男たちが駆け去ったあと、雷蔵たちはしばらくその場に留まり様子を見てから、再び歩みを開始した。方角に変更もない。一度騙し通せたということは、二度目以降は疑われる危険度は下がる。

「それにしても、顔を暴かれた時は本当ヒヤヒヤしたな」

 惣之助がしみじみと呟く。実際被害にあったのは自分ではなかったのだが、それでも刀を突き付けられる雷蔵を見た時は生きた心地はしなかった。
 しかし当の本人はといえば、騒動の直後も何事もなかったかのようにケロリとしている。

「さすがにああ出られるとは思わなかったけど、気付かれた気配はなかったしね」

 歯牙ない謡曲師から見れば随分と落ち着いたものであるが、そもそもの場数が違う。惣之助は知らないが、この程度のことは、雷蔵がこれまで潜り抜けてきた修羅場からすれば危機のうちにも入らない。それに、偶然とはいえ知った人間も居合わせたことだ。何かあっても上手く誤魔化してくれるだろうと、雷蔵は心中で期待していた。
 ただし、“彼”の任務に差し障りがなければ、の話だが。

「まあ実を言うと、一瞬だけこの変装の選択は間違っていたかもと後悔しかけたよ」

 朗らかに笑っている雷蔵に、惣之助は答えに窮した。一応他人事ではない。むしろ今の惣之助の命運は雷蔵にかかっているといってもよかった。
 しかし、と雷蔵は顎に手をやる。

「確かにこのままだとまた同じように絡まれることも考えられるな」

 といって、これ以上の変装の手立てはない。ここは顔に泥でも塗っておくかと呟いた矢先、雷蔵の表情が不意に変わった。
 いきなり無表情で黙り込んだ相手を訝り、惣之助が腰を曲げたまま顔を覗き込む。

「どうかしたのか?」
「……」

 雷蔵はしばらく答えぬままでいたが、やがてどこか一点を見据えたままこう言った。

「もしも俺に何かあっても、かまわず旅を続けて。足上まで行けば甲斐はもう目と鼻の先だ」
「え、何―――

 言い終わる前に、惣之助の耳はその音を捕えていた。まだ実態としては遠すぎて完全ではない、しかし確かに空気を震わすもの。去ったと思っていたものがまた戻ってくる気配。
 顔色がさっと白くなる。

「まさか」

 先が続かない。笠の下に除いている口元を凝視しながら、言葉を捜しあぐねている。そうするうちに、馬蹄はすぐそこまで来ていた。
 惣之助が思わず振り返る。そこで、目の前に迫る馬の勢いに恐怖し、思わず手を前に翳し身体を庇おうとした。
 その横で、確かにあったはずの存在が瞬時に消える。
 はねず梅の袖が目の端を舞い、気付いた時には袖の主は突然の狼藉者に抱え上げられていた。馬上での抵抗を封じるためか、相手の反応より早く手刀が入る。
 力を失った身体を担いだまま、騎手は巧みな手綱さばきで方向転換し、来た時同様あっという間に駆け去っていく。
 惣之助は、始終地べたに尻餅をつき、何も手出しできぬまま、そこに放り出された格好となった。




