雷蔵が何故春季のいる所まで辿りつけたかというと、からくりを言えば、実はそもそも先に城中にいたからに他ならなかった。そうと春季に伝えなかったのは、平野を誘きだすためである。“影”が春季の動向を見張っているならば、必ず平野が出てくると踏んでいた。 予め佐介から侵入経路を聞いた雷蔵は、惣之助と共に春季たちが参城する前から潜入していた。一方春季の方には佐藤として佐介がつき、ずっと尾行していた。そうして遅れて潜入した春季が葛城と別れたところで、佐介が雷蔵を呼びに行ったという次第である。雷蔵が間一髪で春季を助け平野と対峙していた時、惣之助は別室で佐介とともに待機しているところだった。 そんなことなど知る由もない春季は、広間の襖の前に座しながら、混乱の収まらぬ脳袋を持て余していた。知らされた事実の衝撃が重すぎて、何故雷蔵があの間であの場に現われたのか疑問に思う余裕もなかった。 一体自分は何者なのだ。仙台の姓を名乗りながら仙台家の血を引かず、源家に世話になりながら実治とは乳兄弟とも主従ともいえず、実は楠木家の筋であったのに今その血に反旗を翻そうとしている。こんな宙ぶらりんの状態で、一体何に拠って立てばいいというのだろう。 自分が前の城主の庶子。ということは御前とは異母姉弟ということになるのではないか。 膝の上の手は緊張で汗を握っている。 この襖一枚を隔てた向こうには、その御前がいる。 春季達の立てた謀叛計画の最終標的であり、そもそもの元凶が。 うろたえるな、と己に言い聞かせる代わりに拳を硬くした。掌に爪が食い込む痛みで、何とか己を律する。 領主として軽蔑しているとはいえ、御前本人には個人的な怨みはない。しかし彼女の存在が領内の憂いになっていることは事実。そして実治の負担にも。御前が上に立つ限り、いずれは実治までがその禍を被ることになりうる。義憤ともつかぬ思いから立てた計画であったが、準備には相当の時間と手間を費やしてきた。 けれど今になって迷う。御前を武力で排除することは、すなわち血肉を分けた姉に非道を働くということではないのか。 (駄目だ。今は何も考えるな) 考えれば、己を見失ってしまう。 瞼を下ろし、精神を落ち着かせるためにはあ、と長い溜息を零した。 と、横で衣擦れの音がして、首を上げた。視線を廊下の先にやれば、平野と葛城と、更に見たことのない若い男が静かに歩いてくるところだった。そしてその後ろには、大きな荷を持った法師姿も。 男は足元に落としていた目線を軽く上げて春季を見、小さく目礼をした。 (どっかで会ったかな) 一瞬過ぎった既視感に小首を傾げるも、靄がかったように思い出せない。 なるほど御前が熱を上げるというだけあり、それなりの男振りではある。線は太くはないが、頼りなげな感じはなく、真っすぐ背筋を伸ばして歩いてくる姿は、一種の誇りと風格に満ちている。若くして看板を背負う謡いの天才だという話だが、さもありなんという物腰だった。 平野はちらりと春季を一瞥したのみで、無言でその前を通り過ぎ、襖の側に跪いて声をかけた。 「御前、お連れいたしました」 「入るがよい」 これが御前の声か、と春季は震えるような心地で聞いた。くぐもってはいるが、普通の若い女性の声だ。けれどどこかぞっとする響きを含んでいた。 音もなく襖を押し開いた平野に続いて、惣之助が手をついて入る。すれ違う時、春季はふと梅香を嗅いだ気がした。 「ぼんやりしていると呑まれてしまうよ」 ふと側でした囁きに、惣之助の背を追っていた視線をハッと戻せば、“空蝉”が微かに笑いながら通り過ぎるところであった。 声をかけようと思った時にはすでに遅く、座敷に入ってしまう。 追おうとして、つい踏みとどまる。 「仙台殿も」 背後から葛城が促す。しかし春季は躊躇った。元が殿上を許されぬ身分でありながら、不法に侵入した身である。本来は手討ちにされても文句は言えぬというのに、この上大勢の前に姿を晒すのか。それ以上に、先ほど平野に言われた言葉が楔となって引っかかっていた。前城主の面影を宿す自分が皆の前に曝されるというのは、ぞっとしない。大体、実治が知ったら一体どう思うだろう。何と弁解すればいいのか。 「ご安心を。平野殿からも許しは出ております」 春季の迷いをどうとったか、葛城は宥めるように頷いた。 さあ、と有無を言わさずに促され、退路を塞がれてしまい、ついに春季はままよと踏みこんだ。 広間にはすでに人が揃っていた。座敷は想像通りの広さであったが、顔ぶれは思った以上に少ない。 その中に実治を認めて、春季は思わず目を背けた。とても顔向けできたものではない。 無言で注がれる驚愕と怪訝の視線から逃れるように、一礼の後に端の方へ控える。その他にも注がれる視線が、まるで自分を値踏みし、出生の秘密を暴かんとしているものに感じられて、居心地が悪い。 あえて知らぬふりを通そうと、上座を仰いだ。そこには几帳が置かれ、向こうに御前が控えていることが分かる。そして一段下がり、真中で相対するように惣之助が端坐していた。空蝉の姿を探せば、惣之助の斜め後方の少し離れたところに座り、例の琵琶を抱えていた。 全く何だってあのような恰好をしているのか、と春季は怪訝に思う。 