8.腹中の毒甘く、身中の 彼女に会いたいかい。 それには君が謡いが必要だ。上辺のものではなく、本物の。 けれど次に会ったら、それきり二度とは会えない。 惣之助は障子を締めきった座敷の上に正座し、告げられた言の葉々を反芻していた。脳裏で幾度も幾度も翻る欠片。 暗がりを見つめるその胸には、いつも紅い小さな花の群が息づいている。 瞼を閉じれば眼裏に鮮やかに浮かび上がる。つややかに、あでやかに、花弁が舞い香りが踊る。とうの昔に失われた娘の姿とともに。 それでも会いたいか。 たとえ一度きりだとしても。 惣之助は目を上げた。 かたん、と立った微かな音に、雷蔵は庭の紅暈から視線を外した。 背後に佇む惣之助の姿を見上げ、紡がれる言葉を静かに待つ。 「決めたよ」 惣之助は言った。 その目には、迷いながらも直向きな、確かな芯の光があった。 雷蔵はそれを受け、何も言わず、頷き返した。 「それではそういうことで……」 鶯茶の裾が動き、膝を立てて腰を上げた。それに合わせ、春季も立ち上がった。小豆麻の小袖が微かに衣鳴りを零す。 紗綾織の肩衣を纏う男の名は ここは葛城の屋敷である。春季は彼と密談を交すため訪れたのであり、時刻はすでに亥の刻を超えている。人目を忍ぶために大抵訪いは日が暮れてからが常である。あらかた話に折がついたので、そろそろ引き上げるかと腰を上げたのであった。 「ああ、仙台殿」 裏口へ向かう春季を、思い出したように葛城が呼びとめた。葛城は小ぶりの目に福々しい輪郭をしている。その目付役という職務には似合わぬ柔和な面立ちを春季に向け、にこやかに告げた。 「最近良い酒が手に入ったのです。よろしければお土産にお持ち帰り下され」 「いや、どうかお気遣いなく」 一瞬顔を輝かせかけた春季だが、一応ここは礼儀に則って辞退する。 「いえいえ、御遠慮なさらず。今持って来させますので」 是非にと言われては仕方がない。あまり固辞するのも失礼にあたる。春季はいっそ朗らかに笑って「それでは」と応じた。小姓が恭しく運んできた白磁の瓶子を葛城が手に取り、春季へと差しだす。白磁の質といい、瓶子の首に巻かれた紅い綾紐からしても、相当高級な酒だろうと察せられた。 「陸奥の米と水を使い醸造した特上の酒です。ご賞味下され」 「これは忝い」 「ただし源殿には御内密に。お分かりであろうが……」 「心得ておりますよ」 念を押す葛城に、春季は頷き返す。実治は春季たちの企みを知らない。今こうして密談を交しているなどとは露ほども思っていないだろう。だがどんな些細な所からそれが漏れるともしれない。なるべく自分たちの接触を悟られるような危険は避けるべきだった。 春季は快くそれを受け取ると、短く別れを告げて裏戸へと足を向けた。 外に出てからしばらく歩き、見えぬところに控えていた小者の所に至ると、馬に乗り夜闇に紛れるようにそっと源の屋敷まで戻った。 屋敷の勝手口から忍び込み、そのまま部屋へ戻ろうとしたところで、春季はふと立ち止まった。折角だからもらったばかりの酒を早速味わいたいが、一人部屋で寂しくというのは何とも味気ない。といって実治を誘うわけにもいかない。ひとしきり悩んだ後、思い立って酒を手にしたまま北に繋がる廊下へと向かった。 すると途中で佐藤と打ち当たった。春季を見るとびっくりした顔で目を瞬いたが、すぐに目礼をして通り過ぎようとしたので、折角だからと酒に誘った。かなり固く辞退しようとするのを半ば強引に引っ張り、目的地である北の間まで赴く。 庭には、梅香がくっきりと強く存在を形作っていた。 そして案の定、縁側には老爺と寄り添うように座る空蝉の姿がある。微かな琵琶の音色が闇夜に溶けていた。 「おこんばんは」 声掛けに二人は軽く振り向いた。春季と彼に腕を引き摺られている佐藤を見て、その眉が怪訝そうに顰められる。佐藤もまた何とも言えぬ顔をしていた。 一人気づかぬ男は、陽気な様で酒を掲げる。 「いい月夜だから、梅を見ながら酒でもと思って」 「……」 沈黙と視線をどう解釈したのか、春季は佐藤の肩を叩いた。 「いやさっきそこでバッタリ会ったからさ。人は多い方が楽しいし。ああ空蝉は覚えてないかな。まともに顔を合わせるのは初めてだろうから一応紹介しとくと、俺と同じでハルちゃんの配下の佐藤君だよ」 おや、そういえば下の名は何であったか?と思いながら、どうでもよいかと軽く流す。紹介された二人は片や無愛想、片や笑顔で「どうも」と交していた。 間に流れる微妙な空気感に気づかぬまま、一人楽しげな春季は部屋の外の廊下と、庭の離れた所にいる見回り兼見張り役(夜だけは置くことにしたのだ)も呼び、人数分の杯を持ってこさせる。 「噂に違わず凄い咲き乱れようだね」 春季は感心したように梅を見上げている。そういえばちゃんとこの北の間まできて見るのは初めてであった。いつも空蝉は西の一間にいるから、ここまで足を延ばすことはなかったのだ。 「一献どうだい」 杯を渡そうとする春季に、老爺は「年ですから」と断り、その孫娘も拒否しようとしたところを「特上の酒なんだよ」と強請られると、結局嘆息一つ零して応じた。断り続ければ面倒臭いことになると思ったのだろう。佐藤はこれまたむっつりと無言で受け取り、見張り役二人に至っては喜んで春季に礼を言っていた。 杯が渡ったところで春季が手ずから酌をする。それからなみなみと酒精が煌めく杯を掲げ、乾杯の音頭を取った。 「さあ、ささやかな月の宴とでもいこうじゃないか」 皆が順々に杯を運ぶ中、雷蔵もそっと口をつける。その刹那だった。 ハッと瞠目し、反射的に手に触れたものを投じていた。同時に叫ぶ。 「飲むな!」 |