あぶくたった にえたった
にえたかどうだか食べてみよう
むしゃむしゃむしゃ まだにえない



 一転してふつりと沈黙した美吉に、手ユストが勝利を確信し笑みを浮かべる。

〈覚醒めの時だ〉

 がくん、とその身体から力が抜け落ちる。
 同時に浮かんでいた水の呪がパチッと閃光を放ち、かき消えた。
 すべてが終わると、にわかに静けさが漂った。
 成功の手応えに興奮が抑えきれぬのか、ユストは数拍ほど呼吸を整えた。それから静かに台に側寄り、期待と緊張に震える声で囁いた。

「さあ、お目覚めを……救い主よ」

 反応はなかった。ユストは固唾を飲んで辛抱強く待った。
 やがて、放心したような美吉の唇が動いた。ゆっくりと弓形に持ち上がる。
 刹那、ユストの背筋がぞくりと騒いだ。

「いけない―――離れろ!」

 呆気にとられた破落戸の手が緩んだ隙に、声を取り戻した雷蔵が叫んだ。
 否や、棒立ちになっていたユストの右腕が、燃え上がった。

〈え?〉

 笑みを貼りつかせたまま、ユストはしばらく己の身に起きたことを理解しようとした。呆然と炎に包まれる己の手を見つめる。

―――うわぁぁあああ!!!〉

 絶叫を上げ、のたうちまわった。火を消すべく当たりかまわず腕を打ちつける。祭壇に当たり、供物がばらばらと床に散らばった。

「ふ、くくく……あはははは!」

 哄笑が、台の上から発せられた。
 激痛に喘ぎ、びっしょりと汗を流して、ユストはそれを凝視した。押さえた腕がカタカタと震えている。台を中心に放たれる圧倒的な気配に声が出ない。呼吸さえままならぬほどの畏怖と神威―――
 ゆらりと上体が起きる。顔にかかる前髪に表情は見えず、覗く口元だけが鮮やかに浮かぶ。

「『呼ば』れるのは何時ぶりか。さて、私を起こしたのは一体誰だ?」

 悠然と身体を伸ばして、髪をかき上げた。
 そこに煌めいていたのは、燃え上がるような鮮紅の左眼だった。




 生き血のように赤く、紅玉のように鮮やかな虹彩。
 現れた面は確かに美吉のものなのに、宿る表情はまるで別人だった。愉快そうに口の端を上げ、右眼は閉じている。残る隻眼でぎょろりと周囲を見回し、左に固まる数人を視界に捉える。その一瞬だけ、何とも言い難い表情をして、ふうんと皮肉気に鼻を鳴らした。
 異形の注視を受けた破落戸は大仰に慄いた。子分の方がひ、と喉を鳴らす。
 『それ』は己の胸元に揺れる異物に気づくと、鼻で一笑し、造作なくぶちりと引き千切った。見もせず抛りながら、滑らかな動きで足を台から下ろし立つ。一度足裏の感触を確かめるようにしてから、ゆっくりと歩を進めた。

「な、なんだぁ貴様!!」

 頭目の男が棍棒を手に怒号を放った。だがその目は畏れと怯懦に揺れ、歯の根があっていない。近づくほどに、まるで陸に揚げられた魚のごとく空気を求めて喘いだ。強烈な神気は徒人の魂魄には毒となる。

「敵う相手じゃない、早く離れろ」

 『それ』が見ているのは一点のみだった。破落戸の存在など露ほどにも目をくれていない。逃げるなら今の内だった。
 だが破落戸たちはすっかり気が動転しているのか、雷蔵の叱咤に耳を貸さない。
 その間に間近まで迫った影を、ハッと見上げる。
 己とよく似た墨染の衣が佇みながら、面白そうに片目を細め、観察するように眺め下ろしていた。

