円路(えんじ)という男がいてね。俺と同じで、元々貧困の家だったそうだけど、謡いの才があった。それが認められて伊村の傍系にあたる吉野に弟子入りしたんだ。けれどこれがとんでもない乱暴者で、ついに破門された。奴は家から追い出された後、生来腕っ節が強かったこともあって、ごろつきたちの王になっていた。
 確かに奴の謡いの才は並々ならぬものがあった。噂では、俺がいなければ伊村に入っていたのは円路だったはずみたいだよ。それくらいすごい才能を持っていた。けれど奴は己の才に驕って、溺れた。多くの謡い手たちを打ちのめしたんだ。力でじゃない。謡いでだ。

 謡いの世界っていうのは実力勝負だからね。誰もが己の謡いにそれなりの自負を持っている。円路はそれを打ち砕いたんだよ。不思議だろう? 謡いでどうやってそんなことができるんだって。ああいや、君なら分かるかもしれないね。同じように楽を生業とする者なら……。
 謡い手にとって一番の恥は、唄を「外す」ことなんだ。逆にいえば、「外される」ことを最も屈辱とする。唄には波があるだろう? あれを外させるんだ。やり方は色々ある。円路が得意としたのは、相手の謡いを聞いて波を読み取り、波に合わせて謡い返し、そしてやがて自分の波を織り交ぜる。すると、相手は己の波を乱され、律を見失って、最後には音を「外し」てしまうんだ。自信のある者ほど、受ける衝撃は大きい。多くの人が、円路によって打ちのめされ、謡い手を辞めた。

 円路が吉野を破門されたのは、奴がこの禁じ手を兄弟子に仕掛けたからだ。二人は仲が相当悪かったそうだったけど、これにはさすがに、それまで円路の悪行に目を瞑ってきた吉野のご当主も我慢しきれなくなったらしい。円路は破門された。けれどそれをきっかけに、箍がはずれたみたいにあらゆる謡い手に勝負を仕掛けるようになった。まるでならず者の道場破りみたいにね。あるいは噂を聞いて勝負をしかけられることもあったらしいけど、円路が謡い勝負で負けたことはついぞなかった。

 たださすがに伊村の者は冷静だった。彼らは伊村としての自負から、むしろなるだけ円路を遠ざけ、仕掛けられても相手にしなかった。だからか円路も伊村相手にはそうそう仕掛けなかったようだよ。やりにくかったんだろうね。
 けど、ある日ついに事件が起こった。一人の伊村の謡いが門下を去った。その人は俺の兄弟子だった。生き馬の目を抜くような競争意識の中で、何かと標的にされる俺を庇って面倒を見てくれた。血はつながってないけど本当に兄貴みたいな人だった。でも勝気な兄貴肌だったところが災いしたんだろう。その時出くわした円路に対して、これまで多くの仲間をやられてきた義憤から我慢しきれずに勝負を受けてしまったんだ。結果は分かるだろう。

 結局兄弟子は伊村を辞めたよ。そこまで謡いに熱心だった人ではなかったけど、掟を破ったことと、何より伊村の者としての自信を汚されたことが原因だった。最後に見た時、あの人はどこか虚ろな目をしていたよ。あんなに明朗で磊落な人だったのに。
 俺は本当に悔しかった。心底悔しくて憎くらしてたまらなかった。そして好奇心もあった。円路というのは一体どんな奴なんだろうか。それほどの謡い手なのか。
 本当に若気の至りというのは愚かしくも恐ろしい。俺は親父殿にも一家の者にも内緒で、こっそり単身奴が根城にしているという寺に乗り込んでみた。全く厚顔なことに奴は出家などしていたからね。
 向こうも伊村の次期与左衛門が来たとなればさぁ黙っちゃいない。もしもこれで俺を打ち負かせば伊村の誇りは地に落ちたも同然だからね。自分を破門した人間たちへの最高の報復にもなる。

