ひとりで淋し ふたりで参りましょ
見渡すかぎり 嫁菜にたんぽぽ
妹の好きな むらさきすみれ
菜の花れんげ 優しいちょうちょ
ここまで来たか 泊っておいで



 衝動を感じ、ユストはハッと我に返った。
 ―――今のは?


  いざ帰り座し坐せ神の御国に


 夢現の耳を打った歌声に、己の場所を思い出す。
 苦悶の呻きは草地に蹲る神の唇から洩れている。
 ―――今の記憶は。
 過去にあった出来事。
 『悟り』で引きずられたのか?
 とすればあれは、遠い日の美吉の記憶――― 


  いざ帰り座し坐せ

  一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのたり)

  布留部(ふるべ) 由良由良止布留部(ゆらゆらとふるべ)


 布瑠の言をもって玉響は完成する。

「依代よ、爾が真名を取り戻せ」

 余韻嫋嫋、余音繞梁として、歌は止んだ。
 そして、ゆっくり傾いだ黒い法衣が、どさりと草地に沈んだ。
 しばらく陶然と、あるいは茫然と、鼓膜に残る余韻に身を掴まれていたユストは、ようやく大きく息を吐いて肩を下ろした。なんだか身体中から力が抜け、骨までもが軟らかくなったみたいだった。足元がふにゃふにゃして天地が定まらない。
 傍で鳴った軽い物音に、ゆらゆらと焦点を合わせる。
 弓が奏者の手から草の上に落ちていた。
 雷蔵は脱力した様相で樹に背を預けている。汗を浮かべ、微かに息が上がっているところから、心身の疲労と消耗が窺えた。いつもは凪いでいる内面が、珍しく揺れていた。

「ああ、しんど……」

 中空を茫洋と見つめながら、ようやくそれだけを零す。
 ユストは心から驚嘆していた。

「大丈夫ですか」

 心配そうに倒れ伏す美吉も窺い、

「神は……」
「封じたよ。これでもう出てはこれない」

 そう願いたい。出てこられても困る。送神の儀はそう何度もできるものではない。
 もちろん相手の位の高さや神威の如何次第なのだが、天目一箇には中でも全身全霊、渾身の力を込めて奏で、強制送還した。そうでもしなければ押し返されてしまいかねないからだ。神歌唄いでもいればまた違ったかもしれないが―――それほどまでにあの神は強く、そして当然奏者にかかる負担と反動はそれだけ大きい。三日間ほぼ不眠不休で任務を遂行した時だって、これほどまでには疲れなかった。

(それとも、歳かな)

 いつになく法師らしく諸行無常を噛みしめてみる。しばらくその態勢で目を閉じ深呼吸を繰り返した。
 やがて落ち着いてきた頃に、額に浮かぶ汗の粒を拭うと、樹に手をつきよろよろと身を起こした。

「見えたかい?」
「え?」
「美吉の過去」
「……」

 ユストは視線を逸らした。火と血の赤に彩られた、狂気の過去。

「私は……」

 言葉が続かなかった。何が言いたかったのか自分でもわからない。
 何ともいえぬ沈黙が落ちた。
 雷蔵は遠くを見つめている。『これ』を視るのは二回目だった。
 その後の話は美吉本人から聞いた。あの焼野原で、美吉は何日も弟の遺体を膝に自失していたそうだ。そこに通りかかったのが、紫香(しが)―――美吉の師匠であり先代地義之書継承者だった。
 理不尽な暴力に襲われ、炎に飲まれた村。累々と積もる殺された人々の屍。そして自らの肉親の血に濡れる手。
 初めて美吉の記憶を覗いた時、繰り広げられる情景が己の中に眠るそれと重なった。あまりにも重なりすぎて、一時それが己のものなのか、彼のものなのか、判別ができぬほどだった。
 たった一人生き残った子供は、それぞれ忍びの世界に引き取られ、やがて〈秘伝〉の継承者として、奇遇を果たす。

