相模の余綾から甲斐に向かって街道を北上する。本来であれば武蔵国を目指すつもりだったが、鎌倉に近い武蔵川側には行きたくないと惣之助が言ったので、方向を変えて足上沿いに甲斐へ入る道を選んだ。どちらにしても大名の支配力の強い地域がいい。武蔵や甲斐は人が多く、街として比較的発展もしている。昔から縄張り意識も強い。

 誰が破門された謡曲師を狙っているのかは、惣之助が言わぬのではっきりとは分からないが、侍を顎で使えるくらいであるから、恐らくそれなりに権力のある家―――極的に言えば城持ちの勢力であろうことは予想につく。となれば他の地元勢力の強い国に入りさえすれば、どれだけ力のある人物であろうと、縄張り外でそう勝手な行動を取ることはできない。ただでさえ今はどこの土地大名も一触即発の危うい状態にある。下手なことはできないはずだ。たかだか一介の―――たとえ百年に一度の天才と呼ばれた男であっても―――家も名も失った謡曲師を、国の存亡と秤にかける下策は取らない。こと武蔵には上杉が目を光らせ、甲斐には最強と恐れられている武田の軍団がいる。あえて手を出そうとする命知らずはいまい。
 人口が多ければ隠れ蓑にもなる。木を隠すなら森にというのが兵法の基本だ。

 今は足上に向かう街道の途中だった。近頃このあたりで武田と地元豪族の小競り合いがあったせいか、普段よりも人が少なかったが、足上に着けばそれもどっと増えることだろう。
 不意に雷蔵は草鞋の裏から地伝いに伝わる振動を感じ取った。
 数はそれほどでもない。まだ遠いが、蹄の持ち主がいたるまでに二人が身をかわせそうな脇道なり休み処は、街道を見渡す限りなかった。

「後ろからやってくる者がいる」

 雷蔵は声を低めて、惣之助に囁きかけた。惣之助が驚いて頭を上げようとする前に、先を制して言った。

「素知らぬふりを続けるんだ。追っ手と限ったわけじゃない」

 惣之助は物言わず頷き、地面に杖をついた。一見泰然とした態度ながら、しかしかすかに杖の先が震えているのが見えた。

「焦りで早足にならないように」

 指示を出しながら、雷蔵は背後に耳を澄ました。常人の耳にも捉えられるくらいに馬足の音が響きだすと、いよいよ惣之助の身体が強張った。

「大丈夫、落ち着いていればやり過ごせる」

 支えに回した手に力を込め、雷蔵は宥めた。
 やがてすぐ傍まで地響きが迫ってくると、雷蔵は他の通行者と同じように肩越しに後ろを振り返り、老人に扮した惣之助を道脇へと促して、二人立ち止まった。
 笠の目の間から、騎乗している男たちの身形をうかがう。
 数は六。先頭を走る男の袴に、印籠が揺れている。しかし紋は先達ての侍たちとも違うものだった。とはいえ全く無縁とは言い切れない。
 雷蔵は笠を目深にしたまま頭を下げた。いかにも関わるのを怖れる庶民の風情で、極力目立たぬよう道の脇に身を縮め、彼らが行き過ぎるのを待った。
 ところが期待に反し、六頭の蹄は二人の前で進みを止めた。

「おい、そこの二人」

 丁度正面の馬上から声がかかった。まさしく笠の上から浴びせかけるような、太い声音だった。雷蔵は声質や話し口調から大体の風体と性格を読み取る法も習ったが、この声の持ち主は手に取るように脳裏に描けた。隠す気もないとしか思えないほど分かりやすい。歳は三十過ぎの男盛り、体格は良く、喧嘩好き、粗雑で細かいことは気にせず、傲慢で頭で考えるよりも直感で動くことが多い。町内をぶらついておれば無頼者の風を吹かすことだろう。

「おい、聞いているのか。俺はお前たちに話かけてんだよ、そこの爺と娘」

 最初は驚き怯える振りをして黙っていた二人に、上に立つ者特有の倣岸さの滲む声が再び響く。「は、はい」と惣之助扮する老人がようやくとばかり弱々しい返事をする。しかし萎縮したまま顔は上げない。

「貴様らこの辺りの者か」
「いえ……」

 ここで娘が口を利くのもおかしいので、専ら惣之助が答え役になった。あくまで脆弱な老人を装い、おどおどとした様子は板についていて迫真の演技だ。案外本当に怯えているのかもしれない。

