2.歌を忘れた歌謡い



 雷蔵は住む家もなく頼る知り合いもいない根無し草の男と肩を並べて―――といってもいくらか身長の差はあるが―――道を歩いていた。

 ―――謡い方を忘れてしまったんだ。

 途方にくれたようにそう言った男。彼はその後不意に溌剌とした笑顔に戻って、雷蔵に礼を言い立ち去ろうとしたが、雷蔵は何となく同道を申し出、また男も別段拒否しなかった。
 歌を忘れてしまった歌謡い。
 歌謡いの名は惣之助と言った。

「謡いをやめてから藁細工なんてものを始めてみたがね、最初のころはそりゃあひどい出来なもんさ。誰も買い手がつかなくて苦しい時期もあったけど、今は随分慣れてきたよ」

 小声ながら陽気に言う惣之助は、先ほどの―――あるいはいつぞやの夜の悲壮さを全く感じさせなかった。

「伊村の家は居心地が悪かったのかい?」

 唐突とも思える問いに、惣之助の顔が一瞬強張りを見せて引きつる。
 それからホッと、諦めと疲れの混じった吐息を零した。

「よく知ってるなぁ」
「名前を聞けばね、伊村の一人息子といえば有名だから。百年に一度の天才と謳われ、若くして次期の襲名も間近に控えていたというのに、ある時いきなり家を飛び出して、今も行方知れずとかなんとか」
「……あーあ、やっぱり噂になってるか」

 ちょっとばつが悪そうに微笑んで、惣之助は天を仰いだ。

「居心地が悪かったわけじゃないんだ。俺は養子だけど、親父殿も師匠も、本当によくしてくれた。そりゃ一家の内外には快く思わない人もいたし、陰口も色々叩かれてたみたいだけど、あの世界じゃそんなの当たり前のことだからな」

 まるで他人事のように語る横顔を、雷蔵は笠の下から見つめた。

「でも、もうあそこには戻れない。歌えない歌謡いなんて役立たずなだけだろう。ただ、あんなに世話になったのに、結局俺は親父殿にも師匠にも迷惑をかけて、恩を仇で返すみたいに出てきちまったのが心残りといえば心残りだな」
―――風の噂では、伊村六代目与佐衛門は破門という扱いになっているそうだよ」

 伝えるべきか逡巡したが、こういうことは先延ばしにしたところでいずれは耳に入るものだろうから、今のうちに知って方が良いだろうと思った。
 伊村家は名の聞こえた能楽の大家だった。現当主五代目与佐衛門のころからその栄光は華々しく謳われていたが、特にその当主が傍系の筋から養子を迎えて以来というもの、伊村家の人気は鰻登りで、他の謡手の追随を許さぬほどだった。伊村家親子を贔屓とする客は引きも切らず、一時は熱狂的に人々に歓迎されたものだ。
 そこに、突然の次期看板の出奔。誰も事情の仔細を知らず、人々はただ戸惑うばかりであったという。

「……そうか、やっぱりなぁ」

 惣之助は一瞬息を飲むように喉を動かしたあと、静かに息を吐いた。肩から力が抜け、ぼんやりと虚ろな声音で呟く。覚悟はしていたのだろうが、実際に耳で聞くのでは受ける重さが違うだろう。
 しばらくどこかへ意識をさ迷わせていたが、ふと現実に立ち返り、

「ところで話は変わるんだけど―――本当にこんなんで大丈夫なのか?」
「しー、あんまり大きな声を出さないように」

 そう不安げに雷蔵を伺う惣之助の顔には白い髭が伸びている。髭だけでなく、髪も白かった。着物も先ほどの浮浪者と地味な色合いは変わらぬものの、もう少しまともなものに変わっている。しかし腰をかがめながら杖をつく姿はどこからどう見ても立派な老人だった。もちろん突然老いたわけではなく、変装である。街道に戻ろうとした惣之助に、雷蔵は言った。このまま戻れば、おそらくまだあの侍たちは近くにいるし、でなくとも簡単に見つかってしまう。
 ではどうすれば彼らの目を欺けるか。

「変装のコツは、変わるはずのないものを変えることだ。相手にもよるけど、一般的な人間は無意識のうちにそういうものを捜索の対象から除外する。視界にとどめても最初から注意を払わない」

 決してありえない、あるいは彼らの予想もつかぬもの。一番簡単なのは、まったく正反対のものに化けることだ。

「手っ取り早いのは年齢か性別を変えることだね」

 「年齢か性別?」と惣之助は声をひっくり返した。自分の身体を眺める。どうしたって変えられそうにない。

「もちろんそれなりに道具は必要だけど、素材を見て考えればそんなに難しいことじゃない」

 そう言って雷蔵は背中の荷物を下ろすと、中からおもむろに風呂敷包みを取り出した。中から出てきた道具に惣之助は眼を白黒させている。それもそうだ、なぜ一介の旅法師が老人ものやら女ものの着物など持ち歩いているのか。ついでに鬘まである。他にも謎めいた道具が詰め込まれている。変装などと言い出す時点からして、惣之助にも段々目の前にいるのがただの法師でないことが分かってきていた。ただしそこはあえて突っ込まない。
 雷蔵がしたことといえば実際簡単なものだった。特殊に加工した白粉を使って惣之助の髪と眉を染め、糊で白髭をつけ、そのあたりに落ちていた適当な枝を杖代わりに持たせ、あとは腰を曲げれば即席老人のできあがりだ。幸い惣之助は長い浮浪生活でやつれていたし、日にも焼けていたので、見た目的にもかなりそれらしい。

 一方雷蔵はといえば、これまた墨染から素早く、濃色の地に薄紅(はねず)の梅をかたどった、辻が花染めの小袖に召し替えていた。長い鬘をつけ、下の方で括る。惣之助が唖然とする速さで、あっという間に法師は町娘に化けた。雷蔵はなんということもない顔で「俺の素材はこの顔だから」と言ってのけた。

 そうして老人に寄り添い、支え歩いていれば、誰が見ても旅をする老爺と、祖父につきそう孫娘だ。
 まさかこれが浮浪の謡い手と謎めいた法師だとは、人探しの専門でもないあの侍たちは気づくまい。
 相手を見て変装を決めるとはこういうことだ。ただし変装を見慣れている者が相手であれば、とことん正反対に徹したこのやり方は、逆効果となる場合もある。心配といえば一番目立つ雷蔵の荷物―――龍弦琵琶だが、ここまで変装していればこの程度は誤魔化せる範囲だろうと判断した。

「これからどこへ向かう?」

 まるで孫が祖父の身体を労わる風に顔を寄せ、尋ねる。

「遠くへ」

 惣之助は髭の下で即答した。

「とりあえず遠く、ここから離れたところへ」

 雷蔵は何か思う素振りを見せながらも、口はただ「了解」とだけ答えた。多くを聞く必要はなかった。
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