鬼さんこちら 手の鳴る方へ




 階段の最上階の扉を開き、地上に出れば、身の内に秘める〈秘伝〉に力が漲ってくるのを感じた。
 扉を振り返り、大気を使って二度目の封術を施す。だが『空気』は木気だ。火気を増幅し、金気に剋される。すぐにも破られてしまうだろう。
 飛び出してきた二人に何事かと驚き、尋常ではない様相に戦く。ユストは手あたり次第すぐにこの寺を離れるよう呼びかけた。

「人気のない方はどっちだい」

 寺を駆け抜けながら、雷蔵はユストに問う。

「裏手が山になっていますが……」
「好都合」
「逃げ込む気ですか」

 息切れしながらユストが問う。重症の腕を抱えて、よくもここまで正気を保って付いてこれるものだ。

(あれ)審神者(おれ)を追ってくる。人がいると色々とやりづらいからね」

 神を査定し取引を行うのが審神者。神は審神(さにわ)されることで存在を認識され、人の世に留まることができる。
 ちらりとユストを一瞥し、

「君もついてくる気?」

 雷蔵としてはユストを都合上あの場から助けはしたが、最後まで付き合えと強制する気はなかった。ユストが別の方へ逃げるならばそれでもかまわない。むしろその方が、今はユストに合わせている走速をもっと上げることができる。
 ユストは唇を引き結んで前を見つめた。

―――……」

 無言のうちに肯定を捉えて、それ以上雷蔵も何も言わなかった。
 裏口から出て雑木林に入ると、やがて鬱蒼と茂る草木に比例し地面が勾配する。ユストはぜいぜいと喘ぎながら滝のように落ちる汗をぬぐい、雷蔵はユストに合わせながらもすいすいと上っていく。単衣の裾が土に汚れるのもかまわない。
 やにわに背後でボンッと破裂音が立つ。熱い空気につられ振り返れば、夕闇に沈む屋根が炎上していた。

「カザが……」

 呆然とするユストの後ろで、雷蔵はすばやく計算した。相手は神とはいえ、今は生身の人間の器に入っている。こちらの位置を特定することはたやすいだろうが、一瞬で空間を移動することはできない。それでも追いつかれるのは時間の問題だった。
 だからといって追いつけぬほどに遠方へ行けば、業を煮やした『神』は当たりかまわず癇癪をぶつけるだろう。微妙な距離感を保ちつつこちらにひきつけなければならない。
 雷蔵はおもむろに足を止め、手を伸ばす。意識を研ぎ澄ませ、糸を手繰り、念じた。

―――『来い』)

 いなや、突如宙空に大きな塊が出現した。目を剥くユストを尻目に、雷蔵は重みも大きさもあるそれを片手で危うげなく捕える。

「それは―――

 独特の形をした楽器は、あの琵琶だった。よく見ると、楽器の先、海老尾と鶴首の境に、何やら巻物らしきものが深紫の組み紐で結び付けられている。
 ユストの当惑や疑問を余所に、雷蔵は木の根元に座り込んで巻物を取った。それを懐にねじ込み、『解紐』と口の中で唱える。〈秘伝〉が熱を持った。
 再び早足で獣道を上りながら、天空の気を探る。
 手で招くように、掻き込むように。

(捉える、紡ぐ)

 空が薄暗くなる。元より宵へ向かっている時刻だが、更に暗く。重々しい黒雲が見る間に集まり、頭上を埋め尽くす。
 理の文字を追いながら、すうっと人差し指を伸ばし、払った。
 カッと天が光った。かと思えば、次にはドンッと地響きが襲いかかった。

「っ、これは!」
「早く奥へ」

 愕然と口を開けて落雷した方角を見るユストを先へと促し、雷蔵は後ろ向きに獣道に分け入る。しきりに背後をうかがい、間隔を開けてドォンと轟音が落ちた。時には間をおかず連続で。それが追ってくる者を狙ってのものだと察したユストは、あまりの容赦ない攻撃にいささか不安げに問う。

