覚えているのは、真っ赤に染まった空。 そして手から零れおちる暖かさ。 薄墨を刷いたような、ぼんやりとして定まりのない暗闇だった。 何も見えない。 「何も、みえない……」 理由も分からず急に心細くなった。胸が苦しい。じわじわと、闇に食われるような錯覚。 何かを求めて走った。すぐに息が切れ、はあはあという自分の息遣いだけが木霊する。恐怖が背中を追いかけてきた。徐々に喉に痰が絡み、目尻が熱くなる。それでも足は駆けることをやめない。何かから逃げるように。 ぎくりとした。 途端に、二本脚が硬直する。 闇の先に浮かぶ、赤い鬼火。 「違う」 鬼火ではない。 赤く輝くそれは目だ。 赤い眼。そいつがこちらを見ている。 ――――――見られている。 咽頭がひくりと痙攣した。 いやだ。あれはいやだ。 ――――――こわい。 ゆっくりとこちらに近づいてくる。 逃げなければ、と思った。早く、今すぐここから逃げなければ。あれに捕まったらおしまいだ。 そう思うのに、足が動かなかった。土に縫いとめられたように、竦む。焦れば焦るほど、それを見つめて動けなくなる。 近づいてくる。 来るな、という声は、声にならなかった。 来るな、来るな。 たすけて。 たすけて、誰か。 祈るように、目をぎゅっと瞑る。気配が否応なく肌を逆なでする。 唐突に近づく怖気が消えた。 しばらく身を固くしていたが、一向に近寄る気配はない。 行ってしまったのか。 ほっと胸を撫で下ろして、そろそろと目を開いた。 闇が笑った。 「――――――!」 「美吉!!」 己を呼ぶ声に、美吉は目を大きく開いた。 飛び起きかけた身体が阻まれる。 喉の奥までせり上がってくる胸の動悸と、背筋から脳天まで走る不快な寒気。脳の髄がズキズキする。 現実と夢の切れ目が分からずに、しばらく茫然と宙を見上げていれば、呼吸が落ち着いてくるにつれ徐々に頭の奥が覚醒してくる。 四肢が動かない。幾度か瞬きをして、今の自分の状況をゆっくり思い出そうとした。 緩慢な動きで首だけ左へと巡らせば、視界の先に見知った顔を認めた。 こちらを見つめる表情がいつになく緊張している。珍しい、と何気なく感じる。しばらくしてから、ようやく名と顔が一致した。 「雷蔵……?」 ふわふわした意識でぼんやりと問い、それから冷水を浴びせられたように、急激に頭が気を失う前の現実へ逆回転する。 「!?」 雷蔵は袈裟のない雲水で拘束されていた。こちらは美吉とは違い、坐しながら、壁に取り付けられた鉄枷に両手をそれぞれつながれている。左頬に殴られた痣がある。その左右に着崩した着物の男たちが立ち、にやにやと嫌な笑いを貼りつかせていた。 さっぱり訳の分からぬ展開に、己の置かれている状態を再確認した。 「なんだこれは」 美吉は何かの台に仰向けになっていた。 腕は左右に、足は揃って真っすぐ伸ばされ、まるで十字を象るように。 しかしどれだけ暴れようとも、首から下がピクリとも動かない。 視線を彷徨わせると、胸元に置かれたあの忌々しい十字飾りが視界に入った。 「おい、一体何なんだよ!」 明らかに混乱している美吉の耳に、好意的とはいえぬ声音が届く。 「ぎゃあぎゃあと煩ぇな。黙らねえと殺すぞ」 「駄目ですぜ、兄貴。あっちにゃあ手ぇ出しちゃいけねぇ約束ですよ。ひゃひゃっ」 下品な会話の震源は雷蔵の傍らのやくざ者たちだ。 美吉は必死に状況を整理しようとした。先ほどまで煌びやかな南蛮風の部屋にいた彼らは、今は薄暗い石造りの広い空間に囚われていた。空気の感じからして恐らく地下だろう。明りとりの窓はないが、壁に均等間隔に配された燭台の灯りのおかげで周りはよく見える。 美吉の横たわる台の周囲には、雷蔵や美吉たちの見慣れぬ道具が立ち並んでいた。五方位に配置された黒い蝋燭に加え、台の足側には三又に分かれた大きな燭台に焔が揺れる。そして燭台の前に赤い布を敷いた台があり、上には塩や葡萄酒といった供物が置かれ、きつい香が焚かれており、立ち上る煙の先には、天井に星図が描かれていた。 更に美吉自身は見えないが、台の下にはそこを中心として、複雑な陣が描かれていた。中でも一際目を引くのは大きな五芒星。