「どこへ向かう」
「へえ、その、甲斐に居ります息子夫婦を訪ねる途中でして」

 あらかじめ合わせておいた口裏通りの理由を述べる。二人は郷内の庄屋の隠居とその次女の娘。今から行くのは甲斐で商売をしている長男の家という設定だった。実はこの身分、忍び時代に使ったことのあるものの一つで、京里忍城の用意したものなだけに裏はしっかりしている。

「そっちは?」
「孫娘です。私はこの通りの歳なものですんで、道中の世話をさせるために連れとります」

 次々に尋問を浴びせる男の目的は知れなかった。果たして追手の一員なのだろうか。惣之助の動揺を感じ取りながら、雷蔵はじっと相手を声だけで観察し続けた。

「おい娘」

 不意にお鉢が回ってきた。こうなる可能性も想定してはいたが、表向きは驚きをあらわに身を硬くしてみせた。小さな声で「はい」と応える。だが顔は笠の影に隠したまま、あくまで上げようとしない。消え入りそうな声は、惣之助が耳を疑うほどか細い。声色に関しては、雷蔵は元々並みの成人男子にしては若干高めの方だったので、特別裏声など使わずともさほど不自然ではない。娘にしては少し低い程度だ。だが本来の性格から、このか弱さは全く想像できない。そこにいるのはまさしく可憐な娘そのものだった。この技もまさしく昔取った杵柄というものである。

「歳はいくつだ」
「今年……十八になります」

 しばらく沈黙が落ちた。周囲では少ない通行人が遠巻きにこちらを見ている。
 何も言わぬ相手に惣之助が落ち着きない様子だったが、やがて男たちも気が済んで去るだろうと思った矢先だった。
 うなじに走る戦慄。一瞬にして全身が総毛立ち、筋肉が収縮する。頭で考えるより先に四肢が反応するよう血肉に染み付けられた、馴染み深い警報。
 それを理性で捻じ伏せ、咄嗟に動きそうになる身体を押し留めた。
 笠が舞った。
 横合いから風が頬を打つ。
 気付けば、抜き身の刀が首元に宛がわれ、顎の下に刃先があった。
 相手と己を繋ぐ刃渡りを視線で辿る。直線で結ばれた先にあったのは、思いの他端正な男の顔だった。

 声音から想像した通り、大柄な体格を紺地に飛白の入った袴に包み、堅そうな頭髪を無理やり髷型に結わえ、しかし粗野な雰囲気に反し、活力に漲る面は決して卑しくはない。野生の獣にも似た獰猛さを宿しながら、一角の武士と呼ぶに相応しい風格も備えている。相当な腕自慢であろうことは、腰から下がる使い込まれた刀鞘からだけでなく、衣の上からでも分かる鍛えられた筋骨から容易に想像がついた。そして鋭い光を放つ双眸。
 男はその猛禽もかくやという目を、じっと雷蔵に注いでいた。睨めつけるような眼光はまるで獲物の品定めをしているかのようでもある。

 さすがに予想を超えた相手の行動に雷蔵も瞠目したが、次の瞬間には瞳の奥底から本性を一切拭い去った。はたから見れば、それは突然の横暴に驚き、硬直し、反応する術を失った娘の姿だった。
 馬上には顔が六つあった。男がおそらくこの中では一番位が高いのだろう。他の者たちは唐突な男の行動にきょとんとした表情を浮かべながらも、特に止め立てすることもなく傍観している。むしろ露わになった町娘の容姿に口笛を吹き、にやにやと笑っている者さえいる。その中に一つ、見知った頭を見つけて、雷蔵は顔に出さぬまま驚いた。向こうも表情には出さずに驚愕しているのがわかる。まったく世間は狭い。
 一方、じっくり観察を終えた男は、一つフンと至極つまらなそうに鼻を鳴らした後、刀を放し、鞘に納めた。先刻とは打って変わって、興味の失せた態度だった。まるで子供が新しい玩具に飽きたかのような。

「つまんねぇな、用済みだ」
「……は?」

 今や腰を抜かさんばかりだった惣之助が、拍子抜けした声を上げる。だが男にギロリとひと睨みされると、たじたじとなった。
 当の男は馬首を返すとうるさい蠅を追い払うように紺の袖を振った。

「お前らにはもう用がねえと言ったんだ、とっとと失せろ」

 自分で引き止めておいて随分な言い草だったが、言われた側は解放されることへの安堵の方が勝り、文句も言わず従った。実際失せろと言われても騎馬の男たちが移動しないことにはどうしようもないのだが、ひとまず侍たちの目の届かぬところまでそそくさと身を遠ざける。
 侍たちは侍たちで、馬を歩ませ始めた男の背に続く。
 いくばくか離れたところで、そのうち一人が、後ろからおもねるような笑みを浮かべ、口を開いた。

