5.記憶の水面揺れ動き、残思の欠片交叉す



 惣之助は、寝起きする室のある棟から離れた、北向きの庭にいた。おかげで遠くで起きている騒動には全く関わることなく、むしろ知らぬまま、ただ目前に端然と佇む梅の木を見上げていた。
 まだ梅の次期には早いが、枝の蕾は綻び始めている。早咲きの種なのかもしれない。梅の香があたりに満ちている。紅梅だった。
 先刻離れたところから、楽の音が細く流れ聞えてきた。そして本当に微かな人の歌声。風向きのせいかそれは途切れ途切れだったが、ひどく心を惹かれた。けれど、まるで引き止められるみたいにこの梅に目を奪われてしまって、足の裏から根が生えてしまったみたいに、動けなかった。そのまま縁側に座り、日が傾き暗くなるのに気づかないほど、ただ見つめ続けていた。

 昔は謡うことがすべてだった。それだけが人生と言っても過言ではないほど好きだった。周囲からは謡の神に愛されていると褒めそやされたが、謡に憑かれていると陰口を叩く者もいた。けれどどうでも良かった。それくらい謡うことしか目がなかった。今思えば、憑かれていた、というのはあながち間違いではなかった。
 それが変わったのはいつからだったのだろうか。
 自分の世界に、謡以外のものが入り込んだのは。
 梅香に包まれて、記憶の海にとろとろと沈みこんでいく。

 横に座った人の気配に我に返った時は、すでに辺りは闇に飲まれ、梅の木さえも夜の帳に覆い隠されていた。
 夜になって蜜が濃くなったせいか、見えぬ中に梅花の薫香が一層濃密に香っている。まだ三分咲きにもなっていないというのに、これはどうした不思議だろう。
 芯のぼんやりする頭で思いながら、隣に目線を投じる。
 月明かりの中に、雷蔵の横顔がぼうっと浮かび上がっている。

「今日はこっちで寝ろってさ」
「え?」

 唐突な話に、惣之助が瞬きをする。白く染めた眉の下から、視線で問いかける。

「何、少し障りがあってね」

 雷蔵は一瞥もせず微笑んだ。実際この室を強引に指定したのは雷蔵だった。
 不思議そうにしている惣之助の目が、その膝に抱えられた楽器に止まる。

「さっき……弾いてたかい?」
「ああ」

 琵琶のように見えて、若干違うそれを、しばらくじっと見つめた。

「何か」
「ん?」

 ポツリと零れ落ちた声に、雷蔵はようやく首を巡らす。
 だが惣之助はすぐさま首を振り、「何でもない」と俯く。
 音に気が惹かれた。楽の音への、堪えがたい欲求。
 しかし同時に、拒否感がもたげる。嫌悪感にも似たそれは、およそあらゆる楽というものを自分の側から排除しようと働きかける。
 聴きたい。でも聴きたくない。
 矛盾と葛藤。
 雷蔵はそんな惣之助をしばし見据えたのち、おもむろに撥を取ると、ゆっくりと弾きはじめた。
 静謐な夜を縫う、涼やかな旋律。酔いしれそうな香りの中で、冷や水を浴びせられたように、惣之助はハッとなる。
 気づけば耳が、全身が、聞き入っていた。
 存外柔らかな音色だった。
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