鈍色の空にチラチラと白いものが混じる。 冷たさを伴って舞い落ちるのは牡丹雪。 昨晩遅くから降り出し、今朝には辺り一面を銀世界に変えていた。 「季節外れもいいところだな」 両腕を組むように袖に入れて現われた虎一太が、白い吐息を零した。縁側に佇み茫洋と天を見上げている。 縁側で片膝を立て、何かをしている最中の雷蔵は、振り向きもせず「やあ」と右手を挙げる。彼が腕の中で弄くりまわしているのは、琵琶だった。雷蔵が常に携えているものではない。暇を持て余していたのだろう、いつの間にか千之助に頼んでいたらしい。 それよりも、その寝間着代わりの単衣姿の方に虎一太は虚頓と目を瞬いた。 「寒くないのか」 そういう当人も決して厚着ではないのだが、さすがに一枚でかくも平然とはいかない。といって、薬叉の異名を持つ彼が風邪を引く姿も想像できなかった。 「北の生まれだからね」 目を落としたまま、弦を弾く。 それではまるで北の者ならば誰でも雪の中薄着で平気だという風に聞える。虎一太は物言いたげにしたが、気が殺がれてやめた。代わりに首を庭に向ける。 「さしずめ狂い咲きならぬ、狂い吹きといったところか」 吹雪で化粧された六分咲きの桜を眺めやり、呆れた風にぼやいてから、曖昧な表情で小首を傾げてみせた。 「気障なことをと取って一笑されたいか、風流だと取って感嘆されたいか、駄洒落と取って突っ込まれたいか。どれがいい?」 「耳半分に聞き流してくれ」 自分でも言ってからいまいちだと思ったのだろう、微妙な面持ちで、冷静すぎる問いかけに返す。 「それにしても妙だな。この時期に大雪とは」 雪中桜というのも乙かと思いきや、ここまで積もられるとむしろ奇怪だった。 「それが天意ならいいんだけどね」 雪に紛れるような幽かな言を捉え、虎一太の瞳が眇められる。 「まるでそうではないという口ぶりだな」 雷蔵は手を止め、静かに瞬きをした。それは肯定を示しているようでもあった。 「自然に起きたものではない 独白のような囁きだったが、無視のできぬ粛然とした響きがそこにはあった。 自然には自然の循環がある。どれほど突発変異に思える現象であっても、必ず巡り巡る仕組みの延長上に発生するものだ。 ところが森羅万象の理を無視し、あるべき流れを捻じ曲げれば、 他の術師たちがこの違和感を感じ取られるのかどうか、雷蔵は知らない。この雪の“裏”にはひどく緻密に自然に似せた術の気配があるが、〈秘伝〉継承者相手には、どれほど巧みに隠したところで意味はない。天の〈秘伝〉を会得した者は、自ずと天に関わる万象の動きが肌で感じられるようになるからだ。作為的な動きがあれば必ず分かる。 ただし、これが同じ継承者によって起こされた場合ならどうなのかは分からない。〈秘伝〉とは、天地の理を体得し、軋轢や矛盾を生まずに自然に干渉せしめる奥義だ。天義書について言えば、〈秘伝〉を用いるということは一時的に天意の代行者となることを意味する。当然ながら継承者となってから自分以外が天の〈秘伝〉を行使したことはないし、地の〈秘伝〉にいたっても、継承者同士は(ある一定範囲内で)否応なく互いの術の発動を感知できるため、〈秘伝〉の術に対して、継承者ではない一般の術師がどう感じるかまでは、知りようがない。 「まさか、何者かが意図的に降らせているというのか」 問い返す硬い声音に、雷蔵は「ああ」と頷いた。 人為的に天の気を左右する。そのようなことが可能ということ自体、虎一太は信じがたいようだった。〈秘伝〉の存在を知っていて、その力を目の当たりにしてはいても、あまりに現実味がなさすぎるせいだろう。 「相手方には相当な術師がいるみたいだ。これだけの広範囲で天候を操るなんて、並大抵の能力じゃない」 「止められないのか?」 虎一太は柱に凭れながら、髪を一つ結びにした後頭部を一瞥する。雷蔵の持つ〈秘伝〉ならば、この雪を止ませることができるのではないかと。 「やろうと思えばできるよ」 果たして、あっさりと雷蔵は答えた。すかさず「やらないけどね」と続ける。 「これは敵の挑発だ。様子見といったところかな」 「何の様子見だ」 「大方、積雪で里の逃げ道を塞ごうとすることで、俺の出方を窺っているんだ」 ここで下手に反応を返せば、相手の思う壺に嵌まる。 「もしも〈秘伝〉を使えばどうなる」 事情のよく呑みこめない虎一太が、詳しい説明を求める。 「まあ、まず俺の所在は確実に捕捉されるだろうね。