き消えた。
 前回の遊び半分とは違う。初っ端からこの勢いは掛け金なしの本気だ。

「!」

 チリッと頬の産毛が痺れる。雷蔵は勘で上に飛んだ。が、すぐさま悪寒を感じて首を左に傾ける。刃の残像が走り、肩に血が舞った。 接戦は不利だ。しかし得物が手の苦無しかない今、接戦より他ない。だが前回のように薬も身に着けていない今の状態では、彼の〈陽炎〉を正確に避け続けるのは困難を極める。おまけに今は―――
 腿に裂痛が走った。がくりと力が抜けかけたところで、地面を転がり追い太刀を躱す。
 すぐさま身を起こし、すかさず飛んできた手裏剣を落として、間合いを取りつつ体勢を取り直した。

「どうした? いつもより動きが鈍いようだが」

 浅い息を繰り返す雷蔵に、読めぬ表情で虎一太は低い声音で言った。

「さっき少しばかりおっかないのを相手にしたからね」

 薄らと気なく笑ってみせる。

「鬼でも出たか」
「鬼の方がまだ可愛げがあると思う、よ!」

 傍の樹の枝を折り、雷蔵は幻術を使って矢に変える。それを、虎一太は危うげなく避けた。間髪いれず、毟り取った草を散らし、妖怪変化を繰り出す。これもまたごく少々の戸惑いのみで、綺麗に消された。
 相変わらずよく分かっている彼は、雷蔵とは眼を絶対に合わせようとしない。催眠による幻術を警戒しているのだ。そうとなれば呪力による幻術を使うしかないが、ただでさえ消耗している今はそれが相当辛い。

「お前らしくないな、こんな乱発の仕方」

 一足飛びで接近してきた相手に、樹を盾にすることで攻撃を回避する。

「なりふり構ってられないんでね」
「それは〈秘伝〉を使ったことと関係があるのか?」
「おや、見てたのかい?」
「やはりな……」

 きょとんとして足を止めた雷蔵に、虎一太はやれやれと己の首の後ろに手を回して撫でた。

「どうにも不自然な落雷が見えたから、もしやと思ってこちらに足を向けたんだ」
「まさしくどんぴしゃだったわけだ」

 雷蔵は緊張感なく笑えぬ洒落を口にする。

「そう。噂を頼りに大村くんだりまできた甲斐があったというものだな」

 虎一太も笑った。笑いながら、苦無を鋭く放った。
 しかしそれは雷蔵の方へは飛ばず―――
 その方角に、しまったと舌打ちを零した。
 気を失っている美吉を真っすぐ狙う三本の刃に、雷蔵は臂力を尽くして地を蹴った。
 肉を切り裂く音と、痛みと、血の匂いが襲う。
 一本は手に握る苦無で落としたが、残り二本は右肩と左わき腹を貫通していた。白い衣にじわりと鮮血が広がる。
 そして今は肉薄した敵刃を辛うじて抑え込みつつ、その一挙一動に全力を集中させる。

「いつからそんな卑怯な手を好むようになったかな、朧の」

 汗が伝い、息が乱れるのを何とか宥めながら、わずかに口の端を上げる。

「いつから汚い手と分かってて飛び込むようになった、薬叉の」

 虎一太は困ったように―――そしてどこか自嘲気味に微笑んだ。
 わざわざぎりぎりで間に合うよう速度を加減した。誘いだと分かっていたはずだ。

「時には嵌まってみるのも一興ってさ」

 痛みは相当だろうに、のどかな口調はやせ我慢なのだろうか。

「昔のお前にならこんな手は通用しなかっただろうが……そういえば―――

 ぼんやり小首を傾げる。

「最初の針も避けなかったな」
「俺なら毒針くらい刺さっても問題ないからね」
「なるほど、合理的だ」

 やっぱり効いてないのか、と虎一太は内心舌を巻いていた。熊でも一発で眠る強力なやつなのだが。

「合理ついでに、早いところ手当てした方がいいんじゃないか。失血で死ぬぞ」

 ぽたりと、血の玉が草地に滴り落ちる。

「そもそも君がいつも通り馬鹿正直でいてくれればこんなことにはならなかったんだ」
「今回ばかりはそうも言っていられなくなってな。お前たちも純粋に堅気とは言えんからまあ問題あるまい」
「全く物は言いようだね。ひとまず無抵抗の人間狙うのはやめない?」
「とはいっても弱みを突くのは初歩の初歩だからなあ」

