4.絡まり巡らし思い絲 (かか)る心編み解かん



 ―――屋敷の中なら好きにしていい。けれどおかしな真似をしようと思わないことだよ。あちこちに見張りを置いてあるからね。

 そう言い残して春季が立ち去ったあと、あてがわれた室でしきりに謝る惣之助に、雷蔵は気にした様子なく宥めた。元から何かしら理由をこさえてここに留まるつもりであったのだ。ただ惣之助が乱入したことで事態がてっとり早くなったのか、それとも余計ややこしくなったのかは、よく分からない。

「いやはや、大変なのに……目をつけられてしまったな」

 どう表現したものか悩んだのだろう、若干の間を置いてから、惣之助は苦笑交じりに言葉を選んだ。
 雷蔵はどこ吹く風で部屋のあちこちを歩いて回っている。
 押入れの戸を開けながら、

「そりゃ煩わしいといえば煩わしいけど、気にしようと思わなければ案外気にならないものだよ」
「心頭滅却すれば何とやらというやつかね? 坊さんなだけに禅問答みたいだ」
「生憎宗派は一向宗だけどね」

 おかしな顔をしている惣之助を尻目に、今度は床の間に備え付けられた違い棚に向かう。慌てた惣之助が制止しようとするが、雷蔵は構わず乗り上げた。違い棚は竹の幹一本で支えられている。普通ならば人間の体重に耐えられるはずがないのに、棚は軋み一つ上げず、まるで埃一つを載せているかのようだった。
 雷蔵は構わず付近を調べている。

「何をさっきから探っているんだい?」
「ちょっと仕掛けがありそうなところを、ね。あといざとなった時の逃げ道確保」

 癖みたいなもので、と一瞥も向けずに言ってのける。言う間に今度は欄間に器用に捕まり、天井板を開けたりしている。どんな事態になったら何かを仕掛けられたり、そんな逃げ道が必要になったりするのかと惣之助は突っ込みかけたが、今現在自分が置かれている状況を思い出して首を振った。
 一方雷蔵は今後をどうやって過ごしたものかのんびり思い巡らす。ひとまず本性はバレずに来ている。ついでにありがたいことに春季は自分たちを厳重に拘束するつもりはないらしい。その気になれば座敷牢なりに放り込んでしまえばいいところを、こうして自由にして部屋まで与えている。監禁ではなく軟禁だ。
 彼の目にはどうやらこの身が無害な花の様にでも映ったらしいが、生憎それは花ではなく野草だ。それも相当に強かな。
 だが今はまだそれは秘めておく。せいぜい棘持ち花とでも思わせておけば、こちらにとっても都合が良い。
 ひととおり探りを追え、誰かが潜んで奇襲をかけそうな場所のないことを確認すると、雷蔵はストンと軽い身のこなしで板敷に着地した。
 そろそろこの奇妙な状況に慣れてきたらしい惣之助がぼんやりと言う。

「ほんと、ただの坊様じゃねぇなぁ」

 それに雷蔵は振り返り、軽く笑う。

「坊主じゃないよ。今は『空蝉』。間違えないようにね、『爺様』」
「……そうだったっけな」

 傍らを通り過ぎ、廂に端座する雷蔵を目で追いながら惣之助は弱り気った声を漏らす。開け放たれた表はすでに暗い。月ばかりが浩々と輝いて、庭の形を青白く輪郭づけていた。惣之助はそれをまぶしそうに見やる。
 ひんやりした空気の中に、ぬくいそよ風が吹く。春を告げる息吹に、薫るほのかな匂い。

「……梅の香」

 ぽつりと雷蔵は呟いた。




 翌朝、鳥の囀りの中で登城した面々は、板張りの間の奥に敷かれた畳の一角――現在御簾に覆われている上座を盗み見ながら、身体を強張らせていた。
 誰もが息を張り詰め、じっと御簾の向こうを窺う。大広間は得も言われぬ緊張に包まれ、衣をきっちり着付けじっと背を正しているだけに、窮屈なことこの上ない。
 源家の現当主であり、嫡男の証である一郎名を持つ実治は、舌打ちしたい心境を堪えた。三年前に前当主の親父殿が老いを理由に隠居を宣言し、後を一人息子の実治に譲り渡して以来、家臣群の筆頭として領主に仕えてきた。源家は身分こそ地侍だが、国人領主である楠木氏には名揚げの頃から仕えてきた古参の重臣である。その親密さ故に、歴代の領主との間に何度も婚姻関係を結んでいた。つまり領主の縁戚と言っても良く、一門衆として城内での権限も強い。
 そういった後ろ盾の強みもあってか、実治は、ともすれば無礼と取られかねぬ眼差しできつく御簾を睨み据えていた。
 その向こうで、薄っすらと見える影が静かに身動ぐ。衣擦れの音がささやかに立ち、影の主が扇を広げたのが見えた。

