美吉には何が起きているのか全く理解ができなかった。何故自分たちはこのような地下に拘束されているのか。

「ああ、目が覚めましたか」

 必死に脳を巡らして答えを探っていたところで、こつんと鳴った足音に、美吉はギクリと反応する。
 雷蔵もまた、顔を上げて声のした方を見た。丁度ユストが出入り口から姿を見せるところであった。

「お待たせしましたかね。少々準備に手間取ってしまいまして……」

 そう言うユストの出で立ちは、相変わらず黒衣ながらも、いつもとは様相が若干異なっていた。雷蔵たちには与り知らぬことであったが、ユストは普段着である修道服(ルペータ)の上に、黒く染めた短白衣(スルプリ)を着け、錦織のような瀟洒な紫の首掛(ストラ)をかけて、やはり黒い外套(プルヴィアレ)を羽織っていた。スルプリは祭式用服であり、プルヴィアレも聖務の際に纏う。ただし黒いプルヴィアレは葬儀に着用するものだった。
 全身を黒に染めた男は、神に仕える敬虔な信徒というよりも、どこか禍々しい冥府の使者を思わせた。

「おいコラてめえ、どういうことか説明しろ」

 美吉は双眸を剣呑に細め、視線で威嚇する。

「説明すると長くなります」
「ふざけんなよ」

 おどけたようなユストの返答に、切りつけるような光を瞳に乗せる。

「今なら千百歩譲って許してやらなくもない。今すぐ俺たちを解放しろ」

 ユストはふう、と嘆息を漏らしてゆるゆると首を振った。その仕草さえ人を小馬鹿にしているようで、美吉の眉間にますます深い皺が刻まれる。

「申し訳ありませんが、聞けぬ相談です」

 心底残念そうに、美吉と雷蔵をそれぞれ交互に見やった。

「私も本当はこのような手段はとりたくなかったのです。あなた方がもっと理解力のある方だったら良かったのですが」
「責任転嫁してんじゃねえよ」

 美吉は怒り任せに腕を跳ね上げようとした。しかし筋肉がびくりと痙攣するだけで、微動だにできない。まさしく金縛り状態である。

「ああ、あまり暴れぬように。鎖の強度を上げましたので、無理をしますと筋を損傷しますよ」

 くそ、と美吉は口惜しげにきつく歯を食い縛った。縄や鉄枷のような類ならば簡単に抜けられるというのに。

「何を企んでいる」

 それまで静観していた雷蔵が口を開く。
 ユストは相変わらず楽しげな色を浮かべながら、首をかしげた。さらりと揺れる赤い短髪が蝋燭の火にきらめく。こうしている分には純粋で清廉そうな人柄に見えるだけに、そこに孕んだ歪さが不気味に引き立った。