「どうしたのですか。粋者で名をはせる実治(さねはる)殿が女子(おなご)を前に何もせぬなんて」
「まことに。この鄙びた田舎に珍しく、なかなか垢抜けた上玉ではなかったですか。まあ十八にしては、いささか幼くありましたが」

 揶揄が飛び交う中で、男―――源実治は面白くもなさそうに吐いた。

「あれはいけねえや」

 意外な台詞に、何人かが不思議そうな顔をする。
 だが実治の表情はいたって真剣だった。正面を見据えたまま、

「あいつのあの目。よくわかんねえが、女を感じない。どうにも食指が動かねえ」

 後ろで聞いている者たちは戸惑いがちに顔を合わせる。分かるか?と互いに目で問いかけながら、首をかしげた。彼らにはいたって普通の娘にしか見えなかった。

「へーえ、意外。女好きで見境のないハルちゃんがそんなこと言うなんてさ」

 そこへ、軽い口調が話を遮った。からかい混じりの、笑いを含んだ声音。
 実治が始めて後ろを振り返る。発したのは、実治に比べればずっと細い、ひょろりとした青年だった。柔らかそうな髪を髷にし、やや吊り上がり気味の眦は猫を彷彿とさせる。
 年は実治よりも明らかに若く、着ている衣の質も劣る。むしろ他の者たちと同位と見受けられるのに、実治に気軽に話しかける態度はどこから見ても親しい友人感覚だった。

春季(はるすえ)

 無礼ともとれる相手の揶揄に気を害した風もなく、実治が名を呼ぶ。
 仙台春季は楽しげに笑顔をつくっている。その表情も、仕草の一つ一つにも、女性の目を引かずにはおれない蠱惑的な薫香がある。甘やかな相貌は整っているが、全体的にどこか剽軽とした愛嬌があった。
 彼は顎を撫でながら、思い返すように軽く上を仰いだ。

「俺は好きかな、ああいうの。ハルちゃんの眼つけを前にしても、刀つきつけられていても目を逸らさなかったじゃない。女子にしてはなかなか肝が据わってるよ」
「女好きで見境がないのはどっちの方だ」

 実治が歯を見せて唸る。実治も相当遊んでいる方だが、春季は負けず劣らずの遊び人として城下では名をはせていた。

「もちろんハルちゃんには負けるよ」

 いけしゃあしゃあと笑ってみせる。春季は実治のことを『ハルちゃん』と呼ぶ。二人の仲はそれこそ童の頃からの腐れ縁だが、元服を過ぎていい加減大人になり、それなりの地位についてもなお春季はその呼び方を改めない。しかも普通ならその渾名で呼ばれるべきは自分であろうに、春季は初めて会った時から「サネちゃんは言いにくいから、ハルちゃんだね」と言い、譲らなかった。紛らわしいので実治の方はそのまま春季と呼んでいる。

「単に怯えていて動けなかっただけじゃねえか」

 実治は気のなさそうに鼻を鳴らす。実際恐怖に委縮していた様子であった。ただ、もしそれだけならからかい半分に手を出して遊んでみてもよかったものを、実治はそこに何の衝動も感じなかった。不思議なくらい、そんな気にはなれなかったのだ。
 だが春季の方は何か感ずるものがあったらしく、しきりに勿体ながった上で、悪戯気に訊く。