「手加減なしですね……大丈夫なのですか?」
「本気でやらないとこちらが危ないからね。まあ一応ぎりぎりで制限しているし、万一当たったとしても大丈夫だろ」

 うかうかと当たるような可愛げのある神様じゃないけどね、とは心の中で呟く。雷は牽制と誘いだ。気配を追えば、遠くで確かにこちらを目指す神気を捉える。
 やがて葉の層が深まり、闇が濃くなる。しんとした静けさの中を、虫の音がささやかに鳴っている。ユストが紡ぐ世話しない呼吸音だけが、歓迎されぬ異物のように響いた。

「あれは、神なのですか……」

 ポツリと、問いかけが零れた。

「……そうだよ」

 沈黙ののち、雷蔵は正面を向いたまま答える。

「でも、私が呼んだのは、あれは―――あのようなものが」

 まるで災厄の塊。あれを神と呼ぶのか。

「それでも、紛れもなく神だ」

 感情の窺えぬ声音が、虚空に溶けゆく。

「君はこの国の神というものを知っているかい?」
「浅薄な知識ではありますが……無数の神がいるのでしょう」
「そう。でも重要なのはそこじゃない」

 雷蔵は足を止めず歩き続けた。そのたびに草を踏む音が立つ。背中に怪訝そうな視線を受けながら、

「他の国は知らないし、君が如何考えているか知らないけど、少なくともこの国の神は、すべてがすべて善なるものというわけじゃないんだ。何も恵まないし、何でも願いを叶えてくれるわけでもない。神はね、気まぐれなんだよ」
「気まぐれ」
「気が向けば与えるし、気に入らなければ奪う。そこには良心も躊躇いもない。光も闇も兼ね添え、喜びもすれば悲しむし、怒りもすれば愛しもする。そういう存在」
「それではまるで―――
「人間みたい、だろ?」

 くすり、とその時初めて雷蔵は笑った。

「そうだよ。神は人間のように千差万別の感情と性格を抱く。そして童子のように純粋で残酷だ。けれど人と違うのは、そこに法則性はないってこと。いや……俺たち人間の認識は通用しない、っていうべきかな」
「私が喚んだ、あの神も?」
「そう」
「あなたはあの神を知っているのですか? 彼はあなたをサニワと呼んでいました……あなた方は一体」
「彼―――彼女というべきなのか分からないけど、まぁ色々と因縁があってね」

 嬉しくないことに、と小さく付け加える。邂逅は二度目だ。一歩手前ならば更に多い。

「……私は、救いをもたらす主だと、そう信じて……」
「裏切られたって?」

 図星を突かれたか、ユストは黙り込んだ。

「言っただろ。神は気まぐれだ。考え方も何もかも、俺たちの物差しでは測れない。君がどうやって美吉の中のあれに気づいたかは知らないけど、神の中には迂闊に触れてはならぬモノがあるんだよ。だから厳重に封じられていた」

 だから『約束事』がある。古の人々はそれらを見出し、それに則ることで、神との取引の方法を確立したのだ。

「あれは……・あれは何なのですか」

 問う声は不安げに揺れた。
 雷蔵は短い逡巡ののち、

天目一箇(あまのまひとつ)

 凛と虚空に放たれた名に、異人の青年はその碧眼を開閉させた。名そのものが霊魂を宿しているかのごとく、林間の筒闇がざわめく。

「眇目の作金者(かなだくみ)。金屋子神と婚姻によって結びついた、鉄と火の荒ぶれる神だよ」

 天目一箇神は刀斧と鉄鎚を授けた鍛冶(かぬち)神。金屋子神もまた鍛冶屋の神、特に火の神として崇められ、女神とも男神ともされる。両柱は別々のものとも同一のものとも見られているが、美吉が身体に宿す天目一箇の神霊は、金屋子を妻として融合し、男神と女神が一つに交わったものだった。それは彼の生まれ育った村で、そう信じられてきたからだ。
 美吉は出雲の血筋だ。元から『資質』があった。
 雷蔵はユストへ向けて己の右眼を指さしてみせる。

