25.夢路終わりて人目覚め



 地上に戻ってきたころには、すっかり騒ぎは収まっていた。影梟衆がうまく立ち回ってくれたらしい。
 なびきも大分落ち着いたようで、少しだが平静を取り戻していた。
 この騒動で出た怪我人はほとんどおらず、唯一行尊が重傷で運ばれたくらいだった。それも今は手当てを受けている。運がいいことに、彼は重要な筋は無事で、命に別状もなかった。とはいえ傷自体は深いので、しばらく寝たきり生活を余儀なくされるだろう。
 なびき自身にも大きな怪我はなかったが、ただ一つ、左の掌に負った火傷が酷かった。美吉の目を塞ごうとして得た傷だ。それは今、真白の清潔な木綿に隠されている。

「ごめんね」

 戻ってきた時、なびきの左手を診て、雷蔵はそう謝った。
 謝る必要は無いのに。むしろ謝らなくてはいけないのは、こちらの方なのに。泣きそうな思いが駆け巡るも、どうしてだか言葉にできず、なびきは何も返せなかった。
 それをどうとったのか、雷蔵は静かに笑み、手当てをした。火傷によく効くという薬を塗り、薬草を上から当てて、手際よく包帯を巻く。処置される間、なびきは盛大に鳴る心音を隠すので一杯一杯で、やはり黙りこくったままじっとしていた。「火傷跡に塗るといい」と軟膏を渡された時ですら、憮然と受け取るしかなかった。傍から見れば至極無愛想な態度であっただろう。どうしても可愛らしく振舞えない自分に自己嫌悪の波が襲いかかり、なびきは憂鬱気に溜息をつくしかなかった。
 雷蔵自身も、左掌に火傷を負っている。こちらはなびきよりもずっと重く、皮は剥がれ落ち、血は焦げ付いて、中の肉が半分以上露わになっていたのを、半ば脅しつけるようにして美吉に治療させていたが。今は包帯が巻かれており、雷蔵も平然としているが、手の平以外にも酷い傷を負っているのを知っているだけに、なびきの胸の痛みは絶えなかった。
 そんな少女の心痛を余所に、雷蔵と美吉は、放置された〈神血〉の源泉だった台座に歩み寄る。
 呪具を失ったそこは、ただ酒に濡れているだけで、再び沸き出てくることは無かった。しかし美吉がおもむろに懐から小さな朱塗りの盃を取り出し、〈秘伝〉があった中心部におくと、たちまち盃から輝く酒精が溢れ、床に零れ落ち始めた。
 雷蔵は盃を取り上げ、溜まった液を舐めてみる。ちなみに妖刀は今は鞘に再び収められ、雷蔵によって重ねて封印が施されている。

「どうだ?」

 肩越しに覗き込み、興味深そうに感想を聞いてくる美吉へ、「呑んでみてごらん」と盃を差し出す。美吉は手に取らず、舌を伸ばして舐めてみた。ものぐさもここまで来ると感心だ。

「味は美味いが……んー、これはなんつーか」
惑薬(まどいぐすり)の一種だ」
「惑薬?」

 なびきが不思議そうに聞いてくる。

「妄薬、幻惑薬、夢遊薬……呼び方は様々だけど、どれも幻覚作用を引き起こす薬のことだよ」

 雷蔵が噛み砕いて説明し始める。

「自然界に、香りを嗅ぐだけで気持ちよくなったり、あるいは現のような夢を見たり、にわかに気力が漲ったりさせる植物がある。それと知らず、山中に入った人がその香りを嗅いで、ありえないものを見たりすることがままあるらしい」
「山男に会った~だとか、桃源郷に行った~だとかな。どういった仕組みかは知らんが、どうも生き物の脳に作用するらしい」

 美吉があとを引き継ぐ。美吉は長年ずっとこれを追っていた。唐土の神医が発明した『麻沸散』も、元はこの類の草が原料だった言われる。美吉はこれが、鍼による痛覚麻痺と双頭をなし、いずれ医術に欠かせないものになると確信していた。

「飲んでみた限りでは、この酒もそういう薬草と同じ類だ。これで夢の世界でも見たり、痛みが和らいで怪我や病が治ったと思い込んだ人々が、神の酒だと信じたんだろうね」

 ただし、草であれば自然に生えているだけだが、この酒は違う。呪具をもって始めて現れ、しかも尽きることが無い摩訶不思議な現象は、自然のものというよりは、まさに神の悪戯というしかない。

