これで一つ、やるべき仕事が終わった。
 細かく痙攣する身体を、憐みの欠片さえ浮かべず無機質に見下ろし、やれやれとため息をつく。

「……外道が」

 側で上がった棘を含む唸りに、ユストはおやと意外そうに瞬く。
 台では美吉が鋭く睨みつけていた。

「狂信的な信者かと思えば、全く信じてねえどころか憎んでいるときた。一体何なんだ」

 非難を浴びた方は心底不思議そうな顔をしている。

「葡萄牙語がお分かりに?」

 ああ、と得心がいったように一人うなずく。

「なるほど、その眼ですか」

 言葉が分からずとも、心が視えれば真意が通じる。直接ユストを視ることは不可能だから、恐らくロレンソの方から間接的に拾い上げたのだろう。しょうがない、とユストは肩をすくめ、血に濡れた手を布で拭いた。

「とんだ邪魔が入りましたね」
「親無しの手前を拾って育てた恩師を手にかけておいて、随分な言い草だな」
「……そこまで『視』えたのですか? 本当に厄介な能力ですね。でも、そうやってこちらの心に揺さぶりをかけようとしたってそうはいきませんよ」

 目論見を見破られ、美吉はチッと心中で舌打ちをした。こめかみに嫌な汗が浮かぶ。どうにかしなければ。時間を稼ぐのだ。何としても打開策を。

「狂っていやがる」
「どうとでも。私は目的のためなら、何だってやってみせます」
「目的っていうのは、力を手に入れて、世の中に復讐することかい?」

 ユストは背後の雷蔵を振り返った。その顔には先ほどの笑みはなく、冷たく凍りついている。

「復讐?」
「違うの? さっきの口ぶりだと、まるで何かを深く恨んでいるみたいだったけど」

 軽く首を傾け、雷蔵は色ない瞳で淡く笑んだ。

「悟りじゃなくったって分かるよ。気づかない? 今の君は、国とか世界とかご大層なことなんかどうでもよくて、ただ私怨を晴らしたくてたまらないって顔をしているよ」

 ユストの顔色が、明らかに変じた。先ほどまでの悠然とした雰囲気が揺れる。
 台から離れカツカツと足音強く雷蔵の側へ近付くと、手を振った。高い音を立てて、痣があるのとは逆側の頬が張られる。

「動揺してるね。図星かな」

 しかし雷蔵は怯んだ様子なく、泰然と微笑で応じた。否や、再び打音が上がる。

「おい!」

 さすがに慌てたように美吉が声を挟んだ。それに大丈夫だと目で告げた。最悪の展開を回避するための、考える時間を稼がねばならない。

「貴方に何が分かる」

 震える声でユストは低く呟いた。

「さあ分からないね。分かろうとも思わない」

 雷蔵はあくまで淡白に目前の青年を見据えた。痛みなど感じてもいない風に。

「俺に分かるのは、君は大きな勘違いをしているってことだけ」
「勘違い?」
「君が今からしようとしていることは、君が思っているような結果を生まない。無意味な災厄を呼び込むだけだ。必ず後悔するよ」
「はっ、何を言うかと思えば……」

 ユストは可笑しそうに顔を歪ませた。しかし眼は笑っていない。

「そうして気を殺ごうとしても無駄です。私は、確かに啓示を受けたのだから」

 啓示―――? 雷蔵は訝しげに見つめた。
 しかしユストは説明する必要はないとばかりに、蔑みの眼差しを注いだ。

「残念です、ライゾウさん。私はこれでも結構あなたのことを気に入っていたのですよ。このまま力を貸してくれるなら、と思いましたけど―――どう頼んでも無理そうですね」
「さすがに俺も進んで破滅に手を貸す気にはなれないね」
「まあいい。貴方にはせいぜい、目覚めた神の最初の贄となってもらいましょう」

 美吉が息をつめる音が聞こえる。
 ユストはスッと立ち上がった。

「そろそろ子の刻に入る。儀式を始めるいい頃合いです」
「待つんだ。やめろ」

 次の行動を察して、雷蔵が強く制した。初めて感情を滲ませた声音に、ユストは『悟り』らしからぬ読み取り違いをする。

「今更命乞いですか?聞く耳は持てませんね」
「違う。本当にまずい―――
「私はやめませんよ」

 吐き捨てるように言を遮り、踵を返して遠ざかる。ぐるりと台を回り、向こう側の祭壇の前へと立った。

「待てよ」

 美吉が慌てて声を上げる。こちらもいつもの無気力な態度とは一変して、ひどく切羽詰まった様子であった。
 微笑みながらユストは告げた。

「この国の神が、わが国の呪文によって喚べるかは賭けに近いですが、術が使えたのだから大丈夫でしょう。要するに証明過程が違うだけで、式と解は同じということなのだから」
「駄目だ! やめろ!!」

 瞑目し、ブツブツと文言を唱え始めたユストを、血の気の引いた面で凝視する。

「くっ」

 何としてでも逃れんと、美吉は必死に身体を動かした。だがどう足掻いても、言うことをきかない。

「畜生、動け! 動けぇ!!」

 叫び、無理やり力を入れたところから皮膚を破って血が滲む。
 その間にもユストの呪文は続く。聞くまいと思っても、それは耳に、鼓膜に、否応なく溶け込む。
 小さく、微かに地が羽音を上げて振動する。
 そして仄かに、床に描かれた陣が光を発し始めた。