「美吉は一方の眼を瞑っていただろう? あれは片目の神だからだよ。美吉自身、普段左眼はほとんど見えていない」
「え?」
「視力がないというよりも、蓋をしているんだけどね。見ようと思うと色んなものが視えてしまうらしいよ。天目一箇の影響で」

 天目(てんもく)は真実を見抜く神眼。美吉が『悟り』に似た能力を持つのはそのためだ。封じられている神力の片鱗が滲みだしているのである。だがそれは、出所が神気であるがゆえに『悟り』よりももっと強力であり、望むと望まざるとにかかわらず、視界に入れるものすべての真を視てしまう。人の過去も、物の記憶も、事物の構造さえも。その情報量は、普通ならば人の脳では追いつかない。美吉は〈秘伝〉継承者としての修行のおかげで、力の根源である金気と火気を制御し、自在に操っていられるのである。それまでは眼帯で視覚を封じることで何とかしのいできたと、かつて語っていた。

「蹈鞴や鍛冶を生業とする者は仕事柄、片目片足の不具者が多い。瞳の赤さは火の象徴だ」

 製鉄には火が欠かせず、火の眩しさによって片目を痛め、眇目となる。蹈鞴は片足でふいごを押すために負担がかかり、悪くしてしまうのだ。一つ目一つ足の妖は、鍛冶神の化身だとも、零落した姿だとも言われている。
 鍛冶神は荒神だ。金気と火気は、死や血を掌る。金屋子神などは生よりも死を好むとさえいわれる。だからほかの神に比べてもずっと好戦的だし、負に近い。
 特に美吉の内に巣食う魂は、長い年月にわたって人の手により拘束され続け、今はまた人の身体に封じられている。元々の暴虐性に、鬱憤と怒りが拍車をかけ、覚醒と同時に爆発する。破壊に愉悦を見出すのである。
 天目一箇神は自由を欲している。解放されたくてたまらないのだ。

 通常霊媒に下ろされる神は、交流を終えるとすぐに去る。元々別次元の存在である神が人の身に宿り続ければ霊媒の精気を奪い、寿命を縮めるため、長時間留まることは叶わないのである。
 だが美吉の場合は違う。彼は普通の依坐とは異なり、神は彼の魂そのものに封印されている。審神されれば、神は器を乗っ取り永久に君臨することができるが、名を呼ばれぬかぎりは存在を認められたことにならず、一日で再び自動的に眠りにつく。そういう『約束事(しくみ)』の中にいた。
 しかし一日でも放置すれば、取り返しのない災いを引き起こすのは必定。

「怒っていますか?」
「何を?」
「警告を聞かずに、解き放ってはならぬものを解き放ってしまった私を」

 貌に陰りを落としながら、ユストは静かに尋ねた。

―――一度起きてしまったことはもう取り消せない」

 だから起きてしまったことを色々と言ったところで始まらない。
 前を向いたまま雷蔵は言った。「ただ」
 蒼い眸が持ち上がった。

「少なくとも美吉はあれを起こしたくはなかったと思うよ。怖がっていた。とても、とてもね」

 雷蔵の瞳の裏に、必死に助けを求める姿がよみがえる。「どうか救ってやってくれ」と言った、彼の師の遺言も。
 そう容易く取り乱したり弱音を吐かぬ男が、あんな風に懇願したのだ。頼む、助けてくれと。
 美吉はいつだって内に巣食う神の影に怯えていた。普通に暮らしている分には決して揺らぐことのない頑丈な封印と、〈秘伝〉を持ちながらも、何時か何かの拍子にそれが破られてしまうのではないかと、不安を抱えながら旅していた。
 ユストは無意識に唇を噛みしめた。初めて罪悪感が胸を疼かせた。
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