「皮肉な話だね、全く」

 聞こえぬほどの小さな声で、雷蔵はぽつりとそう呟いた。



 静寂が心地よい。疲れ果てた身体の先から、じわりと大気が癒していく。このまま緑に抱かれて寝入ってしまいたいところだが、悠長に味わっているわけにもいかない。
 ややしてから、雷蔵は気怠るげに横を見やった。

「これで分かっただろ? 美吉の中にいるモノは、人の手に負える相手じゃない。そもそも人間の言いなりになるようなやつじゃないしね」
「……」

 ユストは俯き、下唇を噛む。

「一体全体何でまたあんなものを求めようと思ったのかは知らないけど、もう諦めた方がいいよ」

 噛んで言い含めるように忠告する。
 人には人の分というものがある。分不相応な望みの先にあるのは破滅だけだ。
 もしそれでもなお求めるというのなら、雷蔵は容赦しないつもりだった。封じ込める方は命がけなのだ。
 一方で、この異人はきっともうこれ以上迂闊な真似に走らぬだろうことも確信していた。

「私は、神の声を聞いたのです……」

 囁くような小声に、え?と雷蔵は反問した。意気消沈しながらもユストは拳を震わせていた。

「確かに聞いたのです。この極東の国に、私の求める力があると。きっそしてあの時……ミヨシさんを見た時、彼こそが破壊と浄化の神を身に宿す者、私の望みを叶えてくれるだろうと、神秘なる声が」
「……その声って」

 軽く身を起こした雷蔵が言い差した時だった。

――あーあ、終わっちゃった。折角これから面白い劇が見られると思ったのにつまらないの。

 頭上で響いた声に、二人は素早く仰いだ。
 そこには、青白く燐光を散らす人型が、胡坐をかいて浮いている。

「お前は……!」

 驚きのあまり無意識に母語で呻き、ユストが瞠目する。この声は。

 ――聞きおぼえがあるだろう? 当然だよね。だって『悟り』の力はこの私があげたんだから。
「まさか―――お前が、あの時の」
 ――そうだよ。あまりにうるさいから、ちょっとからかってみたのさ。異なる神の像の前で反逆心に燃えてるのも面白かったしさあ。

 けらけらと嗤う。

 ――もしかして騙されたって怒ってる? でも選んだのはお前だよ。

 唇を戦慄かせながらも、ユストは何も言い返せなかった。く、と目を眇める。

 ――そこの神官崩れも言ってただろ。

 “神は気まぐれ”だって―――

 ――でも残念。もう少し期待してたんだけどね。まぁいいや、それなりに暇つぶしになったし、この国まで来れたからね。

 あの国は飽きちゃったんだ、と楽しげに腕を組む。

「お前は悪魔なのか。私は魔物の声に唆されたのか……」

 茫然と呻くユストに、妖精のようなそれはにんまり双眸を歪めた。

 ――お前は何だと思う? そもそも神とはなんだ? 悪魔とは? 精霊とは? 天使とは?

 キャハハッと笑い声が森林に木霊する。

 ――私を見て魔物かと尋ねるあたりが、もう毒されているんだよ。お前の大嫌いな『教会』にね。恩恵を授けるのだけが神で、それ以外は悪なのか?

 指摘されたユストは、どきりと硬直した。

 ――お前は神という存在に何を期待していたんだ?

 優しく囁く。と、側で嫋と響いた音色に、その面がひび割れる。
 顔を盛大に顰めて耳を塞ぎ、ギッと音源を睨みつける。

 ――それやめろよ。耳障り。
「悪いけど南蛮語は分からないんだ」

 雷蔵は悠然と弓を滑らす。紡がれる曲調に神とも鬼ともつかぬそれの顔がますます悪し気に歪んだ。

 ――性悪な神官だな。お前嫌われてるだろ。

 突如変わった言葉に、雷蔵はおやと興味深く感じた。異国の異形はいかなる国の言語も話せるものなのか。それともユストに憑いているうちに学んだか。

「生憎、審神者は嫌われるのが仕事でね。さてこのまま君も封じてもいいけど」
 ――ケッ、異国の神楽なんぞに封じられるものか。
「そう。折角だから試してみようか」
 ―――――くそ、あばよ!

