不意に足を止めて、雷蔵はそこに立つ太幹の樹を見上げた。根も太く、相当の樹齢であろうことが分かる。
 何も言わずに急に樹の根元に腰を下ろし、楽器の固定具を取り外して転手(いとまき)を回し始めた彼に、ユストは怪訝と焦燥を滲ませた。ここで悠長に楽器で遊んでいる場合ではないはずだから、恐らくこれは考えあってのことなのだろう。口をはさまずに見守るしかなかった。


 ―――ひとたび降臨した神霊を、あるべきところへ送るのも審神者の役目。

 雷蔵は閉じていた瞼を開けた。

「俺はこれから調弦に入る」

 龍弦琵琶は普段は厄祓いの音階に固定されている。しかしこれから行うのは、神に対するための特殊なものだ。
 だからこれ以降は話ができないと、言下に告げる。

「……」

 準備に取り掛かっている頭部を見下ろしユストは少し迷い、そして零した。

「私は、間違っていたのでしょうか」
―――……」

 間違っていたのだろうか。
 何もかも。目的さえも。

「さあ」

 ため息のような、ささやかな声。

「その答えを、俺は君に与えることはできない」

 弦を締める手を止め、雷蔵は首を上げて青年の顔を見た。
 何が正しく、何が誤っているかなど、誰が何を基準に決めることなのか。
 ユストは緩く微笑を刷いた。力が抜けたような顔だった。
 それは、己で探すべきものなのだ。
 雷蔵は双眸を伏せ調弦をはじめていた。微細な音の違いを聞き分け、慎重に的確に整える。
 相当な集中力を察知して、ユストは邪魔にならぬようそっと下がり、根の上に腰を下ろした。




 「フェレイラ」は鍛冶屋。ユスト・デ・フェレイラは鍛冶屋のユストという意味だった。
 田園の広がる穏やかな、小じんまりした村だった。家は村のはずれにあり、父は毎日生活に必要な鍋や道具、武具を作った。母はお菓子作りの名人で、よく二人の弟と妹たちと分け前で喧嘩した。
 静かに暮らしていた、ある日。
 すべてが奪われた。
 友達と狩りから戻ったユストの前に広がっていたのは、焼け、打ち壊された家の惨状と、人の消えた村。
 村人は、突然やってきたどこぞの修道院の騎士団につれてゆかれた。
 そのまま、誰一人として帰ってくることはなかった。

 後に、小さな村を襲ったのが魔女狩りであったことを知った。
 ユストの家のある隠し扉の中には、男神と女神の像が飾られていた。村人は知恵と破壊の火と、恵みと再生の風を尊び、毎朝毎夜祈りをささげていた。年に一度豊作の呪いも行っていた。夜間の特殊な儀式で、子どもは参加を禁じられていたが、どうやら男女が全裸で執り行う類のものであったらしい。生殖と豊穣を関連付けた古い風習だった。
 それが教会の目に触れたのだった。

 村人は有無を言わさず連行され、女子供関係なく拷問され、異端審問にかけられて、処刑された。
 たまたま難を逃れたユストを含む数人の子供だけが、残った。
 愕然として村にいた彼らを残党狩りの騎士たちが見つけ、つれてゆこうとしたところに、司祭ロレンソがたまたま通りかかったのだった。
 ロレンソは子供たちを憐れみ、騎士たちから秘密裏に、半ば強引に引き取った。

「子供たちは清らかな罪なき存在です。イエスも天はこのような者たちの国だとおっしゃられている」

 憐れみ深い慈愛の神父、ロレンソ。彼は確かにユストたちに良くしてくれた。暖かい部屋と食事と清潔な衣服を与えた。初めは悲しみ憎んでいた生き残りの仲間たちも、一人また一人と心から修道院の教えに傾いていった。
 ユストもまた、懐柔されかけた一人だった。
 ロレンソとその修道院に恩返ししたくて、ユストは懸命に努力した。優秀だったユストはめきめきと頭角を現し、若くしてすぐに協会の幹部にまで抜擢された。誇らしかった。教会のためにこの身を捧げようと神に誓った。

