みしみしと音がする。今にも焼け落ちそうになる屋根を、柱が危うい均衡で抑えている。 辛うじて形を保っている邸に辿り着き、雷蔵は腕で舞い散る火の粉を払った。 どうやら間に合ったらしい。しかし張った結界はそれほど強いものではないというのに、思いのほかよく持っている。 怪訝に思いながらも、これならばもう少し猶予はありそうだと息を吐いた。 周辺に人影はない。誘導の者たちの姿もないところを見ると、逃げられる者は大方退避したのだろう。確かに、邸を支えている結界が見えねば、倒壊は時間の問題で、最早一刻の猶予もなしと見るのは当然だった。 雷蔵は門をくぐり、一度だけ後ろを振り返った。 しかしすぐにふいと身体の向きを戻すと、裏手の方へと爪先を向けた。 地下の通路への入り口は雷蔵が寝泊まりしていた間の下にある。邸奥にあり、庭に面した部屋だから、煙が充満している内を通るより外を回った方が安全で早い。 表玄関を迂回しようと進路を変えたところで、不意にひやりと背筋が凍った。反射的に足を止める。 急激に体温が下がる。火熱によるものとは別の、冷たい汗が伝い落ちた。 琴線に引っかかった感覚の正体を確かめようとして視線を巡らし、目を僅かに張った。 いつの間にか四方を糸が網の目のごとく張り巡り、進退を封じていた。ただの糸ではない。鋼の渡りに呪力の波動を感じる。注意して眼を凝らさねば気づかぬほどの極細の糸は微かな銀光に煌めいていた。 「気づいた? さすがだね」 からかうような、明るい笑い声がした。 少年とも少女ともつかぬ、高い声音。姿は見えない。 ―――いや。 雷蔵の双眸がすっと細まり、袂が戦いだ。傍目にはわずかに手が動いただけに見えたが、瞬きの後には庭に立つ樹の幹に手裏剣が刺さっていた。 その手裏剣の真横に、意表を突かれた顔があった。 子どもだ。千之助と同じくらいだろうか。 癖のある猫毛の黒髪を下髪にして丈長でまとめ、今時古風な白地の水干を纏っている。防寒の蓑を羽織っており、 「―――ああびっくりした。いきなり不意打ちなんだもの」 威嚇攻撃をしてやるほど雷蔵は親切ではない。確実に狙いを定め、かつ糸の隙間を見極めて手裏剣を放っていた。それが外れたのは、腕が落ちたわけでも測り違えたのでもなく、傍らに立つ長身の男の所為のようだ。 およそ武闘とは無縁そうな、物静かな面差しをした男は、歳はまだそういっていないだろう。盲目なのか双眸を閉じている。服装は百入茶と鴇浅葱の小袖を重ね、動きやすさを重視してか麹塵の狩袴を着用しており、少年と違い今風ではあった。しかし肩の下で切り揃えた真っ直ぐな髪先さえ微動だにしない佇まいと、穏やかな物腰が、底の知れなさを感じさせる。 明らかに異端な彼ら二人を顔色一つ変えずに観察する雷蔵に、少年は興ざめした風に鼻を鳴らした。 「ふーん、驚かないんだ。つまらないの」 どうやら驚かせるつもりでいたらしい。だが遊びや悪戯にしては度を越している。挨拶代わりという感じでもない。もしも糸に気づかず足を進めていれば、雷蔵の四肢は今頃寸断され地上に落ちていた。反応を見るのは二の次であって、確実に殺す気でいたのであろう。 「何の用だい」 平淡に問いかけた時、邸を覆っていた結界に大きな罅が入った。鼓膜の奥で鈴の音が割れるように響く。 「第一声で訊くことがそれ?」 ますます鼻白んだ少年の目が、呆れを帯びる。 「もっと他にないわけ」 「他にとは?」 「何者なんだとかさ」 「訊けば教えてくれるのかい?」 逆に訊き返され、少年が口を閉ざした。 「正直、君が何者であろうと興味はない。知りたいのは俺の邪魔をするのかしないのか、それだけだ」 「ホンット可愛げがない奴だね」 傍目には己より遥かに年下と思われる相手に可愛げを求められるとは、なんとも心外で可笑しな話だ。 少年が刷いた笑みは愛らしくもいびつに歪んでいた。仰け反るように両腕を伸ばして頭の後ろで組む。 「雪にしてもガン無視だしさぁ。おかげで僕、信長様に叱られちゃったよ」 信長の名に雷蔵が僅かに反応する。 やはりあの男が黒幕か。いや、それともこの少年がそもそもの糸を引いているのか。 目的は知れない。ただ、目の前に立つ少年がとんでもない呪力を持つ術師であるということだけは分かった。