6.黄泉路に誘う声



 どこかから、赤ん坊の泣く声が聞こえる。

 雷蔵は足を止め、ふと後ろを仰いだ。
 目が映すのは、どこまでも伸びる闇ばかりだ。 
 最早己が今どこを歩いているのか分からない。これは回廊なのか。ひょっとすると現世ですらないのかもしれない。
 『道』というものには二つある。現世に渡る人の道。そして、現世と異界を結ぶ妖しの道。
 そのどちらかなのかはこの視界ではわからないが、ともかくこの続く先にあるものが尋常なものではないことだけ、雷蔵は確信していた。




 佐介に一服盛って眠らせたあと、雷蔵は堂を抜け外へ出た。
 最初に連れ込まれた堂はどうやら離れのように孤立した建物のようだった。おそらく近くに本殿のようなものがあるのだろうと踏み、あたりを見回す。月はいつのまにか雲の薄幕に覆われ、朧の光が不気味に地上を浮かび上がらせていた。
 微かに蠢く夜気を肌で感じながら、雷蔵は精神を研ぎ澄ませた。充満する瘴気の中に、求める跡を探る。
 人は移動すると必ず後に目には見えない『痕跡』を残す。力が強い者ほどその痕跡は空間により強く太く刻まれ、残し主に至る。
 逆に力がある者はそれを消すことも可能なのだが、雷蔵はつかぬ間の邂逅で、かの御子の性格をある程度分析していた。
 彼女は強い力―――それは大半が魔のものに増幅されていたが―――を持っているが、術の操法は粗い。察するに呪術も我流か、あるいは体系化されていないものを口伝で教わったのだろう。原則の段取りがなっていないため、基礎が穴だらけで、大技のわりにかなり雑なものとなっていた。
 となれば、気の足跡を消すことは意識していても、消しきれなかった痕が薄い残滓となって残っている可能性が高い。
 雷蔵は懐のあたりを抑える。
 そこにあるもの―――古く、所々が傷んだ巻物を意識して、眸を細める。
 大きく息を吐いた。両目を閉じ、精神を集中させる。求めるのは空間に刻まれた力の痕。空気に残された気の跡。それらを統べるのは、すなわち大気―――『天』の気の要素だ。
 ほんの少しでも片鱗が残っていれば、捉えられる。
 求める意識に従って脳裏に浮かび上がってくる文字の並び。生まれた時からそれを知っていたように、自然とその極意を解する。
 眼裏に並んだ呪を、小さく声でなぞった。
 大気に肉体の内気を同化させ、空間に刻まれた『痕』を探し出す。
 やがて、異質な空気の中に、さらに異質な気を放つ一筋を掴み取る。空間を薄っすらと走る透明な断層。
 雷蔵は感じ取った筋を意識から離さぬようにして目を開く。
 足跡の筋は立ち位置から北東に当たるところへ続いている。
 後を追って首を巡らせば、朧な光の下に沈む屋敷の縁がそこにあった。



 所謂寝殿造りと呼ばれる屋敷の渡り殿から、無礼無作法も頓着せず土足で直に乗りあがり、『痕跡』の続く方へと歩き始めてから数時。
 気付けば、先ほどまで回廊だと思っていた自分の踏みしめているものが、板床から剥き出しの地面に変わっていた。左右を見渡せば、空に浮かぶ朧月も、庭木の影形さえもどこかへ消え去っている。

(逢う魔が空間へ入ったかな)

 雷蔵は胸中で一人ごちた。逢う魔が空間は境界だ。人間の世と異形の世の狭間にあたる。ここでは人と人ならざるものが出会う。だから「逢う魔」という。
 境界は彼岸と此岸を隔てるもの。異なるモノの侵入を防ぎ内を守るもの。そういった存在あるいは概念を、古来より人々は「境界」という名をつけて約束事をつくり忌避してきた。その反作用なのか、およそ「境界」と呼ばれる場では異界のモノが現われやすい。黄昏時を逢う魔が時と言うのも、黄昏と言う時間帯が昼と夜の堺であり、魔と出会いやすいためである。

