キシリ、と天井で音がした。
 本当に微かな、気づいても家鳴りと思われそうな軋みに、しかし雷蔵は予感を覚えた。つらつらと文字を追っていた書(暇つぶしにと春季に要求したのだ)から、上方に視線を移す。
 かの襲撃からすでに三日経っている。雷蔵たちはといえば、意外にも平和に過ごしていた。しばしば襲来する春季の秋波攻撃から身を躱しつつ適度に相手をし、惣之助は飽きもせずひねもす梅とお見合いしている。
 単調ともいえる時間の流れの中に到来した予感が、再度の凶手の来訪を告げるものでないことは、空気で分かった。どれだけ上手く気配を消せたとしても、殺気や敵意、闘志と言ったものは隠し切れない。
 部屋の縁側には、今日も今日とて老人姿の惣之助がじっと座り梅の木を見つめている。そうしていると本当に老爺にしか見えない。変装は、用具が切れた雷蔵の代わりに佐介が新たに手を施してくれたので、当面バレる心配はなさそうだ。
 監視は常に二人体制で張り付いていたが、日がな動くこともそうない二人を相手に暇そうに欠伸をかみ殺していた。しかし上手いことに、雷蔵のいる位置は彼からは障子のせいで死角になっている。
 雷蔵はそっと音を立てぬように書を置き立ち上がると、軽々と跳んで欄間に手をかけた。
 そうして天井板をずらした時に、上から突如腕を捉まれた。

「あれ?」

 力任せに天井裏に引き込まれたと思えば、背後に素早く板を戻す元同僚の姿があった。
 唇に手を当て、目配せだけで意思を伝えてくる。雷蔵は無言でそれに従い、二人は音もなく天井裏を移動した。

「これまた変わった呼び出し方だね。一体どうしたんだい」

 屋根の合掌の端、日差しが微かに入る破風のあたりまで来てから、雷蔵はようやく口を開いた。実は真下では下人たちが忙しなく行き来している。だがこういう人いきれのある場所は恰好の隠れ場でもある。下手に人気のないところにいる方が、微かな気配でも周りから浮き立つので、見つかる可能性は高くなるものだ。
 佐介は髪や肩についた蜘蛛の巣やら埃やらを叩きながら、

「お前と一緒にいるところを見られると妙な誤解を受けて都合が悪いんだよ」

 世も末みたいなしかめっ面で、大仰にため息をつく。それから半眼でじろりと雷蔵を睨んだ。

「大体お前もな、どうしたじゃねぇよ。あんな派手に立ち回りやがって」

 先日の刺客騒動のことを言っているのだと気づいて、雷蔵は小首を傾げた。

「まずかったかな」
「まずいっつーか……」

 ああもう、と手を顔に当て、佐介は唸った。

「あれじゃ只者じゃありませんって自分から言ってるようなもんだろ!?」
「大丈夫だよ。襲ってきた刺客は結局全員死んでしまったし」
「そうじゃなくて、仙台に疑われたらどうするんだよ。もしくはもし他の屋敷の連中に見られでもしたら……」
「あの付近一帯に生きている人間はいなかった。大体人の気配が近づけば気づくしね。綿菓子殿に関しては問題ない」
「問題ないって」
「彼、とっくに気づいてるし」

 佐介がぎょっと雷蔵の方を振り見た。

「お前が男だってことにか!?」
「忍びだってことにね」

 雷蔵は目を瞑りやれやれとばかりに肩を竦めて、そのことを話して聞かせた。
 佐介の面に、驚愕の代わりに理解不能とも拒絶反応ともつかぬ複雑な色合いが浮かぶ。

「ということは、奴ぁ、お前のことをくノ一だと思い込んでると」

 よりにもよって、くノ一。

「初対面の時に感づいたみたいだよ。まぁ俺に質した時は、半分はカマ掛けだったんだろうけどね。それでも侮れないと思いきや、肝心のところが抜けてるんだから」

 先入観って恐ろしいねぇと他人事のように首を振る。そういう問題じゃないだろ、と呆気にとられた突込みが入った。

「それよりも佐介、あの黒ずくめの集団について何か突き止めたんだろ」

 相変わらず察しの鋭いことで、と佐介は唇を歪めた。
 答える代わりに、手首だけで何かを放った。それを難なく二本の指で捕えてみれば、件の刺客が使っていた苦無であった。いつの間に入手したのやら。
 かすかな明かりに煌くそれをちらりと一瞥しながら、無言で説明を促す。

