京里忍城には、くノ一だけの特殊な組織があった。それは京の公娼所であった傾城町(くるわ)の内に根を張っており、店そのものが女忍びらの根城だった。徒人の男達はそこへ立ち寄り、情報を落としていく。時には密かな暗殺任務も行われた。蝶に見せかけた大きな女郎蜘蛛の巣。男忍びたちはそこを裏傾城と呼んでいた。
 その裏傾城で当時最高位に座していた娼妓に、雷蔵はかつて世話になったことがある。一体自分のどこがどうお気に召したのやら、彼女は何かと雷蔵のことを気にかけてくれた。けれど雷蔵から特別何かを返すことはしなかった。受けた恩に相応の礼はしたが、彼女の気持ちが自分に向けられていることも、第三者から教わるまで気づかなかったし、知ったからといってその後も別に変わるところはなかった。どこか他人事だったのだ。彼女が不治の性病に罹り、雷蔵が薬師として医師に付き添いその病床へ足を運ぶようになると、彼女は死病に侵されているにも関わらず笑顔を見せた。刻々と衰えていく容貌を憂うよりも、雷蔵に会えることの方が余程嬉しいようだと、医師が帰路で苦笑していた時も、雷蔵は曖昧に濁すだけで、正直実感がなかった。死の床に侍り、最期を看取った時さえも。
 里中の男忍びすら虜にしていた彼女が、何故自分のような心の欠けた人間を選んだのか。最期まで雷蔵は何の感慨もなく、何も解することなく、また何を尋ねることもせず、ただ彼女の死に顔を見つめていた。悲しみはおろか、虚しさすらなかった。
 だがその裏傾城も、後ろ盾であった里の崩壊と共に露と消え、すでに()い。
 雷蔵は遠くに向けていた眼差しを、近くへと引き戻す。

「別に、女も男も関係ないよ」
「え?」

 瞬きの間に、春季の手には小紋の着物だけが残された。はっとして首を巡らし、消えた姿を探す。

「私はすでに忍び家業からは足を洗った身。過去は過去として、今はただ養祖父と二人静かな日々を過ごしているだけです」

 上から降ってきた声に、慌てて見上げる。
 雷蔵は襦袢との間にもう単着ていたのか、別の柄の小袖姿で枝の上に膝ついていた。

「養祖父? ああ、あのお爺さん……」
「私を拾って自分の孫娘のように育ててくれたんですよ。ここにいるのは、別にそちら方に仇なすためじゃない」

 ぽかんとしている春季に向かって、淡々と述べる。まあ、相手の反応には予想がついたけれど。

「だからといって草の者をハルちゃんの領内でウロウロさせるわけにはいかない」

 木の上の相手を見上げながら訴えるというのもおかしな構図だが、春季の顔はそれなりに真剣だった。だが雷蔵は別のところに気を留める。含意はなく軽く微笑した。

「“城主の”とは言わないのですね」

 その指摘に、春季は笑みを浮かべた。だが目に笑いはなく、鋭い光を放っている。

「聡耳だね。だからウロウロさせるわけにはいかないって言うんだ」
「ではどうするおつもりで?」

 春季が口を開きかけた時だった。表の方がにわかに騒がしくなる。なにやら捕り物があっているらしい。
 武装した下人たちが庭を過りばたばたと玄関側へと走っていく。
 春季は刀を下げたまま、「何事だ」と声を張り上げた。
 何人かが気づいたように、春季を見止める。抜き身の刀に一瞬怯えとも訝りともつかぬ色を顔に浮かべながら、しどろもどろに答えた。

「いえ、それが……」
「屋敷に侵入した奴がいたものですから」
「侵入?」

 春季が片目を眇める。

「はい。たった今取り押さえたようでございます」
「どんな奴?」
「それが、一人の小汚い爺だそうでして」

 この言葉に、春季と木の上の雷蔵はほぼ同時に反応する。下人は気づいた様子なく話を続けている。

「実治さまがご不在ゆえ、如何に処置いたすべきかと」

 春季はちらりと上を一瞥しながら、

「ハルちゃんの手を煩わせるまでもない。俺が検分する。ここへ連れてくるんだ」
「は……」

 ほどなくして引っ立てられてきたのは、案の定惣之助だった。翁の変装のまま、青い顔で震えている。

「爺様」
「あ……」

 いつの間に下に降りてきていたか、雷蔵が春季の脇をすり抜けて惣之助の元に駆け寄る。
 健気な孝行娘よろしく、祖父を拘束する縄に取りすがる後姿を春季は見つめた。
 周囲の下人たちが取り押さえようと群がるのを一声で制す。

「好きにさせろ」

 下人たちは明らかに狼狽した様子で顔を見合わせ、おずおずと春季を伺う。

「ですが」
「構わないよ。お前たちは下がっていろ。ここは俺が責任を持つ」
「う……し、しかし」
「俺がいいと言ってるんだ。それとも何か意見がある?」

 強い口調で圧されれば、下人たちは口を閉ざして「いえ」と答えるしかなかった。すごすごと後へ退き、庭に残されたのは祖父孫と春季だけになった。

「さて、さっきの話の続きをしようか」

 人気が去るのを確認すると、春季はにやりとした微笑みを浮かべて切り出した。
 惣之助の縄を解いた雷蔵は、肩越しに後ろを伺っている。

「続きとは?」
「もちろんどうやって君をこの屋敷に留め置くかという点についてだよ」

 春季はふわふわとした軽い口ぶりで言った。

「こういうのはどうだい。君の大切なおじい様を人質にするっていうのは。君一人なら監視をかいくぐってなんとか逃げ出せるかもしれないが、脚の悪いおじい様に無理させるわけにも、見捨てるわけにもいかないでしょ?」
「誘拐の次は脅しと来ましたか」
「まさか。これは純然たる取り引きだよ」

 打ち抜いたままであった刀を、柄をくるりと回して鞘に収める。
 かちりと鍔が鳴った。

「さっきも言ったように、今は君らみたいなのを領地内でウロウロさせられない」
「今は―――ということは、ある程度時間が経てば良いということですね」
「本当に君は聡耳だねぇ」

 苦笑気に屋敷主の乳兄弟は肩を竦めた。

「まぁそれも理由の一つなんだけど、もう一つは単純なことだよ。君に興味もあるからさ。本来の目的はそれだったし」

 惣之助の物言いたげな視線をちくちく感じながら、いたって平然と雷蔵は応じた。

「いいですよ」
「へ」

 あまりにあっさりとした二つ返事に、春季の口から気の抜けた声が漏れた。
 呆気に取られている相手を見据えながら、雷蔵ははっきりとした態度で再度繰り返す。

「別にいいと言ったんです。要するに一時の間の話でしょう? 別段急ぐ旅でもなし。ねぇ爺様」

 いきなり話題を振られた惣之助は、ぽかんと見上げていた顔を慌てて引き締め「う、うーむ」と是とも否ともつかぬ呻きを上げた。

「こちらの生活と身の安全を保障してくれるなら、条件を飲みましょう」
「……交渉成立だね」

 何ともいえぬ表情を浮かべながら、春季は襟を正した。

「では改めて自己紹介をしよう。俺は仙台吉仲春季―――面倒だから春季でいいよ」

 相手が名乗ったのであればこちらも名乗らずにはいられない。
 雷蔵は僅かに逡巡してから、

―――では空蝉と」
「うつせみ」

 その名を舌の上に転がしてから、春季はなにがなし苦笑した。

「なんとも暗示的だね」
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