 全くの暗闇である筈なのに、何故か視界は冴えている。
 雷蔵はちょっとした好奇心にかられ、しゃがみこんで地へ手を触れた。堅い石と微かな砂土の手触りが返って来る。
 ふむ、とひとつ唸ると、小さく文言を呟いた。
 前よりも視界が更に開ける。己の眼に光を取り入れ、暗闇を見通す術である。
 顔を上げれば、その先には寝殿造りの渡り廊下ではなく、荒涼とした道が一本続いていた。
 しかも両際は底の見えぬ千尋の崖となっている。
 寂寥とした風が吹く。どこか厭世感が漂う、退廃とした場所だった。
 雷蔵は立ち上がり膝を軽く叩くと、臆する風もなく歩み出す。
 ふと、かつて語り聞いた黄泉比良坂(よもつひらさか)とはこんな感じだろうか、と思う。
 黄泉比良坂―――伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が死した(つま)伊邪那美命(いざなみのみこと)の魂を追って黄泉まで下った時に通ったといわれる冥界への道。
 そこには数々の誘惑があるという。黄泉に誘う亡霊の声。生き人は決してそれに応えてはならない。もし応えてしまえば、途端に魂を引き摺り込まれ、生者の世界へ戻れなくなる。
 そんな昔話を反芻していれば、静寂を湛えていた背後の空間から、不意に声がした。

「お兄さん」

 妙齢の女の声。しかしその響きは、明らかに生者の気配を感じさせない。

「ねえ、こちらを向いてよ」

 右肩にとん、と手のような重みが触れる。接触した部分から、ぞわりとした薄ら寒さが広がる。
 それでも雷蔵は気づかぬ風に、振り向きも答えもしない。

「ねぇって。こちらをお向きよ。気になるだろう?」

 次に声は極間近―――耳元でした。冷たい息と空気の震えがふぅと耳朶にかかり、腕や背の肌が粟立つ。
 ふと気を抜けばつい振り返ってしまいそうだった。声の秘める魔力に引かれる。背後にいるモノの正体が無償に気になり、見たい衝動に駆られる。
 そんな自分の心の動きを冷静に観察しつつ、成る程、と雷蔵は心中で頷いた。
 これが要するに『黄泉の誘惑』というわけだ。いささかお粗末な感が否めないのは、紛い物ゆえの仕方なさといったところか。

「ねえって。振り向いておしまいよ。気になって仕方ないのだろう? 見てしまえばいいじゃないか」

 女はなおも言い続ける。肩にかかった重みが増す。触れる部分からむず痒いような感覚が広がった。
 雷蔵は無視し続けた。誘いに惑いそうになる本能を、沈着した理性で押さえ込む。
 しばらくすると、女の声と肩の感触が消え去った。
 しかしまた数時もすれば別の声が掛かる。そしてしばらくすると諦めたように消える。その繰り返し。
 時には複数の声がしたこともあった。楽しそうに笑う声。誘う声。罵る声。嘲笑する声―――依然いずれにも応えず、雷蔵はのんびりと歩き続けた。
 やがて道の目の前に、ぼうっと浮かび上がる影があった。
 道の真ん中を占領するそれに、否応なしに立ち止まる。若い女だった。
 また女。雷蔵は小首を傾げる。どうにも女にばかり縁がある。それとも術者の嗜好だろうか。
 長い黒髪を垂らしており顔は見えない。
 その女の(かいな)にあるモノに目を引かれる。
 おぎゃあおぎゃあと声を上げて泣いている。いだかれているのは赤子のようだった。

「ねんねんころぉりぃよ」

 女は見えぬ顔の下で、子守唄を歌っている。しかし赤子は泣き止まない。
 雷蔵はしばらく立ち尽くしたまま、どこか侘しく空恐ろしい唄を口ずさむ女を見下ろしていた。
 つと、哀しげに歌う声音が変じる。

「ご慈悲を」

 顔はうつむいたまま。髪が肩から落ち、晒された異常なまでに青白い項が、茫洋と光っている。

「たすけて。長い飢饉で食うものも無く、ややのために乳を出してやることすらできない。腹を空かせ、この子は泣くばかり。どうかご慈悲を」

 ゆっくりと首を上へ持ち上げる。髪の間から覗いた面立ちは生気を感じさせないながらも、危うげな美しさを秘めている。
 その白い腕の中の児は、愛らしい顔を歪めて泣き続けていた。
 美しい母子の姿は、現実味が無いのに、どこか悲壮感が漂っており凄愴でさえあった。