「かの男は?」

 ゆっくりとなぞられる声音に、左右に控える家臣群がびくりとする。
 鈴を転がすような響きは、妙齢の女人らしい奥ゆかしさを備えている。こうして物々しい武士に囲まれるよりも、深窓で手慰みに和歌を詠う方が余程似つかわしい。
 だが家臣の顔に浮かぶものはただひたすらに恐怖だった。そのうちの一人、齢は五十を超える男が頭を伏せた。

「も、申し訳ございませぬ、御前様。情報を得、今一歩という所まで追い詰めたのですが……」
「獲り逃したのかえ」
「誠に面目もございませぬ」

 月代に冷や汗を浮かべながら頭を垂れる。
 重苦しい沈黙に、誰もが口火を切れずにお互い視線のやりとりをしている。
 にわかにパチンと音がして、土下座近くまで平伏していた侍が唾を飲む。

「役立たずめが」
「誠に、誠に申し訳ございませぬ! 次こそは必ずや……」
「失敗した者に次などない。その方の家禄は取り上げとする」
「ひ……姫様、それだけは、何卒それだけはお許しを!」

 がばっと面を上げ、男は必死に懇願する。彼もまた長年従ってきた家臣の一人だった。

「御前様。倉持殿は御家三代目様の代よりお仕え参られた忠臣にございます。家禄お取り上げとはさすがに……」
「その方、妾に意見申すか」
「い、いえ滅相も」
「ならば下がりおれ」

 弁護に入った家臣も、慌てて頭を下げ口を閉ざす。
 後には倉持という侍の悲痛な訴えだけが響きわたる。

「姫様、御前様、どうか今一度お情けを」
「だまりゃ。その方は直ちに屋敷に戻り謹慎せよ。追って沙汰申す」

 それから脇に控える随従に連れてお行きと命じる。近衛の侍たちは、未だ哀願を止めぬ倉持を両脇から抱え、引き摺るようにして大広間から連れ出した。廊下の向こうへ消えるまで、倉持の声は延々と聞え続け、広間に残った家臣たちは痛ましげに目を閉じる。
 その一部始終を実治は無言のまま冷たい瞳で見つめていた。それから、気まずさにシンとなった雰囲気を一刀両断するように、口を開く。

「ところで御前様、今年の年貢米についてでございますが、昨年の記録を見ておりまするとやはり村によって収穫に差が……」
「ああ、良いわ良いわ」

 御簾の影が大仰に扇を振るう。まるで煩い蝿を払うかのような仕草だった。

「好きなように計らうがいい」
「ですが」
「その方に任せる。妾は疲れもうした。先に室に下がりまする」
「は……」

 一同頭を下げる。仕女を連れ、シュルシュルと畳を擦る音が襖の向こうに消えると、間を覆っていた緊張感がドッと解ける。
 誰もが太息をつき、辺りを憚った囁きで言葉を交わす。ざわざわと小波立つ中で、実治だけは険しい表情を崩さぬまま、たった今御前と呼ばれる領主が去った方を見据えていた。御前は人に自分の顔を見られることを嫌う。いつも城奥くに居り、この定例の評議の場以外、姿を見せることはほとんどない。定議の時でさえ御簾を下ろし、去る時は全員に顔を伏させる。幼い頃に患った病の後遺症で、顔が醜く変形しているという噂であった。毎日面をつけて顔を隠しているとも。お付きの侍女たちさえ、その顔を見た者はいない。城の中で誰も御前の素顔を知らなかった。

 三年前、実治が城仕えを始めた頃はまだ御前の父親が生きていた。おかしくなったのは一年と半年前、父君が病に罷り、死に際で一人娘に実権を渡すと遺言した時からだった。御前は始めこそそれなりに領内の行政に携わったが、段々とそれを放棄するようになり、一方で領内の総力を上げて訳の分からぬ謡曲師を追わせ始めるようになった。今では殆どの政は、筆頭家臣の実治が行っているという有様である。
 幾人かの家臣は渋い顔をしながら、本来は御前に持っていくべき案件を実治の方に回す。今やこの領地において実質的な執政権を掌握しているのは実治と言って差し支えない。いっそ実治殿が領主になってしまえば―――そう思っている者も少なくなかったが、誰も口にはしない。恐れているのだ、御前を。無力なか弱い一人の女を、いい歳をした士たちが恐れている。

 確かに御前は危険だった。何が、とは言えない。ただ刃向かってはならぬ相手だと無意識に認識している。競争世界に生きる雄だからこそより感じる、本能的な恐怖。その証に、御前に楯突き、あるいは暗殺を企てようとした輩は、ことごとく変死を遂げていた。
 だから誰も実治を唆すことはなく、そして実治もまた、実権を握っていても一線は越えない。たとえ今が、主従という観念に取って代わり、下克上の風潮が支持される時世であったとしても。

(所詮俺も、鬼女を恐れて尻尾を振る狗に過ぎんか)

 荒んだ気持ちで、実治は己が身を嘲笑った。
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