 それが特に強者との闘いとなればなおさら。
 場違いに和やかな会話に聞こえるが、水面下の争いは予断を許さない。拮抗する競り合いのせいで、ちりちりと互いの得物が細かく啼いている。

「使わないのか?」

 言下に何を指しているかなど、分かり切っている。

「使っていいの?」
「お前次第だろう」

 提案者は可笑しそうに言った。確かにいちいち断るべきところではない。

「まあね。あんまり使いたくないけど、そうも言ってられなそうだし」

 だが〈秘伝〉を使うにも精気がいる。すでにここまでで操気術に招雨術に招雷術、おまけで水結界まで使っていた。極めつけが送神儀の玉響。
 雷蔵は無言で目を据わらせながら、呼吸を整えた。
 競り合って硬直する相手の刃が、僅かに警戒する。

「地義書に宿るものよ、天の継承者の名において希う。己の主を守れ」

 呪が向けられたのは後方。
 たとえ同じ継承者でも、片割れを操ることは決してできない。天は天、地は地で、厳然たる線引きがされていた。けれど継承者同士の特権的なものはある。『命じる』ことはできないが、『願う』ことはできる。内容次第で干渉することができるのだ。だから頼んだ。残りすべての呪力と引き換えに。

「今ので最後だよ」

 無色の笑みを刷く顎に、疲労の色濃い汗が一筋、伝い落ちた。
 〈気涸れ〉だ。
 来るかと身構えていた虎一太の表情が、豆鉄砲を食らった風になる。

「この状態でなお相手を気遣うか。余裕というか無謀というか」

 独りごちるようにぼやく。
 しょうがない、と応じる声音に朧のような眼光が瞬いた。

「だって、二人しかいないからね」

 そう諦めたように笑っているのを、旧知であるはずの忍びは意外そうに見つめ返した。
 同種(なかま)を求める性質の男ではないと思っていたが、あるいはそれが継承者としての意識というものなのだろうか。
 いずれにせよ、こちらも形振りは構っていられない―――虎一太は瞳を一度閉じ、開いた。
 茫洋とした眼差しが、感情の波を持たぬ目線と合う。

 瞬間、雷蔵は凍りついた。
 まずい。『見るな』と頭の隅で警鐘をならす。なのに相手の双眸に釘づけになったまま、動けない。ゆらりと脳の奥が靄がかり、指先から力が抜けおちそうになるのを、傷の痛みを思い出すことで抗おうとする。

 しかし力が緩んだところを蹴りで横へ吹っ飛ばされ、隣の樹に背を打ち付けた。迫る気配に、反応が遅れる。身を捩った時には、いつの間にか単衣の左袂が手裏剣で幹に縫いとめられていた。
 呼吸が止まる。鳩尾に深く拳がのめりこんでいた。
 「すまんな」と暗転する視界の向こうの人影が囁いた。謝罪するくらいなら最初からやるな。雷蔵は薄れゆく意識の中、悪態のひとつでも返してやろうとしたが、相手に届いたかどうかまでは分からなかった。




 ようやく力を失って崩れ落ちかかる身体を、虎一太は手際よく肩に担ぎあげる。最後に聞こえた「この詐欺師」に思わず苦笑する。もう少し梃子摺るかと思っていたが、予想以上にあっさり落ちてくれたことに安堵した。旧き良き盟友を騙すのはいささか心苦しく後味が悪いが、それでも急がねばならぬ事情があった。
 ふと後ろを振り返った。樹に巻きものでぐるぐる巻きにされた法衣姿を見る。そっと音なく傍によって膝をつき、手を伸ばしてみた。触れる直前で、バチッと静電気とともに弾き返される。指先が赤く腫れあがっていた。

(なるほどな)

 納得気に目を眇め、そして弾かれるぎりぎりのところまで掌を伸ばしてから囁いた。

「安心しろ、しばしの間身柄を預かり受けるだけだ。気になるようならばあとから俺たちの根城まで来るといい」

 美吉の瞼は力なく閉じられたままぴくりとも動かない。
 虎一太は軽く呼気をつくと、始めと同様、音なく去って闇の内へと消えた。
前へ 目次へ 次へ