「こンの、化け物が!!」

 興奮と恐怖が頂点に達した頭目の男が懐刀を閃かせて襲いかかる。
 しかしその刃は獲物に届かなかった。空中で固まった得物に男が瞠目して唾を呑む。

「な、なんだこりゃあ」

 いかに力を込めようとも、凍りついたように動かない。
 その時、初めて気づいたように『それ』は男を視界に入れた。

「この私を鉄の刃で傷つけんとするとは、笑止」
「やめろ、美吉」

 静かに、だが強く発せられた制止に、彼は一瞥を向けただけで黙殺し、射竦み、怯えて震える男たちへと鮮やかに笑いかけた。

「目障りだ。消えろ」

 そう言い放った瞬間に、二つの火柱が立ち上った。断末魔さえも呑み込む豪炎は、一瞬にしてそこに息づいていた存在そのものを、跡形もなく消し去った。

―――……」

 炎に照らしだされる横顔を、雷蔵は淡然と仰ぐ。
 相棒の姿をしたそれは、喉を震わせて腰に片手を当てた。

「無様な姿だな、審神者(さにわ)よ」

 美吉の顔と美吉の声で、『それ』は言った。
 雷蔵は答えず、ただ真っすぐ視線を向けつづける。と、その手首の枷が見る間に液状に溶けた。拘束を失い両腕が落ちる。
 それでも身動ろがぬ相手に、片目が瞬く。

「ふん、無粋なモノを」

 片膝をついて手を伸ばし、首から下がっている銀の十字架を剥ぎ取る。繊細な音をたてて鎖があっさりと切れた。

「さても久しや、審神者よ。よくも度々に渡り邪魔をしてくれたものだが、己の役割は分かっておろうな」
「ああ、君を封じることだ」

 はっきりと返した雷蔵に、『それ』は微笑み、卒然とその首を掴んだ。

「相変わらず可愛げのないことだ。余程痛い目に遭いたいとみえる」
「どうあろうと答えは変わらない」

 雷蔵は正面から紅い隻眼を見据えて一歩も引かない。
 ぐいっと、そのまま片手で引っ張られる。足が地から離れ、高く持ち上げられた。

「名問いをせよ」

 厳然かつ冷徹に命じる。
 容赦なく喉を握られ、顔を僅かに歪めながら、雷蔵は締め上げる腕を掴む。

「……美、吉」

 徐々に血が上る頭で、辛うじて絞り出す。

「それは器の名だ」
「いいや、名は、美吉だ。その身も、魂も―――くッ」

 そのまま、ガツンと壁に力任せに叩きつけられた。脊髄の衝撃に息が止まり、脳が揺れる。

「忌々しい」

 怒りが増すとともに一層強くなった締め付けに、雷蔵は苦しげに瞑目して耐える。血管が沸騰し、傷がずきずきと痛む。脳が膨張して頭が破裂しそうだ。

「名を問え。我が真名を呼べ!」

 ビリビリと空気が振え、憤気が鎌鼬となって辺りを切り裂く。息苦しいほどの神威は、常人ならばとっくに失神している。

―――……」

 しかし、どれほど威嚇しようとも一向に反応のない相手に、ついに『それ』はチッと舌打ちをし、乱暴に手を放した。
 受け身を取る余力なく雷蔵は地面に落ち、喉を押さえ激しく咳き込む。

「相も変わらず強情な」

 蹲る背を睥睨し、苛立たしげに吐き捨てた。
 ガタンッと、その背後で音が立つ。喉の痛みと苦しさを抑えて雷蔵は瞼を薄く開いた。

「か……神、よ」

 ユストが台に縋りつきながら、弱々しく声を揺らす。受けた傷は相当に深いようだった。だらりと下がった左腕は重い火傷を負って爛れていた。
 だがその激痛の中で脂汗を浮かべながらも、ユストは懸命に首を上げ無事な方の手を伸ばす。

