もういいかい まぁだだよ



 火の粉が金粉のごとく舞い、ごうごうと熱い風の渦巻く中で、雷蔵はなお弦の音に集中していた。調弦はまだ終わってはいない。あともう少し。
 その腕に抱かれているものを認めるや、天目一箇は忌々しげに眉を顰めた。怒りに炎が勢いを増す。

「貴様」

 天目一箇はそれを知っていた。前回目覚めた時は、あれによって封じられたのだ。
 硬化した声音とともに、指を向ける。あ、とユストが思った瞬間、雷蔵の正面でバチッと煙が上がった。
 舌打ちが鳴る。

「水の結界か―――小賢しい」

 雷蔵の周囲でゆらりと景色が揺れる。水の膜だった。いつの間にかその膝前の草の上に開かれた巻物が置かれていた。いつもは白紙のそこに、今はどの国のものともつかぬ文字が綴られている。水に濡れても滲むことのない不思議な墨字。唸り声のような音が天から落ち、見上げたユストの顔にポツポツと滴が跳ねる。

「天水で防ぎ続けられると思うか!」

 膨れ上がる怒気とともに、一帯が蒸気に包まれた。炎が水を消し飛ばす。周辺で火花と煙が次々上がった。風に煽られ、頬や耳にビリッとした火傷の痛みが走る。
 雷蔵はこの神を見るたびに不思議な気分になる。誰よりも人間を嫌悪しているのに、つくづく人間臭い。それは宿主の影響なのだろうか。
 額がじわりと汗ばむ。最後の弦だ。焦ってはいけない。調弦には繊細な微調節が要される。少しでも音階がズレれば、失敗に終わる。

「ふん、まだ準備は整っていないとみえる」

 優勢を見出したかのごとく、天目一箇は目を細めた。山間に紅瞳が爛々と輝いている。

「調弦がすむのが先か、それともその結界が壊れるのが先か―――どちらが早いか試してみよう」

 地表に目に見えぬ稲妻が駆け、ビシリとひび割れる。結界の目先まで断層が至り、地鳴りが襲いかかった。余波を受けて砕かれた木々が横倒しになったところに炎が踊った。不断に降り注ぐ天変地異にも似た襲撃。
 〈秘伝〉の中でも最も強力な水結界のはずなのに、早くもボロボロの状態だった。あとどれほど無効化できるだろう。雷蔵のこめかみから滴が伝った。
 天目一箇が笑いながらゆらりと手を伸ばす。炎と水の争いが再開される。辺りが蒸気で何も見えなくなっても、天目一箇は気にしない。その目を遮るものはこの世には存在しない。
 結界が音を立て破れるのが分かった。にやっと口端を上げる。まずはあの厄介な琵琶を始末せねば。
 楽器に狙いを定めた瞬間、新たに生じた霊壁に隻眼が軽く瞠られた。攻撃の手を止め、蒸気が霧散するのを待つ。
 雷蔵の横で、ユストが肩で息をして脚を踏ん張っていた。片手に十字を握りしめている。
 中空に浮かぶ燐光を放つ円陣の文様に、雷蔵は微かに驚いたように見つめていた。

「なんとか時間を稼ぎます。今のうちに早く!」

 正面をきっと見据えながら叫ぶユストに、無言で頷き調弦の仕上げを続ける。

「異郷の結界術か」

 天目一箇は不愉快そうに瞼を降ろしてつぶやく。

「いつまで持つかな」

 すうっとその手が動けば、結界の上に次々と焔が生じた。
 ユストは眉を顰めて呻く。

「グッ!」

 一つ一つの衝撃があまりにも重い。魔法陣が揺れ、持ち直して、また歪む。腕がじんじんと痺れた。少しくらいは持たせられるかと思ったが、これは予想以上に厳しい。
 ユストは奥歯を折れそうなほど食い縛った。この身を挺してもここは防ぐ。この程度では己のやったことの贖罪にもならないけれど、それでも何もしないよりマシだと強く念じながら、一方で雷蔵の準備が間に合うことをひたすら祈る。

「終わりだ」

 だが低い声色が耳朶を打った刹那、大きな地震が足元を揺らした。眼に見えぬ巨大な爪が斬り裂く。

「うわ!!」

 一際増した負荷と激痛とともに、高い破裂音を放って結界が引き裂かれる。
 その時であった。
 強く、鮮烈にして清冽な弦の響きが、闇を鋭く貫き、振わせた。
 何重にも重なる音が鼓膜を打った瞬間、ユストは心臓を鷲掴みにされた。四肢が竦む。
 そして止めを放とうとしていた神の動きもまた、金縛りにあったかのごとく硬直していた。
 血走る一つ目を大きく剥き、喉の奥から掠れ声を洩らす。

