「あれ」 春季が室を覗いた時、雷蔵は丁度龍弦琵琶の手入れをしていた。 その珍しい楽器に、春季が目を丸くする。琵琶が珍しいというより、一介の娘の持ち物として変わっていたためだ。 「へえ、弾くんだ」 歩み寄って傍に腰掛ける。雷蔵は一瞥も向けずに、ええまぁ、と気なく笑んだ。 龍弦琵琶は本来手入れ要らずの楽器なのだが、それでも時には弦の具合や木肌を検め、清めてやったりする。中でも一番重要なのは定期的に爪弾き、『歌わせて』やることだった。 ところが春季は更に別のところが気にかかって仕方ない。目線を彷徨わせながら、 「……えっとさぁ」 「何か?」 「いや、その」 あまりにも普通に返され、頬を掻きながら指摘する。 「ものすごく勇ましい姿だなぁと」 今現在の雷蔵の恰好はといえば、琵琶を安定させるために左膝を立て、右脚は半跏を組んでいる。とすると当然女物の着付けでは無理があるため、若干裾がからげられた状態になっていた。 当の本人はといえば、指摘されて始めて「ああ」と目を瞬いた。気づかなかったわけではないが、春季の様子からして一向に雷蔵の性別に気づきそうもないので、あえて女らしくしている必要もないかと自然体でいた結果だった。 「俺は構わないんだけどさ、やっぱ年頃の娘だから気をつけたほうが」 雷蔵は首を傾げ「ふむ」と呟いた。やや考えるようにしたあと、傍に置いていた琵琶の袋を手繰り寄せ、体勢はそのまま膝の上を覆う。 「これでいいでしょう」 と平然と言われれば春季も苦笑いするしかない。 「何か弾いてよ」 「別にいいですけど」 「え、本当に?」 何か企んでる?と顔を覗きこまれ、雷蔵は曖昧に目を細めた。 「はじめから弾くつもりだったんですよ。長い間弾いてやらないと臍を曲げるんでね」 「臍を曲げる? 楽器が?」 素頓狂な声を上げる春季に雷蔵は「ええ」とまた素っ気なく言う。 全身を清め、弦の調子を確かめると、摘みを固定している器具を外し、調弦の音階を変える。ほんの数回弾くだけで手早く音を合わせ、器具を填め直す。それから撥を手に取った。白く滑らかな材質は象牙に似ているが、実際は違うものらしい。龍の骨だという話だが、嘘か本当かは分からない。 龍弦琵琶の曲奏では弓と撥一体となったものを使うが、撥部分と弓部分は取り外すこともでき、これもまたその時の用途によって使い分ける。今回は弓は必要ないので、撥だけを使う。 数回掻き鳴らすようにしてから手を止め、瞑目する。呼吸を数えながら繰り返す。春季は大人しく様子を見つめている。何となく邪魔できぬ空気がそこにあった。 深くゆっくりとしたひと息ごとに、下へ下へと、深淵に向かって意識が沈み込む。すべての雑音が消え、心は静かな湖面のように凪いでいた。意識が外界と内なる世界の狭間に佇む。肌を通じて外の意識を保ちながら、身の内に異界の気配を深く取り込んでいく。 裡奥深くに湛えられた湖面に、雫が落ちた。 一重二重に波紋が広がる。 意識か無意識か、撥を持つ手が上がる。 嫋と掻き鳴った弦に、春季は心臓を強く鷲掴まれるような錯覚を味わった。 ふつち ふつち いとふつき 忘れ路の 空ろの旅路に置きゆつは 其の其を以て 吾の吾と為さむや 夫れ 陰にか陽にか 其れいづこに忘れ給うか 汝いずれに置きゆち給うか 其は吾ぞ 吾は 闇は海にあり 光は山にあり 道は此にあり 其に始まり彼に続く あみぬ あみぬ たまくみぬ 終わり始まり 春季は不思議な心地で、じっと耳を傾けていた。 これまで聞いたこともない古い言の葉で綴られ、知らぬ旋律で紡がれる唄。聴けば聴くほど更に音に惹かれ、聴き入ってしまう。嫋々と響く調子一つ一つが、鼓膜だけでなく脳髄を、心の臓をも震わせる。 