「案の定って言うか、御城付きの影の持ち物だったぜ」
「御城付きというと」
「姫御前専属ってことさ」

 さすが地方の情報に精通している元按察使はあっさり答えを吐き出した。

「何で『御前様』の飼い犬たちが綿菓子殿の命を狙うのかな」
「さぁな、本人には心当たりがありそうな様子だったが」

 佐介は頭の後ろで腕を組んで壁に寄りかかる。
 刺客が現れた時の春季の態度を鑑みると、確かにそう考える方が自然ではある。

「ということは佐介、もしかしてあの時最初から見物してたわけ?」

 それならば早いところ手を貸してくれても良かっただろうに。言外の非難に佐介は気まずそうに鼻柱をかいた。

「本気でヤバくなったら出て行くつもりだったさ。でもその前にお前が暴れ出したんだろ」

 言い訳がましいが要するに出る機を逸してしまったということだろう。

「まぁいいけどさ。けど襲われることに心当たりがあるとすれば……もしかして御前様相手に痴情の縺れとか?」
「あの仙台某ならありえそうな話だが、さすがになぁ。あの御前じゃそりゃないだろ」

 おっそろしい女傑らしいぜ、と揶揄めいた囁きを返す。面をつけ、誰にも本当の姿を見せない姫御前の話を語って聞かせた。
 なるほどねぇと相槌を打ちながら、

「なら他に何が考えられる?」
「さあて、そりゃ本人に訊いてみねぇとな」

 雷蔵は瞼を半ばまで伏せ、熟考するような面持ちで苦無を弄ぶ。

「何か知っていそうな口ぶりだね」
「べっつにー」

 そんなに気になるなら本人に質してみりゃいいじゃねぇか、色仕掛けとか使ってさ、といつになく笑えぬ皮肉など口にする。

「ふむ、また交換条件がなきゃ教えないってことか。本当しっかりしてるよ」

 佐介は何のことだかといわんばかりに鼻をほじりながら知らん振りしている。
 確かに佐介にしてみればここまでかなり雷蔵には譲歩しているのだろう。何せ極秘である内部情報を、部外者である雷蔵にすんなり教えてくれた。本来ならばそんな義理はないところを、元の同胞という誼のみで大目に見ている。
 だがいつまでもそういうわけにもいかない。肝心なところでけじめをつけるのは、昔からの佐介の性分だった。

「じゃあこういうのはどうかな。君が先に知っていることを話す。そこから元に俺が探りを入れてみて、分かったことを君に伝える」
「それ、俺に利はあンの?」

 佐介の持つ情報以上の何かを春季から引き出せなかった場合、これまた佐介の一人損になってしまう。疑り深げな視線に、雷蔵はにわかににっこりと邪気の欠片も無い笑みを作った。佐介の背筋にぞっと悪寒が走ったのはこの時だ。
 そこから次の動作まではまさに一瞬。
 風が頬を撫でたかと思えば、先ほどよりも近いところに人の体温があった。むしろ佐介の鼻の先。息のかかるほど近くに。おまけに首筋には冷たい苦無の感触。
 雷蔵は苦無を逆手に構えて佐介の左頚動脈に押し当てながら笑んでいる。相変わらず見る者によっては菩薩とでも取られそうな、一見人畜無害な微笑みだが、その双眸に浮かぶ光は背筋が凍りつきそうな威圧感を放っている。佐介は凶器に仰け反るようにしながらごくりと喉仏を上下させた。
 その上で、雷蔵は醸し出される物騒な気とは裏腹に、あくまで穏やかに言う。

