人がいないことを確認してから降り立った室を出、庭に下りる。どうせだからブラリと散歩してから帰ろう。普段は日々歩きの旅を続けているから、こうしてすることもなく一所に留まっているのは正直身体が鈍ってしょうがない。本当は思い切り鍛錬でもしたいところだが、いくら忍びと知られているとはいえ、さすがにそれは憚られた。 ここはどの辺りだろうかと頭の中で屋敷地図を描きながら、台所を通りすぎる。昼餉が終わったばかりのためか、人はいない。ただ煮炊きした後の所帯じみた残り香が、油気のように漂っていた。裏手へ回ると井戸が目に入った。洗い物も終わったのか、やはり人の影はない。 シンとしている。雷蔵は井戸端に寄り、釣瓶を手繰って水を汲んだ。ひんやりした水気に誘われるように頭から被る。バシャッと潔い音がして、瞬時に肌が冷えた。別に水浴びがしたかったわけではないが、服についた屋根裏の埃や汚れを見咎められたくもない。それに、禊は心身を引き締め、思考を鮮明にしてくれる。 滴る水を鬘ごと絞り、腕で顔をぐいっと拭う。 「豪快だな」 そこへ通りかかったのは、着流し姿の源実治だった。丁度休日だった彼は、先ほどまで南庭で弓や刀の鍛錬をしており、いい汗をかいたのでひと水浴びようとしてやってきたところだった。 桶を傾ける直前に近づいてくる気配に気づいたのだが、水を浴びた一瞬のために反応が遅れた。身を遠ざける機を失った雷蔵は、すぐさま腹をくくった。別段疚しいことをしているわけでもなし、堂々としていればいい。 雷蔵は振り向き、今更のように驚いてみせた。 「おや、いつからそこに?」 「たった今だ。そこで何をしている」 「顔でも洗おうかと」 「お前は顔を洗うのに頭から水を被んのか」 「大は小を兼ねるとも言うでしょう?」 頓知めいた受け答えだ。使い方が間違っていないでもなかったが、実治は唇を歪めるだけに留めた。 庇の上から、雷蔵の姿をまじまじと観察している。髪から、重力で下がった水気がポタポタと垂れ、着物を濡らしていた。 「春季の野郎がてめえに随分とご執心だって話だが」 水に濡れてさえ欠片の色気もない餓鬼のどこがいいんだか、と不機嫌そうに顎を撫でる。 雷蔵はあえて肯定も否定もせず、意味深に微笑したまま瞳を伏せた。 「女、てめえ草の一味らしいな」 春季は雷蔵が忍びであったことは実治に話したらしい。だが刺客をすべて倒したことまでは言ってなさそうだった。あの日刺客に襲われたことは実治も知っているだろうが、春季も体面的にすべてを語れないだろう。 「道理で剣を突きつけられても逃げ出さなかったわけだ」 実治の喉から低い笑いがこぼれる。 雷蔵は水桶を井戸の縁にコトンと置いた。 「もう昔の話です」 「どうだかな」 いつの間に近づいたのか、大きながたいがすぐ側に立つ。 見上げた瞬間、喉を片手で捕まれた。そのままギリ、と締め上げられる。 「……っ」 軽く踵が浮く。 だが本気で窒息させるつもりではないのだろう。多少の力加減を感じる。喉にかかる手を両手で掴みながら、雷蔵は薄く瞼を開け、視線を受け止めた。 「てめぇ、春季に何か吹き込んでねぇだろうな」 冷徹な目が見下ろしていた。 「俺は春季と違って女だからって容赦はしねぇぜ」 弁明は喉とともに握りつぶされている。緩やかな酸素不足に頭がくらくらし始めた。しかし双眸だけは、静謐を保ったまま見返す。 そこに何を感じたか、実治は僅かに鼻の頭に皺を寄せたかと思うと、にわかに突き放すようにして手を離した。 雷蔵は勢いのまま後ろへとよろけ、座り込んだ。辛うじて井戸縁に縋り、喉に手を当てて咳き込む。頭がすぅと冷たくなったかと思うと、一瞬の後にはカッと熱くなった。血が巡りはじめてこめかみが脈打ち、ひゅうひゅうと喉が鳴る。急に解放されたせいで、吸い込む空気の量が上手く制御できない。 呼吸困難に陥りながらも、自分を見下ろす男へ向けて雷蔵は笑いかけた。力ない茫洋とした笑みだったが、相手を驚かすには十分な効果があったようだ。 「誰かに唆されて動くほど単純な男なのですか、あなたの乳弟殿は」 「……」 実治は数拍ほどおいてから、にやりと口角を上げてみせた。 「なるほど。確かに女にしちゃいい度胸をしている」 そりゃどうも、と答える声音は掠れた。女じゃないんだけどね、というのは声無き声だ。 実治はしゃがみ込んで、目線を合わせた。 「いい眼だ。色気はねぇが、戦いを知る眼だな。勿体ねぇ、もしてめえが男だったら俺が飼ってやったのによ」 「まあ源様、実はそういうご趣味で」 冗談めかしておどけてみせれば、すぐさま嫌そうに顔を歪ませる。その反応が佐介とあまりにそっくりで笑える。 「気色悪ぃ誤解すんな。手下に飼うっつってんだよ。女だと下僕にできねぇだろ。女は抱いて愛でてなんぼだからな」 ただしてめえみたいな未発達児は対象外だがな、と磊落に笑う。悪い性ではないが、やはり似た者乳兄弟だ。女の振りをしておいて良かったかもしれないと雷蔵は初めて心から思った。 |