俺が謡いを失うまでの経緯だよ。長い長い話さ。

 知っての通り、俺は東国―――ああ、古くから鎌倉にいる者はね、好んで東国と言うんだけど―――そこの庄屋の家に生まれた。七人兄弟の末っ子でさ、昔から歌うのが好きだった。何でもいいんだ、子守唄から田植え歌から。歌とつく者はおよそ何でも歌ったよ。村でもそこそこ評判でさ。まぁもっとも、その時はまだせいぜい喉自慢っていう程度だったけど。

 そこにたまたま古川の……伊村の分家筋のご当主が通りかかって、気に入ってくれてね。良ければ弟子入りしないかって。親父たちも万々歳さ、何せ七番目の息子なんて家も継げやしないごくつぶしみたいなものなのに、由緒ある能楽のお家に入れてもらえるわけだから。俺も嬉しかった。これから思う存分、いろんな歌を好きなだけ歌えるのかと思うとわくわくして夜も眠れなかった。

 弟子入りしてからも、貪るように譜を覚えて、毎日朝から晩まで謡った。謡いすぎて、喉を傷めるぞって古川の親父殿から一度叱られたっけな。それくらい、俺は謡いの魅力に取り憑かれて、のめり込んでいった。
 どうやら俺にはいわゆる新鋭の才ってやつがあったらしい。もっとも俺自身はそんなことどうでもよくて、ただ好きなように歌ってただけなんだけどね。古川の親父殿は俺にそれを見出すとすぐさま本家の伊村に俺をつれていったよ。そして伊村の親父殿―――五代目与左衛門の養子にって、とんとん拍子で決まった。俺は何がなんだかよくわからなくって、ただぼんやりしてた。

 あっという間に養子縁組が終わって、さぁ今度は伊村の家での修行だ。さすが本家なだけあって、当主はもちろんのこと門下には経験豊富な人がそろってた。俺は必死になってついていったよ。そりゃいじめられたりして辛いこともたくさんあったけど、謡えるなら何も気にならなかった。伊村の親父殿は自ら手ほどきをしてくれるだけでなくて、暇を見つけては俺を自分の舞台に連れて行ってくれたから、すぐに真髄みたいなのも掴めたしね。

 当時の俺は謡いに夢中だった。いや、狂っていたといってもいい。披露目を兼ねた初舞台を終えると、毎日が怒涛のように忙しくなった。謡うのは相変わらず好きだったけど、好きな唄を好きな時に好きなように謡えなくなって、ちょっと悲しかったな。自由が奪われたようで。それでも遮二無二やってたら、いつの間にか周りから次期与左衛門だなんてところにまで目されるようになっていた。

 そんな謡狂いの俺に、ある日衝撃的な事件が起こった。それをきっかけに、俺は謡い以外の……別の世界を知ったんだ。
 如月の、大分風が暖かくなってきた時期だった。その日は晴天でね。よく覚えているよ。今でも、まるで昨日のことみたいに鮮明に思い出せる。
 久しぶりに仕事の入ってない休みだった。あまりにも気持ちのいい日だったから、不意に散歩でもしようかと思い立ったんだ。最初はぶらぶらしていただけなんだけど、ふと風に乗って梅の香りがしてきた。なんとなく気を引かれて、好奇心で香りの源を辿ってみた。どんどん景色から人気がなくなっていくんだけど、でも不思議なことに恐怖はなかった。まるで何かに誘われるみたいに歩いたよ。近づくごとに香りが強くなっていくんだ。

 そしてついにそこを見つけた。こじんまりとした庵があって、その庭に一本の美しい梅がぽつんと植わっていた。
 静かなところだったよ。町から大分外れたところで、近隣の農家からも大分離れていた。その庵自体も人が住まなくなってかなり絶つのか、朽ちかけていた。
 俺はその庵を気に入って、こうやって今みたいに縁側に腰掛けて、気の向くまま、心誘われるまま、謡った。しばらくそうして自由に謡ったことがなかったから、解放されるような気分だった。
 そしてふと気づいたら、梅の木の後ろに、風に揺れる紅い袖がチラッと見えたんだ。
 うっかり笑ってしまったよ。隠れているつもりだったんだろうね。「誰かそこにいるのか」って声をかけた。きっとすごくびっくりしたんだと思う。しばらく何の音沙汰もないと思っていたら、ようやくおずおずと顔をのぞかせた。
 出てきたのはハッとするほど可愛らしい娘だった。まだ十五、六くらいで、透き通るような白い肌に、幼な髪のままの真黒な髪がさらさらと揺れていた。目にも鮮やかな紅無地の小袖に薄紅の帯を締めてて、俺は一瞬梅の精か何かかと思ってしまった。それくらい綺麗な娘だった。
 でも彼女は警戒しているのかこちらに近づいてくることはなくて、もう一度声をかけたらあっという間に逃げてしまった。待って、って呼びかけたんだけど、もう姿は見えなくなっていた。