「で、どうする?」
「壊そう」

 雷蔵は酒を見つめたまま、一も二も無く返した。残しておくと災いの元となるだろう。再び早人のように利用する人間や、あるいは争いあう人間が出てこないとも限らない。そしてもし惑薬と同じであれば、飲用し続ければいずれ廃人と化す。

「見たところ、龍穴の上にあるから妙な通力を孕んでいるんだ。なら龍穴自体を壊して龍脈を断ってしまえば、二度と湧き出ることはない」

 なるほど、と美吉は顎を撫でた。少々勿体無いような気もするが、とは胸の内にしまっておく。あれば碌なことにならないのは、美吉とて分かっているからだ。

「じゃ、俺が一発」

 言うなり、どこからともなく鍼を取り出し、台座の近くに片膝をついた。
 左目に視点を移し、無言でじっと探る。やがてある拠点を見つけ、狙い定めてそこへ鍼を打った。
 ズンと重い力がかかり、地面が沈んだ―――ような気がした。

「これにて終了っと」

 雷蔵がもう一度盃を置いてみても、前言通り、二度と酒が沸くことはなかった。
 なびきには理解できないようなことばかりで、それこそ酒に見せられた幻覚と言われた方がまだ信じられるような気がするが、すべて紛れもなく目の前で現として起こっていることだった。夢と片付け、現実から逃避するのは簡単だが、それではかの信者たちと同じ。ここであったこと、自分が見たこと、すべてをあるがままに受け入れようと、雷蔵と美吉が戻ってくるまでの間にそう決心していた。
 不意に後ろから聞えた足音に、三人は振り返った。

「やぁ、大将」

 暗中から現れた人物へ、雷蔵は気安い仕草で声をかける。憮然とそっぽを向く不知火を伴い、虎一太は苦笑ともつかぬ曖昧な淡笑を湛えて応じた。朧月を背にする彼は、その異名に相まった、掴み所のない雰囲気に戻っている。

「こちらはほとんど片付いた。明日には問注所の地侍連中が引き立てにくるだろう」

 隠し鉱山に無数の武器鋳造の罪は重い。屋敷のどこかにいたであろう横溝も、謀反人として捕らえられるだろう。死罪は免れまい。

「地下の連中は?」
「牢に囚われていた者たちは解放した。製造に携わっていた者たちも、幹部以外の信者たちともども適当に放逐しておいた。記憶を隠蔽しても良かったが、そうすると横溝や四ツ輪のやっていたことを証言する人間がいなくなるからな。あとはお上が勝手にやってくれる」

 催眠による記憶隠蔽は虎一太の得意技の一つである。これも影梟衆棟梁に口伝で受け継がれる秘技だった。人の命を奪う代わりに記憶を奪うことが、これまで依頼を成功させてきた秘訣でもある。
 この短時間にそこまでやってのけた虎一太の手腕はさすがというものだ。雷蔵は頷き返す。

「手間をかけるね」
「いや」

 今回作業にかかわった民や神職者たちがどれだけの罪に問われるかは分からないが、大多数は騙されて働かされていただけだ。さすがに大江氏も、そのあたりにはある程度手心を加えるだろう。

「怪我の具合は?」

 茫洋と訊かれ、雷蔵は傷口に手を当てた。

「応急処置だけど、大丈夫だろう。一応ここにいる名医がやってくれたからね」

 名医と名指しされ、美吉が「嫌味な奴だな」と顔を顰めた。

「さほど深い傷でもなし、すぐに塞がると思う」
「悪かったな。手加減できなかった」

 あまり申し訳なさそうに聞こえないのは、ぼんやりとした口ぶりのせいか、それとも軽い笑みを含む声のせいか。

「つい楽しくなってしまってな」
「おあいこだよ」

 途中から雷蔵も本気になっていた。寸止めできたからいいものの、下手をすると血みどろの闘いになっていただろう。

「へ、負け惜しみ言うんじゃねぇよ。あのまま闘ってたら、御頭が絶対勝ってた」

 それまで不機嫌満面に押し黙っていた不知火が、不意に唾を吐き捨てる。端々に憎しみが感じられるところを見れば、未だに雷蔵に対する彼の怨念は和らいでいないらしい。虎一太に言われているから今は我慢している―――そういう態度だった。
 不知火、と虎一太が苦い声音で嗜める。

