「一緒に来るかい」 そうやる気なさそうに差しのべられた手を、どうして取ろうと思ったのだろう。 ただ、触れたぬくもりは冷え切った指先を溶かすように温かかった。 ドシッ、と袈裟の背に足跡がつく。 美吉は片目を半眼にしながら唸った。 「重てぇよ、クソババア」 「誰がクソでババアだ、このクソ餓鬼」 更に圧し掛かった重量に耐えきれず、美吉は長年沁みついた条件反射で「ごめんなさい」と謝った。 盛りに入った女と、青年への過渡期にある少年が今どこともしれぬ山の中で旅の小休止をとっている。それぞれ白無地の小袖に袈裟という装いをしており、脇には刀と共に天蓋を置いていた。ぎりぎり親子と言えなくもないがそれにしては似ておらず、傍から見れば謎の二人連れである。そういう人々の好奇と憶測の目に晒されることのないようにするためのこの虚無僧姿だった。おまけにこれならば有髪でも良い上に顔を隠せかつ武器を携えられるという利点があり、特に女の身にとっては都合がいい。行脚尼はどうしても目立つからだ。 美吉の背中を両足で足蹴にする女は、気怠げに垂れた瞼と眦、厚い唇が何とも言えぬ色香を漂わせている。 伸ばしざらしにしている豊かな黒髪を手櫛で梳きながら、 「腹が減った。喉乾いた。あんたそこらへんひとっ走りして何か買ってきな」 地図を見る限り、次の村はまだまだ先だ。ひとっ走りというにはどう見てもかなり距離がある。といって前に通った街道の茶屋もまた、後方遥か彼方だ。どちらを行くにも、通常の人間の足では裕に二刻はかかる。通常の人間の足ならば、だ。 「ええ、マジでかよ……どんだけあると思ってるんだよ」 「あんたなら本気で走れば半刻ほどで戻って来れる距離だね」 「めんどくせえ」 「つべこべ言う奴はこうしてくれる」 「いででで」 こめかみを庇いながら美吉は慌てて片膝立ちになってその手から逃れた。全く、女の細腕でありえぬ怪力である。 「わーったよ! ったく我儘な師匠だな」 「立ってる者は親でも使えと言う」 「俺座ってたんスけど」 ぶちぶち文句言いながら、億劫げな仕草で天蓋を取る。その後ろ姿と言い、挙措といい、これがそれなりに腕の立つ忍びのはしくれとはとても思えないほど鈍い。この覇気のなさは確実に極度に物臭な女の性質が移ったものだ。 どこにでもいるとは言い難いが、こうしていれば至って普通の人間である。ただ僧姿に左眼だけに巻かれた布だけが異様だった。これを隠すための深編笠でもある。 「半刻で帰って来なかったら次の村までお前に負ぶってもらうよ」 「鬼!」 情けない遠吠えを残し、その背が掻き消える。本当に全速力で買いに行ったらしい。全くこれだから遊びがいがあるのだと、と女は唇に人の悪い微笑を浮かべて、猛然と遠ざかる気配を追った。 〈襲義〉を終えてから間もない弟子は、今のところ特に目立った変化もなく、平素通りに生活している。そのことに少し安堵をおぼえると同時に、懸念も湧かずにはいられない。 (あたしもいずれいなくなる) 継承を終えれば、前の『器』はほどなく世から消される。『その時』が何時来るかは分からない。けれどもそう遠くない未来であろう。 時が来た時、残されるあの子はどうなるのか。予め伝えてはいるから覚悟はしているとは思うが、普段通りに振舞っていてもそこはかとなく緊張し時折物憂げにしている節があった。 (頭で分かっているのと、実際心で感じるものは違うからね) 緩く息を吐いた。 そのまま背後の木に凭れる。何ともなしに、頭上を覆う梢を眺め、時折覗く木漏れ日に瞳を細めた。 ふと目先を過ぎった白く小さな欠片に、ああもう桜の時期かとごちる。 (そうか、もうすぐ……) 物思いに沈みかけ、ほんの一瞬辺りへの注意が殺がれた。らしからぬことであった。 だからだろう、不意にかけられた声に、思わず返事をしてしまったのは。 「紫香」 「え?」 途端に四肢が硬直する。 そして――― 「―――!!」 赤が舞う。白衣の小袖の上に鮮紅が散り、血花を咲かせた。 呻きは声にならず、切り裂かれた喉から空気が零れた。 瞠った視界の映す景色が、ゆっくりと上滑りに流れた。ああ、空が高い。 身体が落ち、草と土の匂いが鼻腔を突いた。 「なんだ、すでに『抜け殻』か」 遠くで微かに舌打ちが聞こえる。けれどそこへ眼を持っていくだけの力がなかった。 突如襲った気配は、紫香に冷たい一瞥と悪態を残し、同じだけ唐突に消えた。 後には静寂だけ。 さわさわと梢が囁く。 (……美吉) 師の我儘を聞いて、買い出しに行っている弟子の名を心の中で呼ぶ。 気が緩んだ瞬間に、迂闊にもあんな簡単な呪に引っかかってしまった。 ああ、こんな風にこの時を迎えるなんて。 (あの子に、どう説明をすれば) 身体を不可視の刃が駆け抜けた瞬間、一瞬だけ見えた夢。いや、これは未来視か。 〈秘伝〉の伝授と同時に衰えた神通力が、死に際して一度だけ戻った。 (いけない、このままでは) このままでは、美吉はまたあの闇の淵に“戻って”しまう。 どうすればいいのだろう。 たった独り残してゆく弟子を。侵食する力の影に怯える、愚かなほど脆く心優しい彼を。 また一人になってしまうあの子を。 (誰でもいい、どうか) 目尻から熱い雫が滑り落ちる。 (どうか、あたしの代わりに―――) ただただ天へ向けて強く強く念じた。 「師匠? 師―――」 言い付け通り、半刻きっかりで戻って来た美吉が、血の海に横たわる人を見つける。白かったはずの衣が、元の色も分からぬほど赤黒く染まっている。 どさりと草の上に酒蒸しの饅頭が落ちる。それは紫香の好物だった。さきごろ茶屋で休んだ時に美味しいと言って頬張っていたから、わざわざ買い求めに走った。 「師匠!!」 愕然と罅割れた悲鳴を上げ、編笠を剥ぎ棄てながら美吉が紫香の側に駆け寄り身体を抱き起こす。 「い、一体、誰がこんな」 カタカタと、抱く腕が微かに震えている。 その隻眼が、ある者を見つけ慄く。 紫香の背後にあった樹木の幹に、血の字で大きく、 「……『天地は一つになるべし』?」 紫香は色の失った唇を動かした。最後の気力を振り絞って。 「美……」 「喋るな! 大丈夫だ、今すぐ止血をするから」 震える手で、今にも泣きそうな顔で、美吉は動転しながら紫香の傷を確かめる。しかし血の出所はあまりに多く、そして紫香はあまりに血を失い過ぎていた もう遅いのだと分かっているだろうにそれでも己の衣を引き裂き、懸命に処置をしようとする美吉の腕を、土毛色の手が掴む。 「師匠?」 「……」 ああ声が出ない。こんな時なのに。 「て、ん」 「だから喋るなって!」 「天……秘、伝」 「え?」 その語に、美吉の目が見開かれ、怪訝の色を帯びた。 「て……の、けい、継しょ……者に……」 「『天の継承者』?」 「た、吉野の桜が……満開に、った時」 振り絞った気力はそこまでだった。 ゴポリと嫌な音がして、口腔から血が溢れ出た。ひゅうひゅうと喘ぐ。 ガクガクと四肢が痙攣し、瞳が揺れた。 「師匠!」 何度も呼ぶ声がする。 絶望するような、血を吐くような慟哭が。 視界が暗い。ああ、失われていくのだと、紫香は思った。やがて叫びさえもが聞こえなくなる。 失われゆく感覚の代わりに、一心に願った。 最後の『声』が届くことを望みながら。 その日、ある一帯で山火事が起こり、炎が周囲の集落を呑みこんで一面焦土と化した。 |