 以来、俺はその娘のことが忘れられなくなった。
 二日後に、無理を言って暇を作ってもう一度あの庵に行ってみた。
 彼女がまた現われないかと期待して、ずっと待っていたよ。でもどれほど待っても現われない。偶然が二度続くわけないととうとう諦めかけた時、ふとあの時と同じように唄を謡ってみた。いつも謡っている時は心を遊ばせて何も考えないんだけど、この時は彼女に届くよう願いを込めた。
 そうしたら、いつの間にか梅の木の後ろで紅い袖が揺れてた。
 俺は嬉しくなって、でもまた逃げてしまうんじゃないかと怖くなって、そのまま謡い続けた。どうか逃げないで欲しいって必死に念じながら謡って謡って、ついに謡い終ってしまった。それで迷った挙句、思いきって「逃げないで」って声をかけた。「何もしないから、出てきてくれ」って。
 すぐに駆け寄って木に近づきたい衝動を必死に抑えて、じっとそこから動かずに待っていた。
 どれぐらいしてからか、ようやくそろそろと出てきてくれた。本当に木の影から覗いただけだったけど、俺は嬉しくなって、それだけで満足で、また来るからって言って帰った。

 それから俺は、暇さえあれば庵に足を運んだ。さすがに毎日とはいかなかったけど、数日に一回でも彼女に会いに行った。謡うと彼女は現われる。どこか近くの家の娘なんだろうと思ってたよ。俺の唄に気づいて来てくれてるんだと。
 謡っている時、最初のうちはうっとりするように目を閉じて聞き入っているようだった。それがそのうち、謡いに合わせて舞いを踊りはじめるようになった。
 彼女の舞いは素晴らしかったよ。本当に。どんな能楽の舞踊とも違う、軽やかで華やかで可憐な踊り。まるで香りを纏っているかのように、舞いに合わせて薫風が広がって……思わず引き込まれて、目が離せなくなるくらいだった。

 彼女が何処から来たのか、家がどこなのかは分からなかった。何せ声が出せなかったんだ。可哀想に、事故か、喉の病にでもかかったんだろうと思った。でもこちらが言っていることは聞こえているようで、何か話せば反応を返してくれる。でも名前を訊いても、首を振るばかりで。きっとこんな見ず知らずの男に名前を明かせないのだろうと思って、彼女のことは「梅香」と呼ぶことにした。梅の香りと共に現われたからね。我ながら単純だと思ったけど、彼女はこの名前を気に入ってくれたようだった。
 それでも初めの内はなかなか側までは近寄ってこなくてね。俺が側に寄ろうとすると逃げてしまう。逃げられるのが怖くて、俺は奇妙な距離感をずっと保っていた。それでも少しずつだけど、彼女の方から近づいてきてくれて、俺に触れてくれるようになった。

 俺は梅香を愛した。梅香も、俺を愛してくれた。彼女がどこの誰であろうとどうでもよかった。
 俺の世界の中心は、いつの間にか謡いでなくて梅香になっていた。
 庵にいる時だけ、その時だけ俺の世界には梅香だけしかいなかった。
 俺たちは肌を合わせたことはなかったけど、そんなことは必要がなかった。俺は梅香の為に謡い、梅香が俺の為に舞う。そうしてお互いの心を重ね合わせられた。こうやって穏やかに心の通わせる充足感があることを、教えてくれたのは彼女だった。
 けれど俺は救いようがないほど馬鹿だった。まだ世間知らずの、愚かな餓鬼だったんだ。
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