 これ以上行けば国境を越えるというところまで来て、結局獲物を見つけることができなかった男たちの一行は、ひとまず手を止めて一旦引き上げることにした。屋敷に戻って衣を改め、報告をしに参城することになる。
 男たちを統べる源実治と、その随従の仙台春季は主従の関係だが、同時に乳兄弟でもある。春季の母親が、春季の兄である秋吉を生んだ時に、実治の乳母として指名されたのだ。しかしそうなればむしろ同い年の秋吉の方と実治が親しくなりそうなものだが、この秋吉は乳離れと同時に、仙台家の跡取り息子として夫側の祖父母に引き取られた。しかしその母も、二年後に春季を妊娠し、これをきっかけに一旦実治の世話役から離れる。ところが更に五年経って再び実治たちの屋敷に姿を現した。夫が他界したため、生活に行き詰っていたところを見かねた実治の母が呼び戻したのだ。実治が七歳の時だった。
 以来二人は兄弟のようにして育った。住む空間は、嫡男と従僕では異なるが、それでも同じ屋敷内で、一室を与えられて暮らし続けている。中にはこの待遇は過分ではないかという声もあったが、実治は断固としてこれらを無視した。おかげで春季は今も随従衆にしてはかなりの恩恵に預かっている。
 春季は馬を下男に預けてから、はてどうしたものかと、戦利品の扱いに逡巡した。ひとまずどこかに休ませなければならない。しかし困ったことに、春季はすぐに実治に従って城へ参上しなければならず、悠長に部屋の用意をしたり介抱してやる時間がない。
 そこへ、馬を小屋に連れて行こうとしていた佐藤が、よければ自分が代わりに預かろうと申し出た。彼は今日は屋敷に残って警護する役目である。
 春季は変な顔をする。

「ありがたいんだけど……魔性だ何だって言ってなかったっけ」
「最早言っても詮無いことだろう」
「手つけるなよ」
「生憎そんな趣味はない」

 春季の念押しに力一杯否定が返ってきた。何だそれは、心底あり得ないと言わんばかりの響きに、「そんな趣味ってどんな趣味」と春季は首をかしげながら、しかし有難く言葉に甘えることにした。
 しかし、佐藤が娘にしては若干上背のある身体を引き取ると、

「……何その運び方」

 荷物のように肩に担いだ男を半眼で見やる。

「どう持とうと構うまい」
「構わないはずないでしょ。女の子なんだからもっと優しく扱ってよ」
「どうせ気絶している」

 何だかんだ押し問答の末、結局時間の関係で折れた春季が自室に戻るのを確認してから、佐藤もくるりと踵を返し、足早に裏庭へと回った。屋敷に来て二週間は経つ。いい加減人気のない場所というものは把握していた。
 念を入れて辺りに人がいないことを確認してから、佐藤は肩の上の荷物に低く声をかけた。

「おい、起きてんだろ」
「バレてたか」

 打って変わってざっくばらんになった口調へ、これまた面白がるような、明るい返事が返ってきた。

「何がバレてたかだ。さっき小声で散々茶々入れてたのはどこのどいつだ」

 言うやいなや佐藤は手を離しその身体を放り出す。普通なら地面に衝突するところを、軽い身のこなしで爪先から着地してみせた。「女の子にはもっと優しくするもんだよ」とケロリとした顔で言われ、佐藤は史上最高に不味いものを食べたかのごとく、顔を大いに歪ませた。

「不合格だ!」

 半眼でずばりと指を差す。雷蔵は意外そうに自分の服装を見下ろした。

「駄目だったかな。結構いけると思ったんだけど」
「目利きなら一発で見破れるぞ」
「さすが元按察使は手厳しい」

 肩を竦め、雷蔵は元同僚であり友の職名を口にする。

「そういう君こそ、顔見知りならモロバレだよ、佐介」

 佐藤、もとい本名佐門次郎佐介は、黒く染めた赤毛の髷の根元を乱暴に掻いた。

「俺はいいんだよ、見破られるほどの顔見知りなんてそうそういねぇし、これも変装ってほどじゃねぇから」

 その通りである。佐介は京里忍城時代には準戦闘要員で、主に担っていたのは隠密諜報活動だった。その際には必ず変装が欠かせないので、里の者以外で佐介の顔を認識している人間は殆どいない。里がなくなった今、彼が元京里忍城の准上忍にして按察使の衛門佐と呼ばれていたことを知る者はおらず、いたところで、かつて同胞だった者がわざわざ人前で正体を暴露することもありえなかった。
 それよりも、と相変わらずな親友の顔を訝しげに眺めやった。