尤も、これに関してはすでにバレているから、あまり大差はないかもしれないけど」 敵は常にこちらを監視している。雷蔵もこの邸の敷地には鳴子の結界と併せて目晦ましをかけてはいるが、せいぜい内部が見えづらくなるだけである。あちらは雷蔵がここにいることなどとうに掴んでいるだろう。数日前に感じた『視線』を雷蔵は思い返す。 「むしろ俺の力量をはかることが主な目的なんじゃないかな。同じ〈秘伝〉であっても、桁は継承者それぞれの器に左右されるから」 「では、裏を返せば敵は〈秘伝〉を相当警戒しているのだな。お前の器次第では、その術師の力が及ばぬ可能性もあるということだろう?」 「まあね」 「とはいえ、すでに先手を仕掛けられているとなると…・・」 どうしたものかと虎一太が顎を撫ぜる。これまでさっぱり音沙汰なかった相手が動いたのだ。何か他に裏の意図があることも否定できない。いずれにせよ放っておくわけにはいかぬ事態だった。しかし雷蔵は今のところはまだ猶予はある、と結論付けた。 「この雪は、里を閉じ込める効果はあるだろうけど、逆に言えば外からも攻め辛くする。これは彼らにとっても進軍の弊害になる諸刃の策だ。敵は俺が動くと踏んであえて打って出たのかもしれないけど―――いささか甘く見ているようだね」 そう言い、雷蔵は虎一太を見上げる。 「忍びの者を、雪ごときで足止めできると、本気で信じているわけなんだから」 虎一太は答えの代わりに、片方の口角を上げた。 隠れ里に暮らす民はみな忍びだ。たとえ非戦闘員であろうとも、最低限の訓練は受けている。大雪の山中であっても、移動するのは訳ない。平素に比べれば機動性は落ちるが、それでも並みの人間よりはずっと機敏に動ける。 「ということで、支障がない限りわざわざ相手してやることはないってわけさ。第一この手合いには無視が一番なんだよ」 平然と言い放って、冷えた左手を己の首筋に当てる。 なるほどなと頷いていた虎一太は、ふと眉を顰めた。 「その手はどうした?」 ああこれ?、と雷蔵が思い出したかのように手を離し、包帯の巻かれた甲を見下ろす。 よく見ればその耳と首筋にも、小さいものではあったが新しい、赤い傷があった。どう考えても自らの過失でうっかり怪我を負うような箇所ではない。 虎一太の胸内に、その時悪寒にも似た良からぬ予感が泡沫のごとく浮かんで消えた。 問われた雷蔵は具合を確認するように、手を開いたり握ったりしながら、 「襲われた」 「襲われた」あまりにあっさりした一言に虎一太が思わず鸚鵡返しし、それから間をおかず表情を厳しくする。 「誰に」 「さあ」 いきなり前触れもなく一方的に攻撃を受けた。むしろこちらが尋ねたいくらいだ、と首を傾げる。 「長髪で上背はおよそ一間弱、体重十五貫ほどの痩せ型。声色を能く使う。―――心当たりは?」 唐突ともいえる発言にも戸惑わず、虎一太は腕組みをして虚空に視線を流した。 「思いつく限り二十は下らないな」 はっきり言ってざらにいる特徴だ。 「付け加えよう。処罰をも恐れない直言型」 今度は返ってくる言葉はなかった。虎一太の様子を伺えば、一点を見据えたまま口元に手をやっていた。候補が絞られたか、深く考え込んでいる。ついでに、と雷蔵は続けた。 「背格好もだけど、声もどことなく君に似ている感じだったよ」 最後の一言で、虎一太の表情がさっと変わったのが分かった。物思う風情で「まさか」と独り言ちる。 「ちなみに、そのあたりにいる御仁だ」 と一瞥もくれずに、親指で開け放たれた縁側の陰を指し示す。 何だと、と虎一太が素早く目をくれた。 「首が飛ぶ覚悟はしてきたかい」 雷蔵が微笑を浮かべながら声をかければ、ややしてから溜息が応じた。 「鈍いのか敏いのかよく分らん奴だな。気配は完全に絶っていたはずなのだが」 暖かみを感じさせぬその声に、虎一太の顔色がはっきりと変じた。 「君もまぁ懲りもせずよく来たね」 「日を改めると言った」 「昨日の今日だよ。しかも白昼堂々」 現われたのは、昨夜の声の主だった。 「龍二!」 虎一太が叫ぶ。 (『龍二』?) その名に雷蔵は少し引っかかった。 (偶々……かな) 雷蔵の疑問も余所に、虎一太はいつにない表情を男に向けていた。茫洋さはなく、厳しい語調で詰責する。 「ここで何をしている」 押し殺した低い声音は、珍しく怒気を滲ませている。 