隣の青年―――と呼べる年齢であろう―――からはその手合いの気配を感じないが、先程雷蔵の放った不意打ちの一撃を往なしたところから、相応に腕の立つ者であると知れた。立ち位置や状況から推測すれば、力関係は少年が主で青年が従といったところか。 黄金色の鱗粉を巻き上げ、煌々と渦巻く火焔に照らされる小柄な姿は、場違いなほどあどけない表情を浮かべ、いっそ無邪気でさえあったが、猫のように細められた双眸がすべての印象を裏切っていた。どろりとした闇色の瞳はあまりに深く、狂気を孕んで揺らめいている。 雷蔵はそこに純粋な悪意を感じた。張り付くような、舐めるような、あるいは刺すような、透明で高濃度の負の思念。 相手をするのはいささか面倒な手合いだ。それとなく糸に目を走らせる。 「無駄だよ。そんな得物で簡単に切れるような糸じゃないってことくらい分かってるんでしょ」 「目的は足止め?」 「そうともいえるけど―――」 別の狙いもある、と唇をペロリと舐めた。 「ま、とりあえず当面の僕の任務は、織田の後続隊が来るまでこの抜け道を維持すること」 落ち延びた者たちを取り逃さぬつもりだ。 「道理で結界がそこはかとなく修繕されていたわけだ」 邸に辿り着いた時覚えた違和感。それは予想外の結界の綻びの少なさだった。 「あまりにお粗末だったから見かねちゃって」 少年はクスリと微笑って肩を竦めた。手持無沙汰げに指先で火の欠片をくるくるとまわして弄ぶ。 「それにしてもまさか先遣隊がこんなにも早く潰されるとは思わなかった。ちょっとあんたたちの事、侮っていたよ」 「君は初めから甘く見ているよ」 切り返すや否や、雷蔵の瞳が鋭く閃いた。 俄かに変じた声調に、軽く天を仰いでいた少年がハッと首を戻す。 その瞬間にはすでに雷蔵の身体は高くを跳んでいた。寸断された糸が煌めき舞う。 青年が瞬時に少年の前へ出た。 間髪入れず空気に打撃が走り、撓んだ。 青年は掲げた腕を盾に雷蔵の苦無を防いでいた。袖の下に何かを仕込んでいるようだ。その背後で、標的にされた少年の瞳が爛々と光っている。不意の攻撃に驚いたようだが、その面はむしろこの事態を面白がる趣があった。 「へえ! まさかあの短時間で力の弱い糸だけを選んで脱出するとはね」 感嘆しつつ視線で刃毀れした苦無をちらりと盗み見る。特別な加工をしているわけではない、ただの鋼だ。 雷蔵は会話の最中に、張り巡らされた糸の檻の中から、力の配分に斑のある個所を探し出し、力技で断ち切って突破口を作ったのである。少年も、よもや上から逃げられるとは思っていなかったのだろう。頭上への注意は元より怠っていた。 「君はいささかおしゃべりだね。言っておくけど俺に心理戦は無意味だよ」 『その糸は簡単には切れない』。そう言うことで、相手に先入観を植え付け、焦りや諦めを引きだす。実際には不可能ではないにも関わらず、試そうと言う気さえ奪う。少年のとった手法である。 だが、外部の情報に踊らされず状況判断をする習慣は、雷蔵の身に深く沁みついている。元より幻術を専門とする以上、心理的な駆け引きには慣れていた。 「ちえ。さすが〈秘伝〉の継承者って言ったところかな」 飛び出した語句に、雷蔵は眉を微かに寄せる。 「―――なら、小手先で遊ぶのはやめてやるよ」 少年の相貌から、仮初の陽気が立ち消えた。微笑みはそのまま、瞳が冷気を帯びる。 すいっとその手が曲線を描き、唇から吐息のみで呪が紡がれる。途端、残っていた糸がしなり、風を斬って幾重にも襲いかかった。 雷蔵は素早く身をよじった。まずは二つ。三つ目を避け、四つ目から先は数えていない。軌跡さえ見えぬ凶器を、動体視力と感覚で捉え、確実に躱す。その先で、青年が待ちかまえていた。呼吸を読んで彼の腕が振られる。伸びて来たのは鋭く光る槍の穂先だった。一体どこから出したのか、すぐに折りたたみ式の仕込み暗器だと感づいた。顎先を狙ってくるそれをぎりぎりで横へ飛んで回避する。後ろに下がろうとした所で、今度は鎌鼬が退路を抉った。足を止めれば青年と、糸が左右から迫る。 完全に反撃の手は封じられ、非常に不利な状態であったが、全神経を避けることに専念させれば辛うじて致命傷は免れなくもない。 