「お前何でこんなトコにいんだよ」
「まあ色々あってね」

 雷蔵は軽く肩を竦めてみせる。けれどいきさつは語らない。

「どうせさっきの若い野郎に何か曰くがあるんだろ。わざわざあんな格好させやがって」

 佐介の目には下手な小細工は通用しないようだ。変装の達人であり同時に目利きである人間がいれば、自分の施した付け焼刃の変装など易く見破られてしまうことは承知の上だったが、まさか居合わせたのが縁浅からぬ相手であったとは、世の中は狭いものである。時に現つは物語より奇なりと言うが、全くだと雷蔵はしみじみ頷いた。

「君こそどうしたのさ。越後にいたんじゃないの」
「任務だよ」
「ということは潜入調査?」
「まーな」
「獲物はあの猛犬と綿菓子か」

 雷蔵の表現に佐介は苦笑を浮かべる。一見奇妙な喩えだが、要するに無駄に危険で節操のない男と、菓子のように甘く綿のように軽い頭の男ということだ。手厳しいながらもなかなか的を射ている。

「猛犬は源一郎実治だ。頭はこいつだよ。綿菓子の方はその乳母弟の仙台吉仲春季。でも身分は俺と同等だ」
「で、俺はどうしてまたその乳母弟殿に拐される羽目になったわけ」
「あいつらの悪い遊びだよ。女に目がねえの」

 佐介は寒気だったように両腕をさする。

「にしたってお前が引っかかるなんて、悪趣味な冗談としか思えない」
「あのね、被害者は俺の方なんだけど」

 雷蔵が一応抗議する。その割に平然としているのは、変装の有無に関わらず女に間違われるのは初めてではなく、性別に関わらず血迷った輩から不埒な目に遇いかけたのも過去に一度や二度ではないからだ。墨染めを纏うようになってから大分なくなったが、現役時にはそれを利用して任務遂行をしたこともある。もちろん、どのような場合であっても未然に防ぎつつ相応の報復を下したが。

「ともかく、お前は今のうちに行けよ。あいつこれから御前様のとこ行くし、今なら目を離した隙に逃げられたってことにすれば俺一人の責任でどうにかなる」

 この程度のことなら実治から特別罰せられるということもないだろうと、佐介は肩を竦める。
 しかし雷蔵は別のところに気を引かれた。きらりと瞳が光る。

「御前様って?」
「ああ、ここら一帯を収める女城主だよ。三百貫程度の小さな国人だけどな、先代の一人娘で御前様と呼ばれてる」

 実に珍しいことだった。弱肉強食の今の世で、いくら直系の娘で男兄弟がいないとはいえ、女の身で男を差し置き城主になるということなど、ほとんど認められないと言っていい。嫡男がいない場合、大抵婿を取るか、先代の腹心などが代わって采配を振るうのが常である。

「何でも沙汰があって、地侍全員にお呼び出しがかかってんだ」

 雷蔵の脳裏に、何かピンとくるものがあった。

「それってもしかしてある男を捜し召し捕らえよとかそういう話だったり?」
「よく知ってんな」

 佐介が驚いたように目を見張った。普通なら沙汰が下される前にすでにその内容を知っているのはおかしいのだが、そこは佐介である。持ち前の情報収集能力によって、召集命令以前に城の動きは大方把握している。こちらも思い当たったことがあるらしく眉間を皺寄せた。

「……まさか、さっきの」
「佐介は何でまた彼らを探る命令を受けたんだい。見たところ越後にそう大きな脅威となりそうな様子もないけど。位置的にも要所から外れてるし」

 ここで佐介は制止を表すように、バッと片手の掌を雷蔵に向けた。

「それ以上はただじゃあ話せねぇな」
「しっかりしてるよ」

 しかしこれが普通だ。任務の内容は極秘が鉄則である。ここまで話したのも、ある意味雷蔵だからという特別待遇だった。
 雷蔵は考えた。ここまできたら、すべて事情を話した方がむしろ打開策を探るには最適かもしれない。佐介は一応実治の下についていることになっているが、その身分も本人の話し振りだと、必ずしも真摯に忠節を尽くさなければならないものでもなく、単に監察に都合がいいから、という程度のようだ。

「じゃあお望みどおり交換条件といこうじゃないか」

 佐介はニヤリと口角を上げた。

「そうこなくっちゃな」
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