 存外可愛らしい悪態を捨て台詞に、それはそそくさと消え失せた。
 雷蔵は弓を収め自失状態のユストを見やった。

「は、はは…・・」

 俯いた顔から、乾いた笑い声が漏れる。手で額と目を覆う。

「滑稽です。私は一体、何を信じていたのでしょう……あなたの言う通りですよ。神の国を作るだのなんだの言って、私はただ私の復讐がしたかっただけにすぎない」
―――……」
「そしてまんまと幻想にまどわされた。とんだ道化だ」

 ぐしゃりと前髪を掴んだ。

―――神というのは」

 ぽつりと綴られた言に、ユストがのろのろと面を上げる。
 雷蔵は別の方を、どこか遠くを望んでいた。

「あるいは鬼とは、結局人間のつくったものだよ。どれもね」
「人間が?」
「元はそれぞれ目に見えぬ存在だった。それは例えば人の手には負えぬ現象であったり、自然の摂理であったりするけど、それらに人が名をつけ、様々な解釈を加えて、そうした想像や思念が具象化したものが彼ら。ある時は唯一神として、ある時は八百万の神として、またある時は鬼や魔物として」

 仏はまたちょっと違うかな、と雷蔵は小さく笑う。
 だから土地によって彼らは姿が違う。民によって定義が異なる。あるところでは二つの神が、あるところでは一つだったりもする。

「そんな」

 ユストは戸惑った。足元から土台が崩れていくような、頼りなさと不安感。
 そんな話は聞いたこともない。そんな教えは。

「ではなぜ彼らはあんなにも人に似た姿をしている? 何故人の言葉を喋るんだろう。もちろん中には動物の姿をしていたり、言葉を話さないものもいる。けれど、彼らが交流する相手はやっぱり人だ。彼らの存在に意義を見出したりするのも、人だけだよ」
「……」

 ユストは黙り込んだ。そうだ。何故神は人を愛する? 信ずる者を救うのならば、動物はどうなる。植物は。この世を形成するあらゆる生物が神を理解し信じているのか。
 神は己の姿に似せて人を作ったという。だがそれは本当なのか。
 人が神の姿を模しているのか。
 神が人の姿をしているのか。
 誰が神を欲していたのか。

「人間はね、理由が欲しいんだ。どうして命が生まれ、そして死ぬのか。何故風が吹き、火が燃え、雨が降るのか。天変地異に理不尽な死。それらは、人間には手に負えぬ『誰』かが、何らかの因果によって起こしているって、そう思いたいんだよ」

 そしてできたのが、信仰だ。

「ではあなたは、神を―――それらの存在を、信じぬのですか?」
「いいや? 信じているよ。……もしかしたら、誰よりもね」

 掴みかかるような詰問に、雷蔵はやんわり笑い返した。ユストの顔が拍子抜けしたように当惑を帯びる。
 雷蔵は美吉の方を見る。

「彼の中にいるのも神。今俺たちが対していたあれもある種の神。そして」

 〈龍の民〉が崇め、玉響し(なぐさめ)ていたものも。
 古い思い出の欠片を拾い上げて、雷蔵は我知らず微笑する。

「ああしてちゃんと意思を持って存在している。信じているというより、『いることを知っている』という方が正しいかもね」

 いることを知っている。ちゃんと存在している。でも、人の思念が作りだしたものだという。
 矛盾しているような、そうではないような、よく分からない思いにユストは困惑した。

「神は驚くほど人にそっくりだ。怒りもするし憎みもする。喜怒哀楽がある。ただその基準が人と違って測りがたいのは、大本は人知の及ばぬ森羅万象から生まれた存在だからなのかもしれないね」
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