「何を、とは?」

 雷蔵は目をそむけず、真っすぐに問いを投げる。

「これは祭壇だろ」

 「よくお分かりに」クスリと微笑い、黒衣の異人は腕を上げくるりと裾をひるがえした。

「儀式です」
「……儀式だと?」

 美吉が胡乱気にその言葉を繰り返す。ええ、とユストは顎を引き、俯いた。

「私はこの国の儀式の作法を知りませんし、サバトも黒ミサも見たことがないので、準備は見よう見まねなんですがね」

 いよいよ分からぬとばかりの美吉の後を継ぎ、雷蔵は更に問いを重ねた。

「何の儀式だい」

 ユストは半身を返し、にこりと笑む。

「悪魔召喚の儀式ですよ」
「あくま?」

 二人ともすぐには反応しあぐねた。聞き慣れない語句だ。ただ決して喜ばしいものでないことは間違いないだろう。そこに宿る良くない響きに寒気を覚える。

「ええ。まぁ悪魔という言い方は、教会が勝手に烙印付けたものですが。実際私は悪魔だなんて思っておりません」

 むしろ、と唇をさらに吊り上げる。すうっと青い瞳が覗いた。

「神と呼ぶべき偉大なる存在」

 ゾクリ、と美吉は全身が逆立った。
 神。

「それは、また……大きく出たな」

 動揺を押し隠すように、皮肉気に揶揄する。
 ユストは取り合わず、美吉に近づき、その台に掌をそっと触れさせる。

「本来、召喚術ではこの台には若い乙女を供えるのです」
「おいおい、まさか生贄とか言う気じゃないだろうな」

 いささか頬を緊張させ、美吉が顔色悪く笑う。

「その通りです」

 あっさり即答され、口の端が引き攣る。

「待てよ。この俺がうら若い乙女に見えるか?」
「お気になさらずに。この儀式ではミヨシさんは生贄としてここにいるわけではありませんから」
「は?」
 上から見下ろす顔に向かい、美吉が怪訝そうな声を上げた。
 ユストは柔和に頬を緩めた。一層優しげに、子を諭すように、告げる。

「あなたは『器』です。神を下ろすための」

 瞠られた目が音を立てて硬直する。

「いえ、正確には『あなたの内に宿るモノを喚ぶため』でしょうか」

 美吉は驚愕に両眼を剥いたまま、一時言葉を失う。
 「てめえ」唾を呑み、ようやくそれだけを絞り出したが、声は掠れていた。喉がからからに渇いている。

「『何故知っているのか』―――と言いたそうな顔ですね」

 ふふ、と口元に手をあてた。と―――

〈ユスト!!〉

 空間に鳴り響いた怒声に、その場の者の視線が一挙に入口へと向けられる。軽く驚いていたユストは、数拍してからゆるりと微笑を浮かべる。

〈これはこれは、パーデレ〉

 そこに佇んでいたのは、ユストの所属する一行を率いる司祭パウロ・ロレンソだった。皺の深く刻まれた顔は固く強張り、日頃慈愛を浮かべている柔らかな瞳は、今は険しい光をもってユストに向けられていた。

〈ユスト、これは一体何事だ。これは……これはまるで黒ミサではないか!〉

 場を見まわし、厳しく追及する。

〈まるでもなにも、その通りですよパーデレ。ついでに言えば、これから悪魔を召喚する儀式を行います。見ていかれますか?〉

 平然としてにこやかに返答するユストを、ロレンソは信じられぬ眼差しで見つめる。

〈何と……ユスト、正気か〉
〈もちろん正気ですとも。神父さま、私はずっと正気です〉
〈このような―――このような行為は許されない。教会への裏切り、神への冒涜なのだぞ。分かっているのか〉
〈それが何か?〉

 迷いなき声音に、ロレンソはいよいよ絶望的な表情になる。震える足で一歩一歩ユストに近寄り、その肩を掴んで揺らした。

〈堕ちたか、ユスト! 今すぐやめるんだ、このような罪深きことを神がお許しになるはずがない〉

 必死に説得する老齢の面を、ユストはいっそ冷え切った瞳で淡々と見返した。

〈神……神ね。その神とは、一体何者なのでしょう〉

 くっと笑う。

〈貴方が崇める憐れみ深い主デウスとは、一体どこにいるのです。裏切り? 笑わせる〉
〈ユスト、一体何を〉
〈『それ』は私の神ではない〉

 ロレンソの目に一瞬怯えが走った。その直後だった。唇が戦慄き、呻きが零れる。

〈ユ……ユ、ス……〉

 よろよろと、ユストから手を放し、後退する。手は胸に添えられている。
 そこには、小刀の柄が生えていた。
 ゴフッと溢れた血泡で髭を染め、ロレンソはユストを凝視していた。ユストは優しげな微笑みを浮かべたまま、まるで寝がけの挨拶のように言った。

〈さようなら、親愛なるパーデレ〉

 ロレンソの口が何かを言いかけて開閉したが、声を発することなくドサリと倒れた。
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