 俺は奴と本堂で対峙した。御仏を横に、互いに端坐して、睨み合った。
 円路という男は、思ったほど豪傑ぶった強面でもなかった。体格はよかったけど、ちょっと見には噂に聞くような粗野なところや下卑たところは見られなかった。けれど細い目だけが猛禽めいた鋭い眼光を放って、何だか嫌な感じがした。
 最初に口を開いたのはあいつの方だった。「最初はどちらからにするか」と聞くので「ではそちらからどうぞ」と俺は答えた。円路は笑ったよ。こう、片方の口端だけを軽く吊り上げた、歪んだ嘲笑い方だった。謡い外しをする際、先に謡う者の方が有利だからね。でも俺には自信があった。絶対に外されぬと信じていた。

 呼吸を整えてから、円路は謡い始めた。耳にした時はさすがに震えたよ。こんな非道で非情な性根の者が、どうしてどうしてこんなにも素晴らしい響きを紡げるものかと。むしろ口惜しかった。これだけの才をもちながら、どうしてこれほどの外道に堕ちたのか。
 けれど、それでも俺にとっては敵ではなかった。俺はあいつの謡いを聞いて確信した。これなら外せると。
 俺は奴が謡うのを聞きながら、指先で波を捕えた。奴の歌声に合わせて、床の上で拍をとる。こうやって、とんとんって具合にね。いつまでも謡いださぬ俺に、最初のうちは怪訝そうにしていたけど、やがて奴は青ざめ始めた。俺は指で取った波を、少しずつずらしていった。その僅かなズレだけで、奴の波に動揺が走るのが手に取るように分かった。俺には円路の、どの波でどう拍をずらせば律が崩れるかが分かっていた。
 謡いではなく、たかだか指一本の拍子で崩された円路は慌てていた。必死に己の調子を保とうとするのだけど、目や耳に入る俺の指の動きでどんどん深みにはまっていく。俺は追い込んだ。勝負はあった。

 ついに円路は謡うのを止めた。
 その顔は先ほどまでの自信が嘘のように落ち、真っ青だった。
 そんな円路に俺は残酷に言ったよ。「おや、もう終わりですか、まだ謡い返しもしていなかったのですが」ってね。
 円路は確かに非常な衝撃を受けていた。剥いた両目がどす黒い、絶望的な色に染まるのが分かった。勝負はあったわけだから、俺は帰ろうとした。端から奴の前で謡おうとなんて思ってはいなかった。謡いをそんなもので汚してはいけないと思っていたんだ。
 けれどそんな俺に、奴は人が変わったように這い、縋りついてきた。「お前の謡いを聴かせろ」あいつはそう言ったよ。
 あまりの形相に、その段になって俺は急に怖くなった。追いすがる手を無理やり叩き落として、動揺を隠そうとして声を上げた。「お前に聴かせる唄などない」。そう怒鳴りつけて、逃げるようにそこを去った。背後にずっと奴の視線が張り付いているようで、家に戻ってからも恐ろしくてその日はずっと閉じこもっていた。何か己が取り返しのつかぬことをしたんじゃないかって気がしてたまらず、しばらくは何も喉に通りそうもなくて、家の者たちからもかなり心配された。

 それからだよ。円路が頻繁に俺の周辺に姿を現すようになったのは。まるで人が変わったみたいな面相にぎょっとした。といって前のように謡い手達に闇雲に仕掛けてくるようなこともない。落ちくぼんだ、浮浪者のような目で、じっとこちらを見ているだけ。それも、俺だけが気づいている。周りは変な奴がうろついているとは怪しんでいたが、それが円路だとは気づいていなかった。本当に見違えるほど変わり果てていたから。
 俺は無視を決め込んだ。でも内心怖くてたまらなかったよ。一体何をするつもりなのか分からなかったし、何より俺が謡いの勝負をしたことは周りの誰も知らない。もしも掟を破ったことが知れたらただではすまないからね。円路は何もしなかった。けれどその視線で、俺は奴が何を望んでいるのか分かっていた。謡いだ。
 といっても、能楽の舞台は円路みたいなならず者は入れないし、いわんや謡い手を務めるのが伊村家だ。どの幕も満員御礼で、舞台もわずかな隙間や音漏れなどないよう厳重に造りこまれていたから、あいつが俺の謡いを耳にする機会はない。なのに諦めずにあいつは現われる。