星の頂点も、磔台の頭部も、祭壇らしきものとは逆側にある。「逆さ」―――その意味がどうしようもなく不穏さを帯びた。描かれた星図に従えば、祭壇の位置は西。太陽の沈む方角にあった。 それらを見渡し、雷蔵は目を眇めた。 美吉よりも早く覚醒した雷蔵もまた、最初は置かれている立場がよく呑み込めなかった。 「ケッ、ようやくお目覚めかよ」 茫洋と瞬きしていると、急に髪を掴まれ、顔を引っ張られる。鋭い痛みに、頭の隅に残っていた夢の欠片が消え去った。 視界に映ったのは、人相の悪い面が二つ。眠気覚ましにはなった。 「えーっと、これはどういう状況?」 とりあえず気なく笑って訊いてみる。だがあまりいい答えは得られない気がした。 緊張感のなさに呆れたか苛立ったか、男は鼻を鳴らして掴んでいた手を乱暴に放した。 「見ての通りだよ」 言われるままに見回せば、どう贔屓目に見ても真っ当とは言えぬ空間。おまけに中央の台の上には意識のない美吉の姿。 この光景に、嫌な予感ばかりが胸をざわめかせる。何より最後に見たユストの、狂気を孕んだ笑みが思い出される。雷蔵たちをここへ運び入れたのは彼だろう。しかし当の本人の姿は見えない。このやくざ者たちは、倉庫でも見た、ユストが手足に使っている破落戸の一員だろうか。それにしても何故彼らのようなならず者が南蛮僧に従っているのか。 「あの、ちょっと質問なんだけど」 やはりまともな返答を得られる気がしなかったが、それでも左の男を緩慢と見上げた。彼はこれまで見た三下とは違う風格のようなものがある。恐らくは頭目か、それに準ずるまとめ役だろうと当たりをつけた。 「俺たちをここに放り込んだ南蛮僧はどこかな」 「知らねえよ」 「じゃあここは何処だろう」 「さあな」 雷蔵はため息をこぼした。 「じゃあさ、君らは何者?」 瞬間、拳が見えた。避けられぬ速度ではなかったが、あえて動かなかった。頬に重い痛みが走る。備えていたから口を切ることはなかったものの、首飾りのせいで衝撃を逃がすことができなかった。脳が揺れ、眼窩がちかちかする。再び髪を鷲掴まれた。しゃがみ込んだ男の鋭い目線と合う。 「うるせぇ坊主だな。てめえに言う義理があるか? ああ?」 「大人しくしときゃあ痛い目もみなかったものを」 もう片方側の子分らしい小太りの男が品なく嗤う。 「当事者としては不思議だからね。君らみたいなならず者が一体なぜ異人に諂っているのか」 腹の底に響く恫喝にも怯えず、嘲笑にも動じず、依然冷静に会話をしてくる雷蔵が気に入らなかったのか、男の顔がどす黒く染まった。 次は腹かな、とのんびり構えて、予想通りの結果に咳き込む。今回は呼吸と腹筋を使って受け身が取れたので、それほどの衝撃ではなかった。あーあ、兄貴怒らせちゃって馬鹿な奴、と再び子分格が嘲笑する。 「誰が諂ってるって?」 先ほどより一層殺気を増した眼光と声音に、無言の眼差しで先を促す。 「俺たちゃあいつに金で雇われてやっているだけだ。別に従っているわけじゃねえ」 「君らも彼のお国乗っ取り計画に手を貸そうって?」 「へっ、あの南蛮野郎の野望なんざ興味ねぇな。俺たちゃあ なるほど、と呟いて、雷蔵は円を象る男の指から視線を逸らした。。彼らから得られる情報はこれが限界だろう。どちらにせよ、別にユストに心酔して手を結んでいるわけではないのは確かだ。ならば彼らはさほど厄介な相手ではない。所詮金だけのつながりとは脆いものである。 大枠は見えてきた。しかしまだ腑に落ちぬ部分がある。この状況がその最たるものだった。 ユストは一体何がしたい。神の国を作り世界を粛清するなどと、本気で実現可能だと信じているのだろうか。彼の眼は狂気じみてはいたが、理知の光もちゃんとあった。頭の悪い男ではないはずだ。己の野望がどれほど荒唐無稽なものかわからぬはずがない。大体にして、彼の野望と自分たちがどう関わるというのか。 いや。実際は、一つだけ噛み合う結論がある。けれどあえて考えたくはない。 祭壇を見る。神事ではないだろう。清めとは正反対の気に満ちている。ひどく厭な感じだった。 丁度その時、台の上の美吉が呻き声をあげたのだった。 |