「やめろ!」

 不意に頭の芯がジンと痺れた。眼を閉じたいのに、持ち主の意思に反して両目は大きく開かれ、瞬きさえできない。眼球の表面が乾き、ゆっくりと景色が霞がかる。
 息が浅くなり、その呼吸音が頭の奥で響く。蝋燭の灯が揺れる。

「美吉!」

 左の方から声がする。美吉は必死に僅かに残る視覚をこらして見た。

「頼……む、とめてくれ。もう抑えられな―――

 目尻から熱くて冷たい何かが滑り落ちる。それが瞳の乾きによる生理的なものか、恐怖によるものなのか、自分でも分からない。ただ恐ろしい。どうしようもなく逃れたい。
 ドクン、と心臓が脈打った。身体の痙攣とともに視界が揺れる。口を開けたまま、声を失う。文言は止まらない。
 美吉の左目が、薄らと赤みを帯び始めいている。最悪の光景が脳裏にちらつく。雷蔵は警鐘の中で頭を巡らせた。

「美吉、しっかりしろ! 己を見失うな!」

 本来なら〈秘伝〉を使えと叫びたい。しかし迂闊に口走るわけにもいかないし、何より美吉自身が錯乱状態に陥っている。〈秘伝〉の行使には精神統一が不可欠なのだ。
 左右にいるごろつき達は、一体何が起こっているのか分からないらしくポカンと眺めている。

「このままでは取り返しのつかないことになる、彼を止めろ」

 危機感を滲ませ鋭く訴えるも、ただ茫然としているだけだ。

「知るか。俺たちは手出ししねぇ約束だしな」

 などと言って呑気に肩など竦めている。本当に使えない。
 幻術を使ってユストの意識を撹乱しようにも、通常の幻術には目が合わなければならぬし、呪力を使う幻術には手印かそれに代わる媒介がなければならず、身体の動かせぬ今はどうすることもできない。
 思いつく限りの術の式を脳内に描き出す。抑えられるだろうか。効くか否か分からない。だがやってみるしかない。迷っている暇はなかった。丹田に力を溜める。

「其の内に宿りしもの、()つ国のいざないに応うる勿れ」

 放たれた言霊にピクリと美吉の指がかすかに痙攣した。
 術とも言えぬ即興の呪だったが、反応はあった。だが念と霊を練り込んだだけで錬成されていない術では所詮その場しのぎにしかならない。だから間髪入れず、更に呪を重ねた。

「下がれ下がれ、此は其にあらず、此方は其方にあらず、此の刻みは其の時にあらず。鎮めよ」

 じんわりと左眼の上に『水』の字が浮かぶ。それは揺れ、時折煙を上げながら、明滅を繰り返す。異国の呪に抗っているのだ。だが美吉の目を塞がねば、鎮守も効果は弱まる。現に言霊によって一旦持ち直した封印が再び圧され消えかかっていた。

(次法の呪が効かない)

 雷蔵は半ば淡々と現実を見つめた。
 美吉がその身の内に抱くものを知って以来、雷蔵は万一の事態に対応すべく、進行の段階に応じた法を備えていた。全部で三段階あり、初の法が数日前に寺で施した水印封じ、次の法が鎮守の呪であり、以前にも第二段までで食い止めてきた。
 だが今回は違った。かつて起きた流れと似ている。良くない傾向だった。あの時はなんとかなったが、今回またどうにかなるとは限らない。
 ユストが唱える召喚の文言は予想以上に強力だった。引きずりだそうとする力が強すぎる。
 もう後がない。雷蔵は一度だけ何かを耐えるように目を眇め、瞼を閉じた。終の法を行う。

「ひふみよ いむなや こともちろらね」

 歌うように唱えられるのは鎮魂帰神の詞―――ひふみの神歌だった。

「しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のます あせえほれけ」

 不意に息を吹き返すように、美吉の胸が大きく上下する。苦しげに呻きながらも、まだ自我は失われていない。だが雷蔵には楽観視できなかった。むしろ絶望感の方が強い。
 急に増した抵抗感に、額に汗の玉を浮かべるユストが、舌打ちをした。

「その男を黙らせろ!」

 突然命じられたやくざ者たちは一拍ほど呆ける。だが再度ユストが怒鳴ると、はたとしたように腰に下げていた棍棒で力任せに殴った。

「……とも、ちろらね」

 髪の間から血が伝う。

「こいつ!」

 呻きを堪えながらそれでも唱えることをやめない相手に、男たちはついに業をにやし、首を絞め上げる。ひゅ、と細い呼吸が漏れた。
 声を封じられてしまえば咒詞は使えない。端から分かっていたことだ。それでも何もせずにはいられなかった。
 堰が消え、抑えていたものが一気に振りかかる。こちらに向けられた美吉の瞳から理性の光が少しずつ消えていく。代わりに赤く主張を始める左の虹彩。ゆらりと炎の金色が踊る。
 美吉を宿主とするものは火と金を掌る。本来相剋関係にあるはずの二つの気を備えた存在。それを封じるには水しかない。金気は水気を強め、そして水気は火気を殺す。
 だが地下の此処にあるのは地水。天の〈秘伝〉で操れるのは天水のみだ。
 雷蔵は最早為すすべなく、ただ見つめることしかできない。
 台の上で表情を失った唇が僅かに動き、声なき声が零れおちる。とめてくれ、と言ったように見えた。
 抗えぬうねりに呑まれていく。もう嫌だ、あんな思いはしたくないと思うのに、流れは止まらない。美吉は最後に霞ゆく世界の向こうへ手を伸ばそうとする。


 闇が笑った。
前へ 目次へ 次へ