寝ているところを起こされた幼子は、夢うつつで目をこすりながら歩いていた。 前で手を引くのは、母だった。 いつも母が浮かべているやさしい眼差しが彼は好きだった。彼は目元が母親似だとよく言われていた。 けれど今、母の顔に笑みはなく、泣き疲れた人のように窶れていた。 ただ無言で手を繋いでいる。 弟はどうしただろうか、と幼子は家の方を振り返る。 あの怖がりの弟は、一人で家に残して大丈夫だろうか。もしも途中目が覚めたら泣いてしまうんじゃないだろうか。 「ねぇおかあ、どこいくの……?」 何も言わない無表情の母が怖くて、不安になる。 母はそろりと振り向いた。そしてようやくほほ笑んだ。 「いいところよ」 けれどその双眸は、幼子にはどこか恐ろしいものに映った。まるで母の姿をした別の何かみたいに。 道の向こうに火が焚かれている。寒々しい夜道に、火の赤がほっと身体の緊張を解した。 そこには大人たちが集まっていた。 どの顔も知っている。あの人はコウのおとうとおかあ、あの人はキヨとソウイチのじいちゃん、あのおばさんはいつもこっそりおやつをくれる近所のおヨウさん。 知っているはずの顔。 なのにどこにも親しみがなかった。皆一様に能面を被ったように、自分をじっと見つめている。 すごく怖かった。 何が一体始まるんだろう。 自分は気付かぬうちに何か悪いことをしたんだろうか。今日はちゃんと父の仕事を手伝って、母の許しを得てから弟と魚釣りに行った。帰ってきたときにも何も言われなかった。なのに何なのだろう。これはお仕置きなのだろうか。 「おかあ、俺怖いよ。帰ろうよ、ねぇ」 母の手がぎゅっと強くなった。痛みに顔をしかめる。痛いよ、と唇を尖らせるのに、母は力を緩めなかった。 近づいてきた群衆の中に、父の顔を認めて、安堵する。 「おとう、ねぇ何これ。俺眠いよ。家帰りたいよ」 しかし次に待った父の反応は、目を逸らすという期待に反したものだった。 裏切られたような気分のまま、みんなが取り巻く台の階段を上らされる。 白い台の上では、村の覡が堅い顔で待っていた。 無言で中央に座らされる。 母は一度だけ、頬をやさしくなでると、そっと離れて台を降り父のそばへ寄った。 そこに正座しているとまるで一人見知らぬ場所に取り残されたような不安と孤独感が襲った。 炎が闇を照らし、炎を宿すすべての目が見上げてくる。 恐ろしさに身体が震えた。 「荒ぶる御魂よ。これより神移しの儀を執り行う」 覡がゆっくりと近寄ってくる。逃げようと思った時には手を掴まれ、仰向けに台に押しつけられていた。気がつけば数人の大人たちが手足を押さえこんでいる。 「何? 何なんだよこれ!? いやだよ!」 全力で抵抗しても、所詮は大人と子供。 視界に閃いた光に、はっと上を見上げる。 闇にきらりと煌めく刀。 優雅な刃紋が松明に反射して美しかった。 だがそれを目にした瞬間、身体が凍りついた。刀の切っ先は、自分の左目の上に照準を合わせていた。恐怖は最高点に達した。 「いやだ! おとうおかあ助けて、助けて! いい子にするから! もうわがままいわないから!!」 何か文言を唱える覡。必死に暴れながら、泣き叫んだ。背筋が冷たい。本気だ、本気なんだ。 首を振れば固定され、固く瞑っていた瞼を無理やりこじ開けられる。 「楽々福神の 覡はカッと目を見張り、そして一気に古代刀を振り下ろした。 灼熱と激痛が左の眼を貫いた。 「―――――――!!!!」 自分の叫ぶ声しか聞こえない。 そして視界が真っ白に染まった。 一週間の高熱で死の境をさまよいながらも、彼は生還した。 だがその日以来、村人の彼に接する態度は変わった。 まるで神を崇めるように、けれど裏では鬼を恐れるように、言葉遣いまでもが丁寧すぎた。 両親でさえ、腫れものを触るかのようだった。張り付いた笑顔の裏に恐怖と罪悪感が透けて見える。 更には何も知らぬ弟が無邪気にまとわりついてくるのを、強く叱りつけたりもする。 