「お恵みを、憐れなこの子にどうぞ……」

 真摯に言い募る。長い睫毛が切なげに震えていた。
 その声に、容貌に、不思議と何らかの引力をもって引き込まれそうになる。
 だが雷蔵はどこまでも揺らぎを面に出さない。どうなるかとしばらく行く末を眺めてみたが、これまでの声同様、無視していれば勝手に消えるというわけではなさそうだった。どうやらこちらが何かしらの行動を起こさぬ限り、細い道筋は母子に塞がれたまま、先には行けぬらしい。
 雷蔵は淡々とした表情で、言の葉を紡いだ。

「その子は死んでいるよ」
「いいえ、いいえ、この子は死んでなどおりませぬ」
「よく見てごらん」

 すっと指を指す。

「ほら、君の子はもう死んでる」

 一瞬女の腕に隠れて見えなくなった赤子の頭は、次に現れた時には髑髏(されこうべ)となっていた。汚濁に塗れていない、まだ真白い骨。
 泣く声の音程が、気付けば低くなっている。
 頭頂に僅かばかりかの毛髪を残す赤子の、舌も唇も無い空洞から、依然泣き声だけが漏れ続けている。

「そして、君もすでにこの世の人間ではない」

 雷蔵の言霊よって、すべての虚が解け落ち、幻が掻き消える。答えは果たして正解か、外れか。
 女の相貌が変容した。

(正解)

 麗しかった目鼻立ちは落ち窪み、面影すら消えうせる。
 青白い面、青白い唇。その口腔と眼窩は、ぽっかりと黒い口を開けていた。
 見るのももおぞましく、恐ろしさばかりが際立つ異貌。

「そんなはずはない」

 ざわりと髪がうねる。本性を曝してもなお、己と己の子供の死を認めようとしない生への執着。
 ―――正解だったが、同時に外れであったようだ。
 女が腕をこちらへ伸ばす。異様なほど長い腕。長い髪が、まるで意思を持っているかのごとく伸びて捕らえようとする。

「生きている人間の胆を食ろえば、私もこの子も助かるに違いない」

 雷蔵は一歩退いて、黒いうねりを避ける。
 おぎゃあ、おぎゃあという泣き声が耳を突いた。

「ねぇ。あなたのその生き胆を頂戴。赤い血の滴る腸を」

 手を伸ばしながら、女が囁く。落ち窪んだ目には眼球が無く、黒洞の向こうから見つめてくる。

「残念だけど、それは出来ぬ相談だね」

 雷蔵は呟き、片手を女の腹部に翳し鋭く言い放った。

「『道返し』」

 目玉の無い眼窩が、瞬間驚愕に震える。

 ―――ぎゃああぁあ!!
 亡霊の体が弾け飛び、耳を劈く叫びが響き渡った。
 その一瞬で雷蔵は道を塞いでいた亡霊を飛び越え、駆け出した。

「待って、見捨てないで」

 女の声が追ってくる。

「くるしいよぅ、たすけてよぅ」

 かなりの速さで走っているはずなのに、声は背後にぴったりと付いて来る。

「さて、確か伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、黄泉の亡霊から逃げるときに何を使ったんだったかな……」

 誰へともなく雷蔵はごちた。それから袖口に手を突っ込むと、おもむろに何かを取り出す。
 桂の木から削りだされた半月型の柘櫛(つげ)
 それを唇に近づけると、

(なれ)に命ず。汝は吾、汝は吾が形代。遍く禍を吾より避かしむ」

 呟き、フッと息を吹きかける。振り返る事無く後ろへ投げた。
 と、落ちた櫛より蔓が伸び、追いかけてきていた亡霊をそこで阻む。

「おのれ、おのれぇえ」

 醜く変貌した声だけが恨めしげに木霊した。
 だがここで振り向いてはいけない。『約束事』を(たが)えば、櫛に課した契約が解けてしまう。
 やれやれと嘆息しながら走り続けると、今度は凄まじい速さで近づいてくる多数の足音を感じた。
 これは先ほどとは別口に違いない。でなければ櫛の効力に阻まれているはずだ。
 嫌な予感ととともに肩越しにそっと見やれば、そこには赤子の如く大きい頭に微かな頭髪を残し、体はがりがりに痩せ細って、腹だけが異様に膨らんだモノが、互いに絡み合いながら群をなして追ってきている。
 地獄の餓鬼の大行進だ。

(これまた、いかにもな芸を) 

 雷蔵は気色悪そうに眉宇を寄せ、素早く思案した。
 いよいよ物語通りの展開になっているらしい。
 確か神話では、地上へ逃げる伊邪那岐は一体どうやって追ってくる亡者たちを追い払ったのだったか―――
 雷蔵は今度は袖の中に入れている小袋を取り出した。口で紐を解き、手を突っ込む。
 中に入っていたある物を手探りで探し出すと、すかさず宙へ放った。空中に散ったのはふたつの赤い種。素早く呪を唱える。

