耳朶を打った声と、頬を打つ熱風に、不知火ははっと目を見張った。 視界を染めるのは天井にまで舐め上げる黒煙と炎。 「不知火、無事か」 掴まれた腕にぼんやりと視線をめぐらせれば、訝しげに眉をひそめる虎一太の貌にかちあった。 「御頭……?」 「どうした。急に立ち止まって」 「任務中だぞ」と言われてはじめて不知火は己が板張りの廊下に突っ立っていることに気づいた。立ち止まった忍び装束の者たちが不審げにこちらを見ている。 ―――『任務中』? 虎一太の残した言葉に、不知火は怪訝に思った。それから己が抱えている巻物に気がつく。これは何だ? 俺は今一体何をしていた? 急に何も思い出せなくなった。呆然としている不知火に、虎一太がいつになく緊張した声音で言を重ねた。 「急ぐぞ。乾組の危急を知らせたのはお前だろう。しっかりしろ」 板張りの廊下。燃え立つ壁に襖。黒煙の蟠る天井。見覚えのある風景に、ようやくそこが小根澤の城内であることを悟る。自分は城に潜入し、放った火の混乱に乗じて依頼品の捜索を行っていたはずだ。 自分がどこにいるのか、一瞬でも何故混乱したのか、分からなかった。 (乾組。そうだ、朱鷺兄が) 駆け出す虎一太と京里忍城の忍びの背を追いながら、不知火は徐々に現状に立ち返る。 しかし何かが引っ掛かる。違和感。何かが違うような――― 「朱鷺次!」 虎一太の押さえた叫びに、不知火はどきりとして顎を上げた。その先には籠目状の頑丈な牢に閉じ込められた仲間の姿があった。 「すまねえ、ドジ踏んじまった」 年のいった忍びが皮肉気に片頬を上げた。確か与市という名だった。その傍に、一人が歩み寄る。小柄なその姿に見覚えがあるのに、ぼんやり靄がかって思い出せない。 「お前が来たのなら不幸中の幸いってやつかね―――お前、アレは持ってきているか」 「ええ。でも量はありません」 「構わんよ」 少年の忍びがどこからともなく器を取りだし、牢にかける。と、一部の鉄が溶け籠目穴が広がった。しかし液を使いきってもそれは人を通すほどの大きさにはならなかった。 「上出来だ。こいつ一本なら十分通る」 そう言って与市が渡したのはひと振りの刀だった。あれは伝家の宝刀だ。この系図を記した巻書とともに、依頼主に奪取を求められていたもの。今回の目的。 「最期に何か残すことは」 刀を受け取った少年忍が囁いた。 「まだ諦めるのは早い。何か方法があるかもしれない」 すかさず虎一太がわずかに動揺した声音で反駁する。同感だった。諦めたくない。仲間を見捨てるわけにはいかない。焦る心で、何かないのかと、必死に方策を探す。しかし、考えれば考えるほどに状況が絶望的であることも不知火は感じずにはいられなかった。落とし格子は、恐らく足先が鏃のように砥がれていたのだろう。床深くに食い込み、完全に部屋を塞いでいる。火煙も相当立ち込めており、そこここが軋みを上げていた。崩れ落ちるのは時間の問題だ。 「お若いな、影梟衆の。だが俺たちゃ忍びだ。忍びなら今何が一番大事なのか、言わずとも分かるだろう」 与市が含み笑いをしながら言った。男らしい強かな笑顔だった。後悔の影はそこにはない。 与市をはじめ、他の忍びたちが一人また一人と形見や言葉を外の者たちに託していく。 その中、「棟梁」と呼びかけたのは朱鷺次だった。 「朱鷺兄」 不知火は思わず呼んでいた。しかし足は竦んで、そこから動けなかった。 朱鷺次はすすけた顔を泣き笑いにゆがませながら、 「こんなことになっちまって面目ない。悪いが、一足先に逝ってるぜ」 それは遺言。 これが最期と心を決めた者の声。 「朱鷺兄!」 