「いいだろう。じゃあおまけだ。ここに、付ければ体中の毛という毛が抜け落ちる薬と、嗅げば素敵なお花畑に行ける薬がある。特別に好きな方を選ばせてあげよう。もっとも、後者は量によっては永遠に戻ってこれなくなるかもしれないけどね」
「脅しかよ」

 引きつった笑いを浮かべて佐介は嘆いた。そして内心でほらな、と誰へともなく訴える。いくら優顔で女の装いをしているとしても、やはりこいつが女に見えることは絶対にありえない。現に今、眼前にある面は、迫力といい怜悧な微笑といい、どこからどう見ても男の顔である。全く仙台やそのほかの連中はどこに目玉をつけているのやらと、心の中で八つ当たり気味に悪態づいた。

「時間が勿体ないから、三つ数えるうちに選んでくれ」
「調子こいてすんませんでしたぁ」

 ということで佐介が早々に白旗を揚げ、観念しながら語った内容は曰く、

「仙台は影で謀反計画を画策しているんだ」
「それはそれは」

 言うほど驚きもなく雷蔵は相槌を打った。

「御前様に対して不満のある奴らにひそかに声をかけて走り回ってるんだよ。御前が城主となってから領内は完全に放任状態だからな。反旗を翻して、下克上を起こすつもりらしい。けど果たしてただ御前様だけを排除するつもりなのか、それとも源を差し置いて自分が主君に成り代わってやろうと野心を抱いているのか――どちらにせよ、あいつもただの色ボケってわけじゃないらしいってこった」

 それは雷蔵にもよく分かる。春季は一見万年常春男に思えるが、その実頭の回転は悪くない。
 ただ詰めが甘い、と佐介は付け加える。

「本当に秘密裏を徹底したければ、情報漏洩の元になりそうな人物は即『排除』するべきなんだ。なのにそれをやっていないから丸裸同然だよ。現に御前には動きがバレバレだし、外部の俺にさえ簡単に突き止められたくらいだ」

 それは当人の性格の問題かもしれないなと雷蔵は頷いた。佐介の言い分は冷酷非道に聞えるが、本気で謀反を、革命を起こそうと思うならば、鬼になる覚悟が必要なのだ。雷蔵たちは諜報を生業としてきたからそこの重要性をよく知っている。一人が情けを見せた結果、仲間が危険にさらされ、あげく全滅した例も一つや二つではない。あの若者は肝心なところで鬼になりきれないのだろう。その中途半端さが身の破滅を呼ぶと知らずに。

「なるほどね」

 一人納得し、雷蔵は佐介から身を離した。首を撫でながらホッとする佐介に向かって言う。

「それでも綿菓子殿の謀反が成功する方が君的には万々歳なんだろ」
「まぁな。今の状況なら、些細な内乱でも大歓迎だ」
「なら、俺はその見込みがあるかどうかも探ってみるよ」

 物のついでだ。まだ惣之助の件もあるが、どちらも『御前様』という共通の因を持っている。ただ、どちらかを解決すれば、自ずともう一つも解けるのではないかと、直感が囁いていた。
 雷蔵は破風の外と足元を覗っていたが、やはり室内に下りる方に決めたのだろう。天板をズラし、着地点を確かめている。

「あーあ、結局こうなるんだよ。はーやってられん」

 脱力した風に膝の狭間で項垂れ、佐介が苦い苦い長嘆息をした。投げやりに前髪を掻き揚げている。
 雷蔵は顔を上げ、そんな佐介を見て笑った。

「長年の習慣はなかなか抜けないものだからね。分かっているだろ? 君は俺には勝てないよ、『衛門佐』」
「ああ分かってるさ。分かってるからこそ余計に腹立たしいんだろ」

 苛立たしげに視線を逸らして、憮然と漏らす。

「俺は()け、(たす)く者だからな」

 あるかなきかの呟きは、誰へともなく擲たれ消えてゆく。
 雷蔵は最後にもう一度、今度はどこか物思うように微笑うと、呼び止める間もなく、天板を外して再び地上へと消えて行った。
 佐介はしばらくその場で気が抜けたように放心しながら、やがて頭をガシガシと乱暴に掻いた。
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