「審、神者……貴様―――

 再度響いた音色に、呻きをあげて震えた。
 これは玉響(たまゆら)の調弦法。ひとたび掻き鳴らせば魂振りを起こす。
 しかし、重ねて弦が鳴ると、動きを止めた神の足元に五芒星が仄かに浮かび紫電を閃かせた。
 それを見て、雷蔵が目を微かに眇める。

「駄目です。召喚時の逆ペンタクルが邪魔をして」

 肩で息をするユストが緊迫した様子で唾を呑んだ。
 なるほど、と雷蔵は得心する。今回の天目一箇目の解放は常と手順が違う。故に先にその理を解かねば、その先へは進めないということか。
 「解き方は?」と術の主へ短く問う。ユストは首を横へ振った。彼にしてみれば、今回の召喚術は異常(イレギュラー)なことばかりだった。このような非常事態の対処の仕方など当然知る由もない。
 力づくでの解呪には無理があるし、下手なことをすれば術師であるユストに跳ね返りかねない。雷蔵は考えた。地に描かれた五芒星は、丁度彼らから見れば正位置になっている。
 これならば話は早い。雷蔵は弦を弾きながら、素早く周辺へと視線を走らせた。

「何か金属を持っていないかい」
「え?」

 唐突な質問にユストは戸惑ったが、すぐに己の手の中の銀の十字架(クロス)を指し示した。

「溶けかかってはいますが」
「金属であれば問題ないよ。今から『悟り』で俺の考えを読んで」

 両手の離せぬ雷蔵がそう言うと、ユストは頷き、耳を『開い』た。そして右に首を巡らし、目的の樹を見つけると、駆け寄ってその幹に形の崩れた十字架を刺した。
 天目一箇は息を切らせながら、音に抗おうとしている。その半端ない抵抗圧を受けながら、雷蔵も汗を浮かべていた。空気中の水気を左の方へ集中させ、呟く。

「五行相克―――散」

 途端に、地面に浮く星の紫電が白光へ転じ、弾け飛んだ。
 驚くユストには何が起きたのかわからない。雷蔵は異国で闇の印とされる逆五芒星を、五行の理に転換し、(えき)を消しただけだ。晴明桔梗は条件さえ満たせば基本的に向きは関係ない。神の背後には炎があったし、木と土は至るところにある。あとは水と金を等位置に配して咒を放てば、五行相克図が完成する。
 首尾よくいったのを認めて、雷蔵は改めて息を整える。これでようやく始められる。

「人間どもめ……殺してやる……」

 絶え間なく耳朶を打つ音響に、法衣に覆われた身体が打ち震える。
 雷蔵は神を見ていなかった。伏せるように視線を落としたまま、撥と一体になった弓を持った腕を、すうっと上げる。

「招かざる神よ。これより神送りの儀を行う」

 厳かに紡ぐ詞を開始として、弓が弦に触れる。

「やめよ」

 天目一箇が怒号を上げる。だが流れを受けた雷蔵の手は止まらなかった。


  それこの世は()にして()にして()なれば

  (あめ)に天あり根に(つち)あり(なか)霊処(ひと)ありと申し給う

  それ各々の己が宿りし処あれば

  天に高原(たかはら)、根に黄泉(よみ)、中に芦原と申し給う

  (こと)(とこ)の相にして常は異の反

  逆しまして対なるは理たるが所以なり


 時に力強く弦を弾き、時に汲と柔らかに弓引く、流れるような調べ。
 楽器の紡ぎ出す二種の音響と、歌声が生み出す独特の旋律が、周囲の自然と共鳴し、調和し、絡み合い、超然とした曲調へと昇華する。
 幾重にも重なり、途切れなく連なる和音が天に溶け、地に染み、一帯を埋め尽くした。

「くそ……」

 天目一箇は両手で頭を抱え、堪え切れず草地に膝をついた。
 呼吸を乱し、悶えながら、震える腕を伸ばそうとする。相貌を険しく皺寄せ、いっそ鬼気迫る形相で、祭司を睨んだ。雷蔵の頬と腕を炎が掠め、じゅっと焦がすが、瞑目した顔は僅かにも色を変えず、曲は流れ続ける。荒々しい狂魂の気と、禍々しい殺気が膨れ上がるが、悉く調和のうちに相殺されていく。


  さても掛巻も畏き天目一箇神よ

  禍もたらし身魂の淨め祓いの事

  其の神力も以って成し給う


 息吹が草木を揺らし、水雫が熱された空気を冷やす。それにつれて、周囲を取り巻いていた息苦しい気配が静まる。
 蹲って唸る神から神威が失せ、瞳から赤い光が急速に消えていく。

「わ、私はまだ……」

 抗おうとした神の脳裏に閃光が弾け、色鮮やかな光景が怒涛となって溢れる。ユストは無差別に駆け抜ける記憶の濁流に呑まれた。
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