行きはよいよい 帰りはこわい
怖いながらも通りゃんせ




 山陰の地に、古い神の息遣いが色濃く残る国がある。外つ神との戦いに敗れた、土着の神の郷。輝と闇が交わる混沌の国。出鉄(いずも)の土は鉄を産み、出雲の火は鋼を育てる。そして稜威母(いずも)の民は皆たたらの申し子だった。
 採掘、踏鞴、鍛冶、鋳物と分担される製鉄業の中で、彼の父親は鍛冶を担っていた。たたらの場と神は女を嫌うから、母を含める村の女たちは周りでできる範囲で手伝いをしたり、畑仕事や内職をしたり、出来上がった鉄を市に売りに出たりしていた。
 神が息吹く地で、時はゆったりと流れてゆき、暮らしは順風で、何の問題もないはずだった。
 そう、そのまま平和に過ぎるはずだったのだ。
 それは彼が六つの誕生日を迎えた頃だった。
 雨の降る中、村人が急に慌ただしくなり、村全体がただならぬ雰囲気に押し包まれた。
 村の家々では、男たちの帰りを待つ妻とその子どもたちが、身を寄せ合うようにして布団にくるまっていた。

「ねぇ、(あん)ちゃん」

 小さな頭がもぞりと動き、隣に眠る二つ上の兄をうかがう。

「なに」
「大人たちは何を話しているんだろう」

 子供たちにも村を包むピリピリとした空気を敏感に感じ取っていた。
 雨音から隠れるように、ひそひそ声で話す。

「おとう、大丈夫なのかな」

 幼い弟は怖がりだ。
 兄は眠たげな眼をそっと細めて、わざと明るく言った。

「なんだよ。ただの寄り合いなんだからすぐに帰ってくるって」
「でも俺達、大丈夫なのかな」
「まったく怖がりなんだから。何も心配することなんかないって。明日になったらまたあのおっかない顔で起こしてくるよ」
「いつも通り?」
「そうだよ。だから早く寝ろ。明日は魚釣りに行こう」

 弟を励ますように力強くうなずく。
 ようやく安心したらしい弟は、そっかあとホッと息をつくと、すぐに健やかな寝息を立て始めた。
 隣にぬくもりを感じながら、兄も目を瞑った。
 大丈夫、きっと何事もない。この穏やかな日々は終わらない。明日も明後日も、いつも通りだ。
 胸を蝕む気持ち悪さを塗りつぶすように、何度も唱えながら眠りについた。




 村の男たちは村長の屋敷に集まっていた。

「どういうことなんだ!」

 村の男が腕を床に叩きつけて怒鳴る。遠くで雷が鳴っていた。

「なぜ今更になって……」

 別の村人が、苦しげに唇を噛み絶望的に戦慄く。

「朝廷の奴ら、かつて散々我らを虐げておきながら、またこんな無理難題を突き付けてきやがって」

 神祇官がこの出雲国の社へと通達してきたのは、思いもよらぬ条件だった。

『昨今国を乱す風潮はなはだしく、正統なる祭祀を怠り、却って妖しき鬼神を奉る向きのあること久しきとの由あり。拠って是に以って正統ならざるを祭神とする社を取り壊し、民は今後天津神を除く祀り事を一切禁ず。ついては各社にて奉納したる神体を即刻差し出すべし。抗えば叛逆と見なし、一族郎党悉く連座にて刑に処す故、よく心得べきこと、仍って執達件の如し』

 この布告は出雲国でも特に製鉄を生業とする集落に出されているようだった。

「正統ならざる神ってのは、まさか国津神のことか」
「言いがかりだ! 確かに国津神の祠もあるが、天津神の天目一箇や金屋子神だってちゃんと祀っている。大体、神話では国津神はすでに国譲りの時にて恭順を示したことになってるはずじゃないか。今更それを妖しい鬼神だなんて」
「いや、朝廷はそんな理屈などどうでもいいのだ」

 伝達を持ってきた村長の息子は悔しげに呻いた。

「ただ口実が欲しいだけだ。ただでさえ今や朝廷は戦乱のために国々の統制が取れていない。そして俺たち出雲族は、戦で必要な武器の生産に携わっている。俺たちの存在を危ぶんでいるんだ」
「だからと言って、神を取り上げることに何の意味が」
「質だろうよ。俺たちにとって何よりも大切なモンを担保にして、締め付けようとしてるんだ」
 片足不具の男が杖で強く土間を突く。

「黙ってこの仕打ちに耐えるわけにはいかねぇ!」
「ああ、そうだ!」

 がやがやと同調して興奮する男たちに水を差したのは、中央に座す老爺だった。

「落ち着け。早まるでない」
「村長!」
「だがこのままじゃ……」
「それでも朝廷に真っ向から反抗するわけにはいかぬ。一度でも賊と見なされれば我らはお終いじゃ」
「ではどうすればいいのですか!」
「俺らが守ってきたあれを渡すのですか!?」
「あれは渡すことはできぬ」

 刻まれた深い皺は微動だにせず、白い眉の下目が絢爛と光る。

「あれだけはなんとしても守り通さねばならん。何としてでも」
「なら……」
「御神体はすり替えればよい」

 一同は、村の外れに位置する楽々福の祠に治められた一振りの太刀を一様に脳裏に描く。

「あの太刀は……否、あの太刀に封じられた神は、先祖代々この村でひそかに守ってきたものだ。もしもあれが他者の手に渡れば、どんな禍が引き起こされるか分らん。所詮中央から派遣されてくる神祇官では、本物の御神体か否かなど判断はつくまい」

 隠すのだ。老人は言った。

「だが爺様、たとえ隠し通せたとしても、楽々福(ささふく)の祠を壊されちまったら封印はどうするんだ」
「そうだ、あれには楽々福の封印がなければ」
「人の身に移すのだ」

 人を掻き分け現れたのは、村に残った壮年の(かんなぎ)だった。

「人の身にだって?」
「生きた人間の身を器としその魂を封印となせば、神は必ず再び封じられる」
「だが一体誰の身体を……」
「封印の器は生まれながらに楽々福神の加護と()ぎを得た者でなければならない」

 そうでなければ、神魂に器が負ける。

「楽々福の? それは一体誰なんだ」

 涙の跡を残し、怪訝そうに問う村人へ、申し渡された一言。

「占では丙午(ひのえんま)の年、丙申の月、庚申の日生まれの男子(おのこ)と出ている」
「子ども!?」
「子どもを犠牲にするっていうのか!」

 残酷な現実に皆居た堪れず苦悶する。
 だが重苦しい空気を割るように、誰かがおずおずと訊いた。

「丙午で庚申生まれ……一体誰なんだ」

 子供のいる家は多い。互いに見回す村人の中で、顔を真っ青にする男が一人いた。
 かたかたと震える唇を開く。

「ま、まさか……」

 会衆の目が男に留まった。

「そう、お前の息子だ」

 死刑宣告にも似た言葉だった。男は顔を歪ませる。

「そんな、俺の息子が―――何で!」

 泣き声にも似た悲鳴だった。

「やるなら俺を、俺の身体を使ってくれ!」
「大人はだめだ。世俗に汚れてしまっている」
「でもあいつは、息子はまだ六つなんだぞ!」
「だからだ。『神の内』にいる子供だからこそこの任に耐えうるのだ。そうでもしなければ御神体は守りきれない」

 そんな、と男は愕然とした。

「時はない。明日の夜にでも儀式を行う。良いな」 
「これが村を守るためなのだ。堪えてくれ」

 村長に厳かに告げられ、男は床に蹲ると声なく打ち震えた。
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