(あれ)は葦原中国なる現しき青人草(あおひとくさ)なり。助くべし、助くべし。汝が名は意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)

 赤い種が地に落ちた。
 すると、途端に種から芽が延び見る間に木が育つ。
 枝は伸び葉が茂り、そして瞬く間に熟れた薄紅の丸い実が成った。
 それを目にした途端、餓鬼たちは奇声を発し狂ったように木の方へと駆け寄った。押し合いながら実を奪い取り、口に頬張る。誰もが当初の目的を忘れ、ひたすら貪り始めた。
 その様子を背で感じ、ふう、と一息つく。
 先に投じたのは桃の種だ。別にそれ自体は何の変哲もないただの種である。有体に言えば雷蔵が食べたものの残りだ。
 餓鬼たちの目には桃の木が映っているようだが、実のところ木などそこには存在しない。当然実もあるはずがない。彼等が桃と思い込んで食べているのは、道の上に落ちている石ころだ。
 つまり桃の木も実も、種を使った幻術なのである。

 神話では伊邪那岐命が黄泉の追っ手を足止めするときに桃の実を使ったという。伊邪那岐命はこれに感謝し、桃に名を与え、また現し世の者が己のように「苦しき瀬に落ちて患い悩める時」に助けとなるよう命じた。以来桃には魔避けの力が宿っていると言われる。桃の実自体はさすがに持ち合わせていなかったが、たまたま薬種のひとつとして持ち歩いていた種があったのは幸いだった。雷蔵はその時の伊邪那岐命の文言を呪に、種へ咄嗟にまじないをかけた。
 魔除けとしてどこまで効力があるかは実際見当がつかなかったが、そもそも餓鬼と言うのは食欲に捕われた亡者であり、特別な力は持っていない。食物にのみ本能が働くのだ。ならば彼らの目を欺いて、注意をそちらへ向ければいいわけである。果たして敵はあっさり騙されてくれた。
 餓鬼を振りまいた雷蔵は、そのまま足を留める事無く駆ける。
 道標となっている気の痕跡が、持ち主が近いことを示していた。出口が近い。

 と思った次の瞬間には、雷蔵は屋敷の簀子を走っていた。
 まるで眠りから覚めたような感覚にハッとして、突然戻った現実の景色にしばらく目を瞬かせる。月の明るさに視界が馴染まない。そこで自分の瞳に術を掛けていたことを思い出し、解呪を唱える。元から夜目が利く分、術で強化すると眩しすぎてたまらないのだ。
 先ほどまでのことが夢であったかのような錯覚に陥ったが、よく見れば最後に記憶した屋敷の風景と異なっている。月の位置からすると、最初に歩いていた釣殿はもっと西の方だった。
 しかし振り返ると、自分は確実に気の痕跡を真直ぐ辿ってきていた。

(なるほど―――こういう仕組みなわけか)

 雷蔵はひとり得心がいったとばかりに目を細める。
 あやめの居場所は近いようだった。というよりも、ここまでくれば足跡などなくとも否応なしに分かる。御子の足取りの向かう果てには、今までで最も濃く強烈な瘴気が漂っていた。
 こんな巨大な気にどうして気づかなかったのか。どうやらその秘密はあの黄泉比良坂(よもつひらさか)もどきにあるらしい。大方、あれが覆幕の役割を果たしていたのだろう。
 気配を消し、息を押し殺して、雷蔵はその部屋に近づいた。
 これまでのあらゆる事象の根源と見て違いないと思われる邪悪な気。
 几帳と屏風で仕切られた東の対屋の前で、息を止める。
 そして、腕の一振りで袖の陰から忍び刀を現せると、一気に几帳を引き裂いた。
 立ち込めていた悪気がぶわりと風となって顔を打つ。
 さまざまな供物を載せた祭壇の前に、ひとりの巫女姿がこちらに背を向けて鎮座していた。
 突然の訪問者に、あやめはバッと背後を振り向く。雷蔵の姿を視界に留めると、一旦大きく瞳を見開き、それからにぃっと笑った。

「ほぅ……よもや、あの道を通り抜けてここまで辿り付くとはな」
「年貢の納め時だよ、神の御子殿」

 月光に冷たく光る双眸を眇め、雷蔵は言った。
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