七日の間に、動ける村人たちが寄り集まり、場を整えた。まず神が去った古い祠を新しく立て直し、次に広場を清める。音頭を取ったのは治兵衛だ。衰え、歩くのも自在ならぬ中、人の手を借りて毎日広場まで足を運び、老骨に鞭打つように朝から晩まで細々と指示を出す。語り部としての役目を終え、これが最後の仕事と言わんばかりであった。 その下で浅葱は治兵衛の手足代わりに働き、一方紫は雷蔵の言いつけ通り白単衣を身に着け、自宅に籠り穢れを遠ざけた。雷蔵は食事を差し入れながら、その毎に紫の額に穢れを払う呪をなぞった。 ちなみに雷蔵自身はというと、特に何もしていない。彼は天性生粋の そうして間もなく迎えた望月夜。広場の中央に敷かれた茣蓙の上に、雷蔵は片膝を立て座していた。白の襲衣が月明かりに反射してその姿を浮かび上がらせている。松明はない。火を嫌う神もいるからだ。 茣蓙の周辺は注連縄でぐるりと四角く囲んである。新調した祠の扉は今は開かれ、中には小さな木枕が安置されている。次の神体となるそれは、このあたりの中で最も古い神木から頂戴した。この地を加護するのだから、この土に根付くものを神体とする方が良いだろうという判断だった。 白袴の膝に龍弦琵琶を乗せ、雷蔵は瞑目したまま弦を弾いていた。調弦はしてあるが、念のための最終確認と、気を満たすための爪弾きだ。 その周辺を遠巻きに四つの影が見守る。櫃に腰を据え杖つく治兵衛と、その左側に浅葱、右側に紫と美吉が佇む。他の村人の姿はない。あまり衆目があると場が穢されたり乱れやすくなるとの配慮から、村人には決して神事を覗き見たりすることなく、家中に籠っているように厳重に言い含めていた。 しっとりとした静寂に包まれる中、細やかな弦の音だけが夜闇を震わせる。 紫は麻生成の白小袖に同じ素材の帯を締めていた。垂髪を紙縒りでまとめている姿は神楽の舞手のようでもある。両手を腹のあたりで組み、思いつめた面持ちでじっとその時を待っていた。 やがて望月が正中に差し掛かる頃、雷蔵は手を止めた。頭を擡げ、四人の方へ向ける。 「では、そろそろ始めよう」 これを受けて頷いた美吉が隣の紫を促し、少女は黙々と広場の中央へ足を運んだ。一旦囲みの外で足を止め、心を落ち着かせるように深呼吸をしてから跨ぐ。場を区切る注連縄は外と内を隔絶する結界だ。これより内側は神域と同じ扱いになる。 「どうぞそこへ」 紫は「はい」とうなずき、示されたところに端坐する。新調した祠を背に、雷蔵と向かい合う形となった。 どことなく落ち着かない様子で固まっている紫に、雷蔵は微笑み、柔らかく語りかける。 「緊張することはないよ。難しいことは何もない、ただ俺の言う通りにするだけでいいから」 「はい」 「それじゃあ目を閉じて」 紫は双眸を伏せた。必ず瞑目しなければならぬというものではないが、視覚というのは五感のうちでもとかく多くの情報を取り入れてしまい集中力が散りやすい。しかし ゆったりとした心地よい語調に紫の強張った心身がほっと解れる。 「できるだけ力を抜いて気を楽に。俺の声と音だけを聞いて」 雷蔵は撥を手にした。その賽尻には長く伸びる楽弓がついている。 撥先が弦を細やかに鳴らす。 先ほどの調弦と同じく旋律を伴わない響きだが、それを聞くうちに紫の中から周りの雑音や気配が消え、不思議なほど静かな気分になっていくのが分かった。 存在の根源である魂を 紫の状態が落ち着いたころを見計らって、雷蔵は手を止めぬまま口を開いた。 「これより降神の儀を執り行う」 宣言は言霊となり、取り巻く大気と居合わせる人々の心と龍弦琵琶自身の音を一つの目的へと集束させる。 雷蔵は目を伏せ、弾き方を改めた。嫋々と、より遠く強く響き渡る弦の調べに合わせ、息を吸った。 あた いま あはりや あそばすともうさぬ あさくらに ひふみよいむなやことももちよろず 時に弓が、時に撥が弦を震わせ、楽音が大気に反響し、歌声が波紋を描く。 妙なる調べに誰もが儀式の意味を忘れ開いた口もそのままに魂を奪われている。 その中で雷蔵と美吉は自我を保ったまま冷静に状況を伺っていた。視線は瞑目端坐する紫の頭上あたりに据えられている。だがしばらくしてから美吉は瞳に落胆を浮かべ、雷蔵は瞼の内に隠す。 いま雷蔵が行ったのは厳密には神迎えの儀である。禍に遭う以前に御座村で奉られていた神霊をもしも呼び戻せるのならばそれが一番収まりがいい。神側にも村人側にも拒否反応が出にくいからだ。 ところが御座村の氏神であった奥座山津霊は呼びかけに応じなかった。神が村から去って久しい。氏神は村人の信心を糧とするから、それを亡くしては存在を永く保つことができない。残念ながら、恐らくは消滅してしまったのであろう。 第一案を諦めると、雷蔵はすぐさま気を改め次手に移った。弓を弦から離さずに指だけで途中から調べを変える。流れもつなぎも自然なもので、知らねば曲調が切り替わったことに誰も気づかないだろう。 迎への 地は 山に 空は助く 水冷やす 埴は穢れ 月の水 下せる露は 川の水 空受くれば雲と成り ちあゆみ昇る 雲半ば 寒風に雪と凍れど 人は元 されば 求むる 守り給へと 八百万のいづれの 弦の震えとともに歌唱が長く尾を引いて宵の空に舞い上り四方へ溶けて霧散する。一見ただ歌い奏でているだけだが、込められた集中力、精神力、呪力とも最初の神迎えとは比べ物にならない。単に難しいという言葉では表しがたい困難さ。あえて言うなら、膝を屈しそうなほど重い荷を双肩に担いながら渓谷に渡された細い綱を渡るようなものか。 美吉はふと気の流れに別の動きを感じて頤を上げた。広場の上空に、何かが少しずつ渦を巻きながら凝っていく。左眼が映し出すその光景に息を詰めた。来た、と胸の内で呟く。 神威の気配は雷蔵も感じ取っているだろう。依坐をひたと見つめながら慎重に指を運ぶ。 |