「お前は村の救いなんだよ」 「皆の希望なの」 左眼を包帯で覆われた姿を見ながら、泣き笑いの表情で父と母はそう言う。 一体何が救いだというのだろう。 敬いながら怯え、親しみながら離れていく大人や友達たちが、自分の何を希望としているのか。 両親さえも直視を避ける己は、もはや人間ではないのだろうか。 幼い彼にはそれでもただ曖昧に笑って気づかぬふりをすることしかできなかった。 しかし運命はそれほど優しくはないようだった。 「なぜなんだ!」 村に悲鳴が上がった。 村人たちの慟哭だった。 「なぜご神体がすり替わっていることがバレたんだ!」 「誰かが密告したにちげぇねぇ!」 「誰だ!!」 村の中は騒然とした混乱に覆われていた。今朝方、偽りの御神体の奉納に向かった神官とその娘である巫女がそろって首だけで戻ってきた。無残な死に顔に女子供は恐怖し、泣き叫んだ。 やがてもたらされた伝達は、想像を絶するものであった。 「軍がすぐそこまで来ている……」 「もうおしまいだ……」 「に、逃げよう! なぁ、みんなで逃げるんだよ」 一人が引き攣った笑みを浮かべ訴えた。 だが誰もが暗い顔を崩さなかった。 「無駄だよ」 老爺が言った。 「どこへ逃げるっていうんだ。逃げてそのあとどうする。儂らにはたたらしかないというのに」 「だからってこのままむざむざ殺されてたまるかよ!」 「いくら逃げたところで、いずれ必ず捕まる。俺たちにどこにも逃げ場はねえ」 お終いなんだよ、とぼそりと誰かがつぶやいた。 ある者は嗚咽を漏らしていた。ある者は涙さえ枯れ果てていた。 「逃げ道はある」 そう言ったのは、かの覡だった。皆が振り返る。 「だがこれは、諸刃の剣だ」 暗い面持ちで覡は言った。疲れ果てた頬は濃い影を落としていた。 「封印を解放する」 それが何を意味するか、誰もが察し青い顔となる。 「解放?」 「だがあれを解き放てば……」 「そうだ、大いなる災厄が降りかかる。だが、儂ら力なき民が軍を相手に生きながらえるには―――あるいは復讐するには、もうそれしかない」 どうせ死ぬなら。 どうせ死ぬなら、いっそすべてを道連れに。 沈黙は賛成を意味した。誰もが黒く渦巻く恨みの炎を胸に瞳に宿して覡を見詰めていた。 深い悲しみと怒りと恐怖が、村人たちを狂わせたのだった。 そして場面は一転する。 一体どこにいるのか、何をしているのか、まったく分からなかった。 ただ目を開けた時、あたりは真っ赤に染まっていた。 空も、大地も。 ぼんやりと見回す。 黒い大地のあちこちに、影が付きでている。 人の形をした影。 原形を留めず、黒ずみになった影。 鎧らしきものを着た人の影。 「……」 何もなかった。 家も村も人も。 切り崩され、溝を穿たれ、灰燼と帰した土地。 ふと自分が膝に乗せているものをみた。 影じゃない。小さな小さな、白い顔。 自分によく似た癖っ毛。 その胸には大きな赤黒い染みが広がっていた。 「―――温かい……」 支える手を伝う暖かい液体。柔らかい身体。 なのに、ぴくりとも動かない。 「待って……」 血とともにゆるりぬらりと流れていく温もり。 「待ってよ……」 次第に固くなっていく手の中の小さな身体。 「おいてかないで……!」 おれも一緒に連れて行って。 胸にかき抱いて泣いた。 泣いて泣いて、そして『視』た。 村一帯を焼野原にするほどの荒ぶる力。 嬉々として村人を手に掛け、恐怖にひきつる兵たちを次々と殺していく。 そして最後に映った、己の両親の顔。 『愛してるわ、美吉』 炎に包まれながら涙を流す母。けれど瞳は狂気に魅入られていた。 『どうか俺たちの恨みを晴らしてくれ』 父の最期の声。 そして。 『あんちゃん、たすけて』 怯える弟の目に映っていたのは―――。 ああ、そうか。 全部、自分が殺してしまったんだ。自分の中の、『神』が。 天を仰いだ。 空が赤かった。 |