「そうして俺は謡うのをやめた。親父殿にすべてを話して、伊村の家も出た」

 惣之助は顔を覆っていた。くぐもった声が震える。

「俺は日本一の愚か者だよ。いきがっていたんだ。自惚れで、謡いでいたずらに人の一生を奪った。そのために何の罪もない梅香まで巻き込んだ。俺は自分を罰しても罰しきれない。何も知らなかった、謡いだけがすべてだった頃のようには、もう戻れない」
「君は……彼女が人でないことに気づいていたんだね」

 雷蔵の言葉に惣之助が僅かに手を離す。

「……途中から、何となく人間ではないような気はしてたよ。いつの間にか梅の木の後ろから現われる梅香。どこへ消えていくのかもわからない、不思議な娘。でもどうでもよかったんだ。梅香が人でなくても、梅の精でも。ただ、俺のせいで彼女は……」

 雷蔵は、慟哭する惣之助から縁側に植えられた梅の木へ視線を移す。
 木の下には、紅の小袖が可憐に揺れている。
 惣之助の目には見えていない。いや、見えぬ方がよいのだろう。今この姿を見たら、きっと惣之助は正気ではいられなくなる。もっと苦しむことになる。だから彼女はこのやり方を選んだ。
 彼の梅は、今もずっと惣之助と共にいる。
 涙にぬれた大きな漆黒の瞳が、一途に雷蔵を見つめている。

「ねえ惣之助殿」

 隣で背中を丸める男へ、そっと声をかける。暖かすぎも冷たすぎもせぬ落ち着いた声音に、惣之助は顔を上げた。
 雷蔵は梅を見つめたまま、告げる。

「彼女に、会いたいかい?」

 惣之助は耳を疑った。目を凝らすようにして少女の姿をした者を見る。そんなことができるのか。
 恬淡としながら不思議な光を宿す双眸が向けられる。

「会わせてあげようか」
「……一体、どうやって?」

 惣之助には辛うじてそれだけを絞り出すので精いっぱいだった。

「言っただろ? 俺は君の同類だって」

 雷蔵は軽く微笑んだ。

「俺には少々変わった力があってね。人や―――この世に宿る魂に呼びかけることができる」

 この法師が徒者でないことは、惣之助も薄々感づいている。けれどにわかには信じがたい。

「惣之助殿にも、同じことができるんだよ」
「え?」

 惣之助には訳が分からず、戸惑う。
 白い眉の下の困惑を見てとって、雷蔵は慌てずゆっくり説明した。

「君は神歌唄いだから」
「神歌……?」
「君の歌声は神霊を動かす。かつてはそういう力をもつ者たちは神へ捧げる歌を唄って、御霊(みたま)を慰めたり豊作を願ったものだけど、時代と共に風習は失われた。今は君のように神歌を唄える者が生まれても、大抵は知らぬままに一生を終える」

 そう語る雷蔵の眼差しはあくまで静謐で、冗談や空想を口にしているようではなかった。

「雷蔵殿、君は一体―――

 惣之助の問いに、雷蔵は僅かに逡巡する。それから双眸を伏せて答えた。

「俺は、そういう家の筋なんだ」

 雷蔵の一族、正確には父方の血筋には楽を媒介とする審神者がよく生まれた。龍弦琵琶と呼ばれる神楽器を奏し、呪い歌を唄うことで、魂を「ゆら」す。時に荒ぶる魂を宥め、時に悲しむ霊を慰める。その音色は森羅万象に語りかけ、神降ろしの際は依代を補佐し、神が下ればその魂を安んじて名を問う。
 けれど神歌唄いはもっと強い。神の心をも揺り動かす、神に愛された謡い手。

「君は」

 惣之助は何かを言いかける。が、すぐに首を振り別の質問を口にした。

「本当に、本当にもう一度梅香に会えるのかい?」
「ああ。けれどそれには君が謡いが必要だ。上辺のものではない、本物の」

 惣之助の身体が硬く強張る。
 彼は謡いを忘れたわけではない。雷蔵には分かる。あの夜、酔うままに謡っていた鼻歌は、微かなりともその片鱗を遺していた。人を、神さえも振わせる本物の謡いの力を。彼はただ恐れているのだ、謡うことを。だから意識的に封印している。
 それを呼び起こせられれば、必ず成功する。
 けれどこればかりは己の力でどうにかするしかない。雷蔵は手を貸すことはできない。惣之助自身が乗り越えなければ。

「そしてもう一つ。会えるのは一度きりだ」
「え?」
「会うことはできる。けれど次に会ったら―――それきり、二度とは会えない」
「どうして……どういうことなんだ?」

 動揺する惣之助に、雷蔵は答えぬまま梅を見る。少女はただ静かに涙を流している。
 それは、その時になったら分かることだ。
 小さく息をつき、目を惣之助へと戻す。真っすぐ強く見据える眼光に、惣之助はたじろいだ。

「全ては君次第。だからよく考えて決めるんだ」

 惣之助を見ながら、雷蔵の視線は遠くを見つめていた。その先には、この領地内で起きたすべての出来事の因縁が、薄っすらと浮かんで見えてきていた。
前へ 目次へ 次へ