位置は逆だが、あれは それにしたってあの姿はまるで――― そこでおや、と瞬く。空蝉が手にしているのは、いつものような撥ではなく、変わった形をした長い弓であった。春季は楽に詳しくはないが、琵琶を弓を使って弾くのは見たことも聞いたこともない。それは他の者も同様なのか、惣之助を気にしながらも、謎の法師の持つ見慣れぬ楽器にひそひそと小声を交していた。 やがて几帳の向こうで立った衣擦れに、座敷の雑音はぴたりとやんだ。 「惣之助と申したな」 名を呼ばれ惣之助はかすかに肩を震わせた。 どことなく心地の悪い響きを含んだ声色だと思う。生来の耳の良さに加え、連日の雷蔵との唄い合わせで鋭敏になった勘が、無意識に御前に宿る闇を聞きわけたための反応だったが、惣之助自身に自覚はなかった。 そもそもからして、まさかこのような公の場で披露することになるとは想像していなかった。それだけに自分が本当にやることをやれるのか、一抹の不安が心中を曇らせる。雷蔵曰く、この曲は何があっても決して音や 決して音を外すことはないという自信はあったが、緊張でどうとなるとも知れない。 (そんな弱気では駄目だ) 浅くなりがちな呼吸に気づき、己を叱咤した。 (梅香はもっと辛い状況で、ずっと耐えて来たんだ。それに比べればこんなこと、何でもない) ―――落ち着いて。 広間に来るまでの廊下で言われたことを思い出す。 ―――大丈夫。君はただ謡うことに専念すればいい。 微かに目だけでそっと雷蔵を見る。 雷蔵は静かな眼差しで見返し、小さく肯いた。 (そうだ。俺は一人じゃない) 梅香も側にいてくれる。 不意に硬直していた肩から、余分な力が抜けた。 惣之助は凛然と頭を下げた。 「は。お久しゅうございます。御前様におかれましてはお変わりなきご様子、何よりと存じます」 「そちが一座に随ってこの地へ参ったのは2年前の春のことであらしゃったな。忘れもせぬ」 独りごちるような呟きの語尾が、微かに震えた。それは懐かしさか歓喜か。 「恐れ入ります」と惣之助は更に深く首を垂れた。 「妾に謡いを献上したいと申したな」 「左様にございます。ささやかながら御前様の無聊をお慰めすべく、参上仕りました」 「伊村宗家の次期殿ともあろうそちがか」 伊村。 懐かしい姓に、惣之助の瞳が伏せられる。 「恐れながら今の私はただの流浪の謡曲師にすぎませぬ」 「……」 御前は無言だった。 「御前様。私は傲慢な男でございました。その思い上がりに気づかなかったために、大切なものを失ってしまいました。これは恐らく天罰なのでございましょう。それでも私にはずっと答えが見つかりませんでした」 「何の答えじゃ」 「この罪の償い方です」 謡いを使って人を死に追いやった罪を。 人を死に追いやることで、愛しい者にその咎を負わせることになった罪を。 謡いを見失ってから、惣之助はずっとそれを求めて彷徨ってきた。あるいはそうして彷徨うことこそが罪滅ぼしなのではと思っていた。 けれどそれは違う。 「遅ればせながら、今になってようやく少しだけ見えてきたものがございます」 「それは?」 「逃げず、目を背けず、確と向き合い、受け止め、踏みだすこと」 滔々と惣之助は心の思いを諳んじる。 答えというにはあまりにも漠然としたそれに、几帳の向こうから微かな戸惑いが空気を伝って来る。 「これまで私は誰かのために謡うということをしませんでした」 謡う時、いつも心は空だった。自分のためでもなく、誰かのためでもなく、ただ謡うだけの、謡いに憑かれた人間だった。そうして人の心を疎かにしたのだ。そのことに自分は長らく気づくことができなかった。 「今日、初めて他人のために謡おうと思います」 御前のために。 梅香のために。 円路のために。 そして己のために。 過去の罪を、今日ここであがなう。 惣之助は口を噤んで、ふと息を吐く。 それを合図に、雷蔵が目を伏せた。ゆるりとその手が動く。 弓が弦を擦り、深い響きが香り立つ。 その妙なる音に、誰もがはっとして、思考を止めた。 引き、推し、 幾度も聞いてすっかり耳に馴染んだ旋律に心を委ねながら、惣之助は少しずつ心を在るところに定めていく。 梅香を苦しみから救うには、己がために妄執と化した円路の魂を解放せねばならない。 己と同じく、謡いに憑かれた哀れな男。 ―――さあ、聞かせてやろう。 胸の内で話りかける。 花の香りが濃くなる。 ―――これが伊村与左衛門の謡いだ。 喉の奥から音を紡ぎ出す。 空気が震えた。 うねり、渦を巻く。 春季は聞きながら、口を半ば開いて言葉を失っていた。胸に息苦しいほどの圧迫感を感じ、息を飲むことさえ忘れる。 目に見えぬ空気の揺らぎに、音の津波に、その場にいる誰もが呑まれる。 高く低く、伸びやかに広がる声。やがてそこにもう一つの声音が重なる。並唱しながら、決して出過ぎず退きすぎない唄い声。弓と撥を巧みに使い分けながら、“客”として“主”である惣之助の声を掬いあげ、彩りを添えて、更に深める。 雷蔵の助けを得て、惣之助は高みに伸びあがる心地で唄い上げた。 祈って祈って、祈りながら。 世界が音の色に支配される。 世界に音の光が溢れる。 そして真っ白に染まった。 |