咄嗟に駆け寄ろうとした不知火の足を縫いとめたのは、ほかならぬ朱鷺次の怒号だった。 「こんのうつけが! 何呆けっと突っ立ってやがる、さっさと行け!!」 それは同じように傍に寄りかけた虎一太に向けられた怒りだった。なお何かを言い差す虎一太に、 「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。てめえは俺たち影梟衆のアタマなんだ。誇り高き義忍を束ねる棟梁なんだ。こんなところで死なせるわけにゃいかねえんだよ!」 その声音の響きに、不知火は心臓が強く脈打つのを感じた。全身が寒い。 「行けよ、旦那。あんたも一端の頭ァ張ってく気なら、“こんな”ことでいちいち心を揺らしちゃいけねぇ。部下の思い、無駄にするもんじゃねえよ」 与市が、諭すように重ねて言う。不知火は虎一太を見つめた。こちらに向く背中は、無言で深い苦渋を滲ませていた。忍びとして時に殺さねばならぬ情。それが選んだ道なのだ。 御頭、と不知火は呼んだ。けれど喉がかすれ、声にならなかった。煙にやられたわけではない。ただ虎一太の苦しみや、朱鷺次の覚悟を感じ取って、声が出なくなった。何も言えない。何を言えというのだろう。救いたい。けれど救えない。共に死ぬことも、牢の中にいる者は誰一人として望んでいない。 それが罪業と汚濁に塗れて生きる忍びのせめてもの誇り。 そして虎一太はついに踵を返した。 「また……いずれ会おう」 「ああ、冥府でな」 虎一太が近くなり、佇む不知火にすれ違いざま肩を叩く。「行くぞ」と。 感じた視線に、不知火は虎一太から牢へ目線を再び移す。 朱鷺次が見つめていた。 「不知火」 向けられた目に、喉を詰まらせた。 「しっかり一人前になれよ」 強い眼光を宿す幾対の瞳が、こちらをじっと見つめている。生き抜けと訴える。それがたとえ、苦しみばかりの生でも、誇りを貫けと。 強く腕を引かれるままに、その場を後にする。 牢が遠くなり、やがて炎と崩れ落ちる木片に消えた。 森林の中、先頭を走る二人を必死で追いながら、不知火は茫然自失になっていた。最後に見た朱鷺次の目がぐるぐると頭を巡っている。今戻れば まだ間に合うのではないか。何か助ける方法が思いつくのではないか。そう思うのに、戻れない。後ろ髪を引くのは朱鷺次や与市ではない。己だ。朱鷺次たちはむしろ不知火を追いたてるように見ていた。見捨てたくないという思いを、甘ったれるなと叱責した。 けれど不知火には分からない。このことをどう仲間に伝えるのか。朱鷺次にはたしか婚約者がいた。娘の親は天涯孤独の朱鷺次との間を最初は猛反対した。ずっとずっと説得して、ようやく認めてもらえた。彼女は今も里で、彼を待っているはずだ。 不可抗力だった。けれど結局見殺しにしたも同然だ。虎一太だけの責任ではない。自分だって何もできなかった。何と伝えればいい。自分は道を誤ったのか。 答えの見えぬ迷宮。気持ちに折り合いがつけられない。これが忍びというものなのか。ならば忍びとは何だ。自分たちは一体何のために生きて死ぬ。 「伏せろ!」 にわかに鼓膜に響いた警醒に、不知火は条件反射で従った。 刹那の差で頭上を越えた殺気が思考を断つ。 「今の鎖鎌……」虎一太の台詞に、不知火は顔を上げた。 そして見た。鎖鎌を構える朱鷺次の姿を。 「すまねえな、御頭。いや……もう仲間でも部下でもねえから、こう呼ぶのは適当じゃねえか」 「……朱鷺兄?」 不知火は茫然と呟いた。何故朱鷺次がここにいるのだ。何が起こっている。 虎一太が何か物を言い、朱鷺次が返す。けれど不知火の耳に届かない。頭が混乱し、すべての会話が遠い。 