「破壊と浄化を掌る神よ、貴方を喚んだのは私です」

 『神』が、ようよう首だけで一瞥する。片方だけ開かれた目は、冷たい血の輝きを帯び、虫けらを見るようだった。どんな感情も乗せていない。

「神よ、私が……私は貴方様の力を欲しております。どうぞ御名をお教え下さい」

 だが『神』は早々に興味を失したかのように首を元へ戻した。動かぬ獲物を蹴りつける。

「お前は審神者ではない。名問いに意味はない。失せろ」 
「そんな! 貴方を解き放ったは私なのです。どうか契約を」
「二度は言わぬ。去ね」

 ユストの鼻先で風が鳴り、台に深い溝が刻まれた。まるで目に見えぬ鋭利な刃で抉ったような痕。
 振り向きもせぬままの一喝に、ユストが瞳を瞠る。

「そんな……それでは話が違う! 私は一体何のために―――
「何を勘違いしている、人間」

 唇が嘲りを帯びて持ち上がる。

「私はお前のことなど知らぬ。人間(おまえ)が何を望もうが興味もない」

 絶句するユストを『神』はもう一度片方の視界に映し、鋭く眇めた。

「お前は我が封印を解いたゆえ命だけは見逃してやるが、疾く去なぬば腕一本では済まぬぞ」

 呼び出したことへの見返りは目溢しの恩情。
 人間を厭い、目にした者は殺戮するのが通常であることを考えれば、確かに大きな譲歩だった。

「それとも―――やはり消すか」

 半身を返そうとしたところで、グイッと衣を引かれ阻まれる。『神』の目が動き、袖を掴む手を睨みやる。
 雷蔵は墨染を放さぬまま、『神』の後ろで放心しているユストに瞳を眇める。だからあれだけ警告したのに、と。

「小癪にも逆らうか。忌々しい掟さえなければ貴様など燃やし尽くしてくれようものを」

 と怨嗟を込めて低く囁く。

「それでも守らねばならない。それが約束事(きまり)だ」

 呼吸を整え、壁に手をついて支えとして身を起こす。はあ、と吐息を零して目線を上に注いだ。

「君は俺を殺せない」

 ピクリと、高い位置にある顔の眉が持ち上がる。

「審神者から問われなければ名乗れず、そして審神者に真名を呼ばれなければ、この世に留まり続けることができない」
「……全く煩わしい。問答は最初に相対した審神者と行わなければならぬなどと、一体誰が決めた理なのやら」
「君のお仲間じゃないの」
「ならばもう一度命ずる。名を問え。己が務めを果たせ」
「何度でも答えよう。名を問う必要はない。その身体の主は美吉だ。神封じが俺の務めだよ」
―――『前』と同じ台詞だな」

 いい加減このやり取りに飽きてきたか、『神』は鼻を鳴らし、僅かに逡巡した。それからニヤリと笑う。

「よかろう。どうしても言わぬというのであれば、貴様の目の前で人間を殺してくれる。言いたくなるまで一人ずつな」

 残忍な光を浮かべる目はいかにも子供が新しい遊びを思い付いたかのように楽しそうに踊っている。非難するべくもない。これがこの『神』の本性なのだから。

「やれば?」

 雷蔵はあっさり、そして無機質に答えた。

「たとえそうしたところで、俺は言いなりにはならないよ」

 一転して険を宿す『神』に、凛然と断言する。

「君が再び眠りにつくのも時間の問題なのだから」

 名を呼べば―――この神をこの世に固定させてしまえば、もっと多くの血が流れる。更に多くの殺戮が生まれる。彼は人間を憎悪している。

「その言葉に後悔はないな」

 掴まれた腕の痛みに雷蔵が顔を顰める。引きずられるようにして立たされた。

「ならば手始めに付近の村を一掃してやろう」

 愉しげに舌舐めずりをして低く宣言した。荒魂(あらみたま)本来の破壊衝動と人間への憎しみが、この『神』を突き動かしている。その点で、崇り神と同等の災厄神でもあった。
 しかし、『神』の手が捕らえた姿は、瞬く間に衣だけを残して消えた。眉を顰めたその後ろから、祭壇が飛来する。振り返りもせず弾き飛ばした時には、白単衣の雷蔵がユストを連れて入口を出るところだった。

「審神者ァ!!」

 雷蔵は振り返り、〈秘伝〉の文言を口にした。宙に手を踊らせるように、地中に残る僅かな大気を操り、入口脇の石を崩して部屋を塞ぐ。なおも唖然と座り込むユストの腕を引き上げ、促した。

「早く。こんなものじゃ長くは足止めできない」
「わ、私は……」

 震えるユストを見据え、雷蔵は言った。

「いいかい、これは君が招いたことだ。死にたいならば置いていくよ。俺はあれを封じなければならないから」

 否やを封じる強い語調に、ユストは瞬きを数度してから、表情を引き締めた。顔色は青白かったが、本来の判断力は戻ってきたらしい。
 痛みを堪えて毅然と立ち上がり、雷蔵について階段を駆け上がった。
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