「よもや命に背いただけでなく、客人に狼藉を働いたなどと」 「それはこちらの台詞だ」 改めて明るいところで見た男の背格好はおおよそ推測通りであった。上背は高く、引き締まった体躯は痩身ではあるが、太い骨格と硬い筋肉が、深い陰影を伴い際立っている。 何より、細く切れ上がった双眸が鮮烈な印象を与えた。奥に宿る光が鋭利な白刃を思わせる。冷徹な表情は万人の好意ではなく畏怖を呼び起こすだろう。 「お前こそ一体何を考えている。そのような輩を、わざわざ素性を伏せて匿うとは、どういうつもりだ」 男の喋り口調は淡々と抑揚がなく、だからこそ余計に恐ろしい。 「信長の元より戻って以来、お前の様子がおかしかったことに俺が気づかぬとでも思っているのか。厄介事を抱えていることなどお見通しだ。そしてその原因がそこの男であろうこともな」 すうっと、隙のない眼光が雷蔵を品定めるように眇められる。 「童子のような姿。見てくれに反した物腰と熟練の身のこなし。そして巧みな薬捌き―――これだけ条件が揃えば、知っている者ならばすぐに感づく。山賀の残党は信長の忍び狩りの対象のはずだろう」 雷蔵はかつて一度影梟衆の里に来たことがある。それだけに、接触があった者に特徴を覚えられてもいた。しかし彼には会ったことはないというのに、よく知っていたものだ。 「詮索不要だ」 「里が危険にさらされるならば、見ぬふりをするわけにはいかぬ」 「弁えろと言っている。誰が頭か忘れたか」 「水を差すようで悪いんだけどね」 それまで傍観者に徹していた雷蔵が 「表にお客さんが来ているようだよ」 虎一太に向かい、指で玄関を示す。「客?」と虎一太が怪訝そうに振り返る。 「千之助か?」 「いや。さっきから門際を出たり入ったりを繰り返しているから、大方急ぎの知らせとかじゃないかな」 右耳を手で押さえながら言う。先ほどから耳の奥で鈴音がリンリン鳴っていて煩いのである。 「……」 虎一太はややしてから憂鬱気に息を吐いた。 「分かった。―――龍二」 腕を組んでいた男が、わずかに顎を上げた。 ふと、その長い前髪が揺れた。 「―――!」 にわかに噴き上がった血霧が庭先を染めた。痩躯が体勢を揺らし、地に膝をつく。獣めいた低い唸りが零れ落ちた。 さすがのことに、雷蔵も軽く驚いたように瞠目する。 崩れ落ちる男とすれ違うように、一足で向こう側へ移動した虎一太は、姿勢を正して小太刀の切っ先を下した。 「命令違反と客人への非礼はこれで不問に伏す。傷が癒えるまで身を慎め」 「……」 跪いたまま一言も発さなかったが、男に逆らう様子はなかった。ただ黙然と恭順の意思を見せる。押さえた指の間から血が尽きることなく流れている。それでも変わることのない鉄面皮からは、どんな感情を持っているか伺い知ることはできなかった。 虎一太もまた無言で踵を返し、降り注ぐ雪を頭に肩に積もらせる男に一瞥も向けずに表玄関へ足を向けた。 後に残された雷蔵は、片膝を懐に抱えた体勢から、嘆息交じりに傍らへ琵琶を置いた。立ち上がって一旦奥に引き、すぐに何かを手に戻る。それを庭の男に投げやった。 真白い雪の上に転がった小さな柄付き漆塗りの容器二つと木製の薬籠に、訝しげなまなざしが注がれる。 「薬だよ。桜柄の方は血止め用、撫子は刀創用。薬籠には痛みを鎮め邪熱を封じる丸薬が入ってる。朝夕それぞれ食後に一粒。一週間も飲み続ければいい」 さすがというべきか、虎一太は絶妙な力加減で斬ったようで、傷の深さは失血過多になるほどではない。もちろん傷ついた眼球に光は戻らぬだろうが、ひとまず命に別条はなさそうだ。ただし、このまま何の処置もしなければその限りではない。 なお理解できぬとばかりの相手に、雷蔵は障子戸に凭れた恰好で柔和に笑った。 「丁度製りすぎて余っていたところなんだ。並みの薬の倍は効くと思うよ」 「治験済みだしね」と、左手を軽く振る。そしてその手を下ろしてから、 「頭の命は絶対だ。掟に逆らうのは賢明とはいえないね」 「―――そのようなこと、言われずとも先刻承知だ」 ようやく返って来た取りつく島もない反応に、雷蔵は肩を竦めた。 男は重傷など感じさせぬ所作で立ち上がった。渡した薬は素直に懐に納める。体面を考えれば、表だって医師にかかるわけにもいくまい。かといって放置して完治しうる軽さでもない。己で手当てするのに、薬は入用のはずだった。 結局それ以上は何も言わずに、男は裾を翻し庭を後にした。来た時同様の裏手の勝手口へ去るその背を、雷蔵は見るともなしに見送った。 |