「与市さんは止めきれなかったようだね」 ようやく我に返った時に、柔らかな嘆息が耳朶を打った。 与市が止められなかった? それは一体どういう意味だ。朱鷺次は死んだわけではなかったのか。与市は何を止めようとしたのだ。その答えは朱鷺次が自ら明らかにした。 「手強かったが、煙で相当やられていたからな。辛うじてやりかえしてやったよ。牢は内側の隠しからくりから跳ね上げることができるんだ。本当ならそのまま刀を持ってとんずらするつもりが、お前が鉄を溶かすとかふざけたモン持っていやがるから予定が狂っちまった」 小根澤の透波を周囲に従えるようにして立ち、嘲笑う。不知火の脳はその言葉を必死に理解しようとしていた。けれど出てくる解は一つのみ。 「朱鷺次、何故なんだ」 虎一太の静かな問いかけで、自分の辿りついた真実が間違いではないことを、不知火は悟った。 朱鷺次の態度は冷淡だった。 「俺は言ったはずだ。もう大昔とは違う、時代は替わったんだ。義忍なんてものは流行らない。忍びの世界も勢力分化が進み、複雑を極めてきているんだ。影梟衆は何故こんなにも数を減じた。義を貫き通して、どれだけの仲間が死んでいった? 非情になれないのなら、いっそ忍び衆なんて廃めちまうべきだってな」 「……だから裏切ったのか」 裏切り。 そうだ朱鷺次は自分たちを裏切ったのだ。 「ああそうだ。見限ったんだよ、お前らを。俺は忍びとしてもっと高みを目指したい。こんなところで終わりたくなどない」 信じられぬ台詞だった。よもや朱鷺次の口から聞くとは夢にも思わなかった、言の 「手柄を立てれば仲間にしてもらえる約束でな。里抜けとなると面倒だから、手っ取り早く死んだことにして、無難に済まそうと思ったんだがな。こうなった以上しょうがねえ。てめえらの首も手土産にすりゃあ、今後の待遇も上がるってモンだろ!」 敵の透波が動くと同時に、朱鷺次は飛びかかってきた。 にわかに大乱闘の様相を呈した。容赦のない攻撃に、不知火も応戦する。動転している暇などない。殺気には殺気で返す。 死に物狂いで得物を振っているうちに、敵の手の者が次々と頭数を減らす。 不知火は肩で息をしながら、朱鷺次を目で探した。すると先に朱鷺次の攻撃を受け止めていた少年が引き、いつの間にか虎一太が朱鷺次に対峙していた。 「すまないがこれは影梟衆の問題だ。手下の始末は俺につけさせてほしい」 虎一太は落ち着いて見えた。しかし茫洋とした声音には、覚悟とともに押し隠せぬ悲しみを宿していた。聞いていて臓腑が苦しくなった。戦いの所為ではない息苦しさだった。 「お前にできるのか? 俺を始末する覚悟が」 朱鷺次が鼻で嘲笑う。他の敵忍の数は最早片手の指ほど。圧倒的に不利な状況で、それでも朱鷺次は戦うことをやめる様子はなかった。 「できるか否かではなく、やらねばならない。それが俺の務めならば」 「その覚悟があるってわけだな。いいだろう。俺が残るかお前が残るか―――勝負と行こうじゃないか」 虎一太と朱鷺次が同時に動く。 不知火にはただ二人の目に映らぬ攻防を追い、見守るしかなかった。虎一太の動きがいつになく重いことが気にかかりながらも、隙のないやり取りに、手を出すことが叶わない。 しかし、長いとも短いともつかぬ応酬の果てはやってきた。 虎一太が体勢を崩し、朱鷺次が決定打を狙って鎌を振り下ろす。 「御頭!」 不知火は頭頂部からさあっと血が落ちるのを感じた。眼の先がちかちかする。 その視界に映る、ゆっくりと崩れ落ちる姿。 (まさか、そんな……御頭が) 足の裏がぐらりと揺れる。そんなはずはない。信じない。信じたくなどない。 (御頭が負けるなんて) 心臓がばくばくと音を立てる。朱鷺次がゆっくりとこちらを見た。何も映さぬ、どろりとした濃墨の目。 (朱鷺兄) 辺りは一面に無音の闇だった。森も敵も味方の姿もない。いつの間にかすべてが消え、まるで世界に自分と朱鷺次しかいないかのような錯覚に陥った。 不知火にとって、朱鷺次は兄だった。鎖鎌を教授してくれたのは朱鷺次であったし、忍びとしての誇りも教わった。 虎一太もまた兄のように慕う、憧れであり尊敬の相手であったが、朱鷺次はどちらかといえば何でも相談できる気兼ねのない存在だった。悪さも教えてもらったし、虎一太にも言えない悩みを聞き、時に叱咤し、時に励ましてくれた。 極めて近しかったはずの人間が、対峙する今や、ひどく遠い。見知らぬ者の顔をしている。 「なんで……なんでだよ、朱鷺兄」 唇が戦慄いた。朱鷺次はじっとこちらを注視している。その手の鎌には赤い液体がぬめりと貼り付いていた。あれは誰の血だ。 「兄貴と御頭がなんで戦わなきゃいけねえんだよ」 目の前が真っ赤に染まる。不知火は叫んでいた。声を振り絞りながら叫んだ。 「ずっと仲間だったじゃねえか!!」 不意に無表情だった朱鷺次の唇が動いた。 「俺は里の生まれ育ちじゃねえ。影梟衆の一員になる前に何をしていたか―――お前、知らねえだろ」 「え?」 「俺は草だよ。影梟衆に長期潜伏し、お前らの信用を得ることが仕事だった。必要な情報を流し、時がきたら動くよう最初から言われていたのさ」 自嘲気味に、朱鷺次は片方の口角を軽く釣り上げた。 「ずっと欺いていたんだよ、お前らを」 「嘘だ!!」 「嘘じゃねえさ。だから実際いまお前らの前に立っている。そしてこうして仲間を手にかけた」 朱鷺次が見せつけるように鎌を掲げる。鮮血が滴った。 「嘘だ…・・嘘だ嘘だ嘘だ!」 不知火は地団駄を踏まんばかりに首を振った。これは何かの間違いだと思いこもうとした。すべてを聞かなかったことにできればどれほど幸せか。 「信じたくなきゃ信じなければいい。だが事実は否定しても変わらない。そしてお前も死ぬだけだ。あいつのようにな」 その台詞に、不知火は脳のどこかで弾ける音を聞いた。 「朱鷺兄――――!!」 爆発するように憤りが全身を埋め尽くし、忍び刀を振りかぶった。 ガキィンと耳障りな金属音を立て、衝撃が腕を伝う。怒り任せに振り切った。 「畜生ォ!!」 最早自分が何を口走っているのか、何を叫んでいるのか、分からなかった。どうでもよかった。 ただ心のどこかにぽっかりと空いた冷静な部分に、厳然とした事実のみが横たわっていた。 朱鷺次は裏切ったのだ。 自分を。虎一太を。影梟衆も。 感じていた絆は、最初から偽りのものだった。 何も考えられず、ただ闇雲に、我武者羅に刀を振るった。 「おおおお――――!!」 大きく引いて、突きを放った。そして、確かな手応えがあった。 その手応えに、自ら驚いて硬直した。 耳元でゴホッと咳き込む声が立つ。 「朱鷺兄」 柄を握る手が震える。あれほど上っていた熱が、急速に冷えていく。 「いいか、こいつが裏切り者の末路ってやつだ」 よく見ておけ、とばかりに、朱鷺次は退廃的な笑みを声音に含ませた。 「遺言は二度は言わない」 血痰が絡まったか、喉に嫌な音がした。 「おめえたちとつるんでいる時間は、たとえ俺にとっちゃ偽りであったとしても、それでも楽しかったよ」 そんな囁き声に、不知火はただ呆然となる。 「何でだよ。何でこんなことになっちまうんだよ」 動けぬままに、呪文のように「何で」と繰り返す。 「それが忍びだからだよ」 不意に側で上がった声に、サッと視界が明るく開けた。 |