 だが、そこで見たものに、見せられたものに、ユストは絶望を知った。
 裏でやり取りされる不法な取引。賄賂を受ける腐敗した聖職者たち。そして何より、異なるものを悪として排除する教会。地下室で行われていた残酷極まりない拷問の数々と、理不尽な裁判。
 そしてユストは己の村を滅ぼしたのが一体何だったのか、真相を知ったのだった。

 教会は、教会の謳う神や教義に反するものを徹底的に弾圧していた。古来土着の信仰を持つ民や、異教徒たちに悪魔や魔女の烙印を押し、処分する。
 どこにでもいる素朴な少女が拷問にかけられ泣き叫ぶ姿を目の当たりにしたユストの胸に、収まっていたはずの炎がくすぶった。村を、家族を、幼い兄弟たちまでをも手にかけた、教会というものへの憎悪が芽生えた。思えばユストの復讐は、そこからすでに始まっていたのだ。

 それでも表だって不信感をあらわにすれば異端審問にかけられてしまう。だからユストは表面的には改心し従順なふりを装い続けた。だが一度憎しみを思い出した心は二度と教会には傾かなかった。誇り高き火と風を奉る民として、顔はマリア像に微笑みかけながら、胸ではその姿に刃を突き立てていた。

 だが復讐心は次第に強さを増し、身を焦がし始める。覆い隠せぬほどに膨れ上がった黒い感情を持て余していたある時、一人聖堂のマリア像の前に伏しながら念じていた。傍目には敬虔な僕にうつっただろう。だが祈りの先は、別の神に向けられていた。教会の偶像を前に、心で異なる神を崇めることに愉悦感を感じた。

(神よ、我が神よ。私はどうすれば良いのでしょうか。どうすればこの腐った教会から世界を救えるのでしょうか)

 念じ念じ、その時だった。
 異変を感じて顔を上げたユストは瞠目した。
 マリアの像の目から、黒い涙が筋を作って伝い落ちていた。頭の中に声が聞こえた。

 ―――力を呼べ。絶対なる神を

 初めは信じられなかった。姿なき声はまるで空から降り注ぐようにユストの耳朶を打った。

「絶対なる、神?」
 ―――絶対なる神を
「それは一体」
 ―――それは破壊と浄化の神
「そ、その神はどこにおわすのですか」
 ―――古き神の息遣いが宿る国。未だ汚されぬ最果ての地。
「それはどこにあるのですか」

 ガタッと音が立った。ユストは再度大きく目を見開いた。
 飾られていた天使の像が、一斉に一つの方角を向いていた。
 その指し示す方角を見て、ユストは呟いた。

―――東?」

 最果ての地。未だ古き神の息遣いが残る国。太陽の昇る本。
 この啓示の日を境に、ユストは人の心を聞きとることができるようになった。間違いなく目に見えぬ神の意思が働いていると、ユストは希望を見出したのである。
 そうして長い海の旅を経て、この国の土を踏んだ。




 ビィンビィンと、細かく弦の震える響きが木霊する。人工音なのに、不思議と自然に溶け込んでいた。
 すべてはあの時から始まっていた。あの、マリアの涙から。
 ロレンソを手に掛けた時、ユストは悦んでいた。ロレンソは確かに慈しみの心を持ってはいた。けれどそれは、教会と神への盲信の上に成り立っていた。ユストたちを引き取りながら、心のうちで悪魔に魅入られた民と憐れんでいたのだ。教会と教会の崇める神以外は認めない。『悟り』の能力を手に入れたユストは、それを知った。知って、更に憎悪に胸が苦しくなった。それまで父と慕ってきたロレンソが、偽善者としか思えなくなった。
 許せない、許せない、許さない。
 皆狂っている。
 それとも狂っていたのは自分の方?
 あの声を神と思ったのが、そもそもの間違いだったのだろうか。
 私は騙されていたのか。

『少なくとも美吉はあれを起こしたくはなかったと思うよ。怖がっていた。とても、とてもね』

 ユストは膝を強く抱えた。呻く。今更この手にかけた人の命の重さが後悔とともに圧し掛かった。
 そこに、ぞわりと寒気が走った。
 弦を弾く音も止んでいた。

―――!)

 闇がそこで嗤っている。
 次の瞬間、周囲の木々が燃え上がった。
 そして体の芯から底冷えする声音。

「鬼ごっこはもう終わりか?」

 審神者よ。
 黄金に輝く炎を背に、赤い目が嗤った。
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