忘れてしまった何かを、思い出させるのような。 あるいは見失った己に立ち返らせるような。 歌が怒りを溶かし、哀しみを和らげる。胸を締め付ける感慨を、歯を噛み締めることで堪えた。 短いとも長いともつかぬ歌が終わると、春季は詰めていた息をホッと吐き出した。未だ余韻が残っているのか、頭がどこか茫洋としている。 「……変わった歌だね。何ていうの?」 「名前はありません。ただ『編み解き』と呼ばれているだけです」 「あみとき? どこの歌?」 「さあ」 「さあ、って」 「どこから来たのか、誰が作ったのか、誰も知らないものですから」 雷蔵は弦を手遊びながら、目を伏せる。 「もしかすると、今は亡き古い民の歌かもしれないですね」 「え―――?」 「この歌は」 遮るようにして言葉がつむがれる。春季は有無なく口を噤んだ。 「忘れ去ってしまったものを呼び起こす時に歌われるのだそうです」 「忘れ去ってしまったもの」 「そう。あるいは心深くに沈む思いを解き解すのに」 「……」 誰に聞かせるともなく、雷蔵は語る。畳の上に暖かな日が差している。だが斜め半分を境にして、こちらには陰が落ち、ひんやりと涼しい。 「記憶を辿り、想いを手繰り、魂に絡まった絲を解き編み直す。だから『編み解き』と言うのだと」 春季は懐に手をやる。魂と言われたからだろうか、無意識の動作だった。 『編み解き』は根本的な問題解決へ導くわけではないが、ほんの少し背中を押したり、士気を奮い立たせたり、力を貸したりする。晴れの舞台で固くなっている者に、耳元で「ふつちふつちたまふつち あみぬあみぬいとくみぬ」と唱えるだけで、緊張を解きほぐす効果がある。 そのからくりについてまでは、雷蔵は口にはしない。代わりに悪戯めいた光を瞳に浮かべた。 「なんてね。迷信ですよ」 「あ、そうなの」 がく、と春季は肩を落とした。何やら秘儀めいた話であったから、うっかり信じかけてしまった。 けれど、気を取り直して姿勢を伸ばした時に、ふと肩が軽いような気がした。 「空蝉ってつくづく不思議だねぇ」 足を組み替え、片膝に頬杖をついてため息混じりに言う。 「何か想像してたのと違うカンジ。さばさばしてるっていうか。第一印象はもっとこう―――」 「言わなくていいです。興味ないので」 「これだもんなぁ」 つれない、としみじみと嘆息する。 「まあ、貴方は第一印象通りですけどね」 「え、どんなどんな?」 目を輝かせ、興味津々の態で乗り出してくる相手に向け、雷蔵の面にことさらにこやかな笑顔が浮かぶ。 「ふわふわ綿菓子」 思わぬ単語に、春季はきょとんとする。その意味を図りかねて眉をひそめた。 「それってどういうこと?」 「頭の軽い色ボケ放蕩息子って意味ですよ」 春季の口端がピキリと音を立てて固まる。 「……ほんっと、見かけによらず容赦ないよねー」 「それはそれはどうも」 にこにこと言われ、「別に褒めてないんだけど」と笑顔を引き攣らせる。両手をついたまま、半眼でじりじりと膝を進めた。 「でも、口には気をつけるべきだよ。でないと」 言うなり、いきなりその両肩を強く押した。仰向けに倒れて、畳に背中を打つ。手から落ちた楽器がごろりと畳の上を転がった。 覆いかぶさるようになった身体が影になっている。しかし春季の双眸は、雷蔵を見てはいない。そして雷蔵の視線もまた、たった今、春季の背上を掠めていった暗器に向けられていた。 春季は肩越しに背後を覗いながら、皮肉げに唇を歪めた。 「挑発してると勘違いされて、襲われちゃったりするよ」 こんな風にね、と身を起こして振り返る。 いつの間にか、庭から廊下、天井、室の隅に、黒装束の者達が首を揃えていた。 |