「それなら俺が貰ってしまうよ?」

 挑発するように上目づかいで幼馴染を窺えば、予想外にもあっさりと言い放った。

「好きにしろ」

 予想とは異なった相手の反応に、春季は思わず拍子ぬけした顔で「え?」と返した。

「本気でいいの?」
「俺に訊いてどうする。気に入ったなら手前の取り分にしとけ」

 まるで「その漬物食べないなら頂戴」くらいの軽い調子のやりとりだが、もちろん当の漬物の意見などは全くお構いなしである。彼らの身分においていえば、ああした庶民は同じ権利を持つ人間とみなされないし、その感情などは無視されて当然というものだった。その程度の扱いなのだ。
 ただしこの二人に限っては、そういった上層階級の高慢な価値観とは、少し趣を異にしていた。彼らにとって女漁りは一種の風雅な遊び事であり、道端の気に入った花を摘んで家に飾り、ひと時の間観賞するのに似ていた。ただし欲望のまま踏みにじったり悪戯に散らすような無粋で野暮な真似は嫌った。彼らには彼らなりの信義をもって花を慈しみ愛でるのだ。商売女相手であれば手軽に快楽を分かち合い、素人娘であれば、すぐに手を出さずに、手元に留めてじっくり口説き落としていく。攻略するまでの過程を楽しむのである。堪能した後はすんなり解放する。相手が本気になりそうであれば、その前に素早く手切れを言い渡す。結婚の既未も年齢も制限なしだが、ただし相手が本気で拒絶し抵抗するようであれば無理強いはせずに帰してやるというのが、二人の間での取り決めだった。しかし、帰りたくないと駄々を捏ねる娘はいても、未だかつて最後まで手をつけずに帰したことはない。要するにこれまですべての女が玄人素人関わらず彼らの手管に堕ちたのである。実治も春季も、容姿に優れ身分も低からず性格も悪くない。大抵の者がすぐにコロリといった。終わる時も後腐れを残さぬ手際のよさだった。そのため今まで大きな訴えを受けたこともなく、遊びは絶えず続いている。とはいえ、いくら虚栄と欲望の塊のような男たちとは心得が異なるといえども、相手の意思を顧みないという点で両者に差はなかった。
 いずれにせよ、対象となった者にとってみれば迷惑極まりない。
 しかし、それを指摘してやる親切な人間は、生憎と周りにいなかった。
 実治の一声に春季は顔を輝かせた。だがそこへ水を差した者がいる。

「お止めになった方がいい」

 一同の目がそちらに向けられる。忠告したのは、これまたまだ若い男だった。しかし他の取り巻きたちとも少し物腰が違う。身分は下であろうが、輪に入るでなく、どこか余所余所しい態度だった。

「佐藤殿、どういうことだ」

 取り巻きの一人が訝しげに尋ねる。この佐藤という男は、ある日突然領内の御用達商人が城に連れてきて、そのまま随従の一人となった新参者だった。誰それの紹介で、と言っていたが、要するにどこかの田舎豪族の次三男坊あたりが、仕官先に困りコネでここに回されてきたのだろうと、他の者たちは見ていた。比較的大人しく、影の薄い性質で、いつも脇にひっそり構えているだけだが、別段誰かに悪印象を与える行動をしたこともないので、特に関心も反感を買うことはなかった。
 佐藤は誰とも目を合わせず、遠くを眺めている。しかしその言葉を言うときだけは、妙に真剣で重々しかった。

「あれは魔性です。下手に手を出さぬ方が賢明かと」
「ましょうー?」

 春季が素頓狂な声を上げる。それから腹を抱えて笑いだした。

「魔性だって。むしろまだ何も知らない無垢そうな娘に見えたけど、それも面白そうだね」

 無垢という言葉を聞いた時、一瞬だけ佐藤の顔が引きつり、まるで気色悪いものでも見たかのような反応をした。

「しかし見かけによらず妙なこと言うねぇ。あ、それとももしかして前に何かあった?」
「何もありません」

 返す声は冷静だったが、やけに力が籠っていた。何かを堪えているようでもある。

「ははあ、さては佐藤殿、どこぞで痛い目にあったことがあるのだな」
「いや、これは意外や意外」

 ここぞとばかりに、周りの者たちもやんやと囃し立てる。どんどん変な方向に誤解が広がっているようだった。
 果ては実治までニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる始末だ。

「へえ、何も興味ありませんってツラして、やってることはやってんじゃねえか。なかなかどうして、てめえも好きモンだな」

 言えば言うほど、佐藤の顔色は悪くなるばかりだ。ついにはこの世の終わりとばかりに打ち沈んだ顔で、しかし己を鼓舞するかのように大きく深呼吸して、再度口を開く。

「多少人相見を齧ったことがある程度です」
「つうことは何か、魔性の相でも見たってのか」
「……今は人畜無害かもしれませんが、後でどうなることか」
「人畜無害って! そんな毒虫でもあるまいし」

 完全にツボに入った春季が、ばしばしと己の膝を叩いている。大袈裟だよ、と笑い飛ばしながら佐藤の肩を叩いた。

「君に人相見なんて趣味があったとは知らなかったけど、忠告は受け取っておくよ。でも俺、占いは信じない方なんだよね」

 言うや否や、馬首を来た道に反し、その腹を強く打った。
 嘶きをあげながら、春季の騎乗する馬が勢いよく駆け出す。たちまち離れる後姿を呆然と見送りつつ、佐藤は心中で零した。

(俺は知らねぇからな)
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