 俺は日に日に憔悴していったよ。無性に梅香に会いたかった。謡いの勝負の日以来、全く会いに行っていなかったから。足を留めたのは罪悪感からだった。
 けれど、ついに我慢しきれなくなって、俺はあいつに見つからぬよう、こっそり裏口から出て行き、庵まで走った。
 梅香は庵にいた。縁側に腰掛けて、ぶらぶらとつまらなそうに足を揺らしながら。縁側の梅は花が落ち、長い眠りを経て、再びつぼみをつけているところだった。俺が来たのを見ると、パッと嬉しそうな顔をして走り寄ってきた。けれど俺の顔色が尋常でないのを見て、ひどく心配そうにした。
 俺は梅香に懺悔したかった。けれどできなかった。ただ抱きしめた。会ったらなんだかホッとして、ずっとそうして抱きしめていたかった。
 謡を請われたけど、俺はどうしても謡えなかった。謡いたかったけど、そんな気分になれなかった。謡いなんてどうでもよくなってしまってね。
 梅香はその日、俺を慰めるために舞ってくれた。俺は久しぶりに穏やかな気持ちでそれを楽しんだよ。永遠に続けばいいと思ったけど、日が暮れる前には帰らなければならない。帰り際に、梅香は梅の枝を俺に手折ってくれた。蕾がついた枝。俺はそれを大事に持って帰って、部屋に生けた。花開く瞬間を思うと少しだけ心が軽くなった。

 でも、その二日後……舞台を終えて家に戻った俺は、部屋に生けていた梅の枝が、蕾が花開く前にすべて萎れているのを見た。
 そんなはずはないんだ。朝に見た時にはちゃんと瑞々しい命を宿していた。鮮やかな赤が今も綻びそうになっていたはずなのに。それが蕾どころか、枝までもが枯れていた。
 その瞬間、俺は雷に打たれたように打ち震えた。
 家人が止めるのも聞かず、弾かれるように家を飛び出して、大急ぎであの場に向かった。
 辺りは夕暮れで、今にも暮れようとしていた。向こう側の空が金色に光っていた。徐々に視界が悪くなって、まるで何か得体のしれない物の怪に呑み込まれるような錯覚を覚えた。
 庵まで走った。梅の木が見えた。
 走りながら、ホッとした。誰もいなかったから。
 けれど、木に近づいた足が凍りついた。

 異臭がした。かぐわしい梅の香とはほどとおい、生々しい腐臭。

 木の後ろで、袖が揺れている。風に揺られて、チラチラと。それが夕陽に一瞬紅く染まって見えた。

 けれど、よく目を凝らせばそれは、黒だった。

 墨の袖。

 俺は恐る恐る後ろへ回った。頭では行くな、見るなって言っているのに、足が止まらなかった。

 そこには、太い枝からぶら下がる円路の姿があった。首に回した縄に吊られて、揺れていた。爪先は地についてなかった。
 地上に落ちる真っ赤な蕾が、まるで亡骸のように散らばっている。そして水気を失って枯れた、変わり果てた梅の木。
 木の幹に、無残に刀で刻まれた痕があった。
 それは文字を為していて、こう書かれていた。


 「 う た い を 」


 俺は叫んだ。
 何を言ったかよく覚えていないけど、滅茶苦茶に大声で叫んで泣いた。
 その後どうしたのかは分からない。どうやら屋敷の人間が探しに来て俺を見つけたらしかった。
 それからの記憶は少し曖昧なんだ。ぼんやり薄靄がかかったように、よく思い出せない。ただ次に気づいた時は、俺は白い布団の上でぼんやり座っていた。障子戸を開放した縁側は、瑞々しい緑に溢れかえっていた。いつの間にか季節は夏になっていた。
 俺はふらつく足で庵に向かった。
 庵はとうに壊されてなくなっていた。
 庭の梅の木は、根元から切り倒されていた。
 切り株を前に、俺はずっと泣き続けたよ。
 そして俺は謡いを失ったんだ。
 俺の梅と共に。
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