それにしても、これだけの肌理細やかな感性を要する術を、同時進行で駆使してなお疲労の翳りひとつない少年の精神力と呪力の強さは驚嘆すべきものだった。放ち方には粗が目立つが、一つ一つの呪の練り方は見事なまでに無駄を省き、無理がない。それも、既成のものばかりでなく、恐らく独自に編み出したのであろう、見たことのない術もあった。 天性の呪術的才能というものなのか。いや、これは希代どころではない。極めて異端だ。 隙を見て少年へ向け放った苦無は、糸と鎌鼬の合間を潜り抜けたが、青年の槍で弾き飛ばされた。 (せめてこの糸だけでもどうにかならないか……) 絶えず動きながら思案げに頭を捻った。 「ほら、どうしたの。防戦ばかりじゃないか」 宙に浮いた苦無が糸に絡め取られてくるりと逆さに返り、弾き返される。それを雷蔵は見ることなく首を傾け紙一重で流した。再度少年が舌打ちをする。 純粋に呪術のみではなく、その他の技にも通じている雷蔵には、呪力に頼らずとも補えるだけの 「全く、予想以上に面倒だな―――」 ぼそりと呟き、すっと少年の目が鋭くなる。両の指を組んで印を結び、口中で小さく唱える。 「 ――― その文言を、雷蔵の耳は確かに捉えた。聞き覚えのある、だが決して“ありえない”はずの呪。 何故と思う間もなく、足の下が急激に撓んだ。予め示し合わせていたか、青年は唱呪の終わる直前で後方へ飛び、少年の傍らに降り立った。 見やれば先程まで火に焙られ乾いていたはずの固い地面は、瞬く間に泥の沼と化していた。湿原のごとく液状化した土が沈んだ足首を捕えて放さない。その隙に、吹きあがった炎が生き物のごとくうねり、渦を巻きながら周りを取り囲んだ。 「早いところ〈秘伝〉を使ってごらんよ。でないと焼け死ぬよ?」 くつくつと鳴る喉に呼応するように、火焔が津波と化す。 「……っ!」 呑まれる寸前、雷蔵は五芒の印を描いた。だが護身できたのはわずかな間のみ。相殺して印が砕けると、すぐさま第二波が襲いかかる。 嬲られた小袖の袂や裾が焼け、避けきれなかった火が肩口を刃のように鋭く切り裂いた。じゅっと肉と血の焦げる嫌な臭いがした。 雷蔵は浅く乱れる呼吸を騙し騙し整え、片方に残る耳環を血が滲むのも構わず力任せに外し取ると、握りこむようにしながら素早く両手を合わせ 身の奥深くに揺蕩う存在を感じる。力の源泉に雫が落ち、波紋が広がる。波紋はやがて細波となり、五感を支配する。感覚を研ぎ澄ませ、渦を描く数多の音の羅列から言霊を選び出し、『吹き飛ばせ』と声に乗せる。 にわかに巻き起こった凩が押し迫っていた炎を押し返し、泥土を抉って四散させた。 体勢を崩した雷蔵が、耐えきれずがくりと元に戻った地に片膝をつく。煤けたように黒ずんだ耳環がコロリと零れ落ちた。 袷をつかむように、はあはあと忙しなく胸を上下させた。滴り落ちた汗が土の上に点々と染みを作る。だが首だけは決して俯かせず、少年をひたと見据え続ける。視界がかすみかけるのを気力で堪えた。 「そう。お兄さん〈気涸れ〉を起こしてたんだ」 攻撃の手を中断し、見下ろして相好を崩す。猫のように目が細まった。 「道理で力を使おうとしないはずだよ。呪具で補ってさえ、その程度の術が一杯一杯なんだもんね」 「―――……」 「これなら予想してたより案外簡単に行きそうだ」 近付いてくる相手に雷蔵は間合いを取ろうと動いた。が、瞬時に巻き付いた糸にその場に留められる。繊細な鋼が肌に食い込み、薄っすらと血が滲んだ。 「バラバラになりたくなかったら下手に動かない方が賢明だよ」 少年は徐に片脚を上げたかと思うと、傷ついた雷蔵の肩にガッと足をかけた。 「っ……」 「ねえお兄さん。取引をしようよ」 答えず見上げるだけの面に、少年は屈託なく提案する。そのまま膝に体重を乗せ、ぐぐ、と負荷を加える。 「僕に〈秘伝〉をチョーダイ」 にっこりと唇の端を釣り上げ、言った。 「お願い聞いてくれたら、手を引いてあげる。お兄さんの命も取らないし、織田軍も退かせよう。はっきり言うと僕にとっても影梟衆なんてどうでもよくてね。目的さえ果たせればあとの奴らなんて見逃してやってもいいよ」 「影梟衆におかしな依頼を持ち込んだのも、最初から狙いは〈秘伝〉だったってわけか」 ようやく口を開いた雷蔵に、可愛らしく首を小さく傾げてみせた。 「そういうとこ。他はまあ、行き掛かり上? 行き掛け駄賃ってやつ。ここまで手を込めるのはさすがに骨が折れたね」 「……〈秘伝〉を渡したところで、即座に主になれるわけじゃない。伝授には時間を要する」 「お兄さん嘘つきだね」 傷口にかかる少年の足が強さを増す。雷蔵の眉が心持ち顰められる。 「〈襲義〉の儀さえすればその場で継承は完了する、でしょ。たとえ他の伝授が終わってなくてもね」 黙然と注視してくる雷蔵を見返し、嗤う。 「何で知ってるかって? 教えてあげてもいいけどぉ……やっぱり教えなーい」 おどけたようにケラケラ笑う。それから「ねえどうする?」と突く様に蹴った。 「俺に心理戦は通用しないって言ったはずだよ」 ふ、と雷蔵は微笑してみせた。 「伝授を行えばその時点で用済みになった俺を生かしておく理由はないし、百歩譲って君が手を下さないとしても、前継承者はほどなく死ぬ定めだから結果は変わらない」 少年の顔から笑みがするりと解けた。 歴代の継承者たちは、継承を終えるや時を置かずに“不遇の死”を遂げている。雷蔵の前代である洽も、美吉の前代の紫香もそうだった。どうやら〈秘伝〉を一度継承した者はそういう宿命にあるらしい。これは〈秘伝〉に記されているものではなく、継承者に口伝で伝わる話だ。継承者自身も何故そうなるのかは分からない。ただ大いなる森羅万象に人の身で触れることへの代償ではないかと洽は言っていた。 「影梟衆に手を出さないというのも到底信用できない話だ。俺に取引を持ちかけたいなら、もっと利口になってから出直してくることだね」 目的を持って振りかぶられた爪先を、雷蔵は軽く首を傾け躱す。 空振りをした足を見つめる少年は、先程とは打って変わって無表情だった。黒瞳に負の感情が凝る。 「ホント、ムカつくよあんた」 「どうも」 「折角穏便に済ませてあげようと思ったのに」 少年は鼻で冷笑し、薄氷の眼差しを注ぎながら、人差し指をクイと曲げた。 仕舞っていた〈秘伝〉の書が雷蔵の懐からするりと抜き去られた。糸が巻きついている。 難なく手に入れたその巻物をまじまじと観察し、少年が満足げに口角を上げる。今度は五指を交互に動かせば、鋼の糸が雷蔵の首に幾重にも巻き付き、喉仏を圧迫した。 「ったく。最初からこうしておけば良かった。〈秘伝〉の極意は継承者の体内にあるけれど、次代への伝授をせぬまま死ねば自動的にこの入れ物に戻る仕組みなんだから」 「その状態で紐解いても、〈護法〉が資格を認めなければ命はないよ」 「どうとでもねじ伏せてやるさ」 「さて、そう上手くいくかな」 意味深な切り返しに、少年が眉を顰める。 「言を弄そうったってそうはいかないよ。俺はこの〈秘伝〉のことなら何だって知ってる」 「古い情報なら、だろ」 含みのある微笑を洩らした雷蔵を、少年は無機質に睨めつける。洞のような眼の奥に微かな訝りの光があった。 「俺だってこの十年間、無駄に放浪していたわけじゃないからね」 「何が言いたいわけ」 「そうだね、例えば―――〈秘伝〉をこの身に納めたままあの世まで持って行く方法を見つけたと言えば?」 ひゅっと息の音がした。 少年の瞳が険しく見開かれていた。闇色の沼に、初めて漣が立つ。 「嘘に決まってる」 「嘘かどうか、この頭を落として試してみればいい」 もっとも、その時には後悔しても遅いかもしれないけれど。 悠然と嘯く雷蔵から、少年は真意を見透かそうとするが、瞳の色はどこまでも深く、薄く刷かれた笑みからは何も読めない。 「ハッタリだ。どのみちあんたが生きてる限り、奥義は手に入らない」 動揺を覆い隠すように、あるいは自信を鼓舞するように、少年は大きく片手を薙ぎ払った。 巻き起こった風が焔を巻き込み、大火と化す。 「一思いには楽にさせないよ。生きたまま焼かれ、苦しみ抜いて死ぬがいいさ」 踊る火影が明確な殺意を持って、標的を燃やし尽くさんと飲み込んだ。 迫りくる圧倒的な熱と輝きを前に、雷蔵は静かに眼を閉じた。 「『 鋭い一風が走ると同時に、炎が掻き消えた。 |