「だってそうだろ。そいつは結局御頭に捻じ伏せられたじゃないか」
「そうじゃない、あれはあくまで作戦だ」
「え」
「不知火。お前は先に里へ戻って、留守を守る者たちに事の次第を伝えろ」
「御頭!」
「ついでに俺たちが帰るまで、山巡りの行を一通りをやっていろ」

 ゲッと明らかに青ざめる不知火に対し、虎一太は有無を言わさぬ調子で追い討ちをかける。

「命令だ」
「……承知」

 茫洋とした声音の中の本気を聞き取り、渋々承諾する。この世でこの暴れ者をこうも簡単に手懐けられるのは虎一太くらいかもしれない、と雷蔵は感心した。
 最後に雷蔵へと殺気立ったひと睨みをくれてから、不知火は走り去っていく。
 見るともなしにそれを見送り、美吉はハタと我に返った。

「ちょっと待て、作戦って事はお前ら最初から」
「うん」
「薬叉に合わせてもらっていた」

 二人同時にすんなり肯定され、美吉が仰け反る。
 つまり、あの闘いも実は裏で示し合わされていたのか。

「いつ!?」
「対峙した時にだよ」
「そんな素振り―――

 言いかけて、美吉はハッとした。心当たりがある。まさか。
 雷蔵が頷いた。そう、忍び言葉である。
 かつて影梟衆が京里忍城と手を組んだ時、双方で無言の指示を決め合っていた。敵と交戦中に、相手に悟られずに作戦を伝え合うためだ。
 雷蔵が虎一太と対した時、虎一太は口では関係の無いことを語りながら、さりげない仕草で忍び言葉を送った。『自分に考えがある、少し任せて欲しい』と。
 これに対し雷蔵は『承知』と返した。騙しかも知れぬという危険性もあったが、雷蔵は虎一太の人柄に賭けてみることにした。騙しではないと確信したのは、四肢の神経を麻痺させるフリをして、その実拘束する手に全く力が入っていなかった時である。だからすぐに動けたし、美吉の〈秘伝〉の結界を解く好機も得られた。

「あんたらそれでいいのかよ?」

 思い出したように美吉が横合いから口を挟む。何が?と虎一太は目を瞬いた。

「依頼人だったんだろ。裏切っちゃまずいんじゃないのか?」

 影梟衆はいまだかつて任務で失敗したことは無い。これでは折角の誉れに汚名がつくのではないか。

「先に約定を破ったのはあちらだからな」

 虎一太が不敵に笑う。民間人を殺めない。これが影梟衆が早人に掲げた条件であった。約定を破った以上、依頼からは手を引く。それが影梟衆のやり方だった。
 それに、雷蔵に語った「〈秘伝〉を関わらせない方がいい」という言葉が偽りではなかったこともある。
 かなり強かな神経をしている棟梁に、美吉は感心してしまった。これが上に立つ者の貫禄というものか。

「まぁいいや。これで〈秘伝〉も戻ったことだし、大江のお殿様に見つかる前に俺たちはさっさと退散するよ」

 また菓子など恵まれて頭を撫でられでもしたら堪ったものではない。雷蔵は東の山並みに見え始めた薄明かりを遠望する。
 すべて終わった。あとは自分たちの手出しする範疇ではない。
 時が到ったことを悟り、虎一太も笑った。

「一つ、後学のために聞きたいんだが、いいか?」

 雷蔵は自分よりも長身の頭を見上げた。

「何故、あの時〈陽炎〉を見切れた?」

 あの、というのは、〈秘伝〉を前に戦闘した時のことだろう。
 確かに、それまで本当に躱すのもギリギリのところで、危うげでさえあった雷蔵が、あの一瞬で正確に虎一太の動きを見切り、紙一重で避けてみせた。
 虎一太の〈陽炎〉は、視覚を封じ気配を読むという手では、決して破れない。それがどうしていきなり破られたのか。
 少し逡巡した後、雷蔵は悪戯気に口角を上げてみせた。

「内緒」

 虎一太は虚を突かれたかの如く、丸くした目を瞬いた。
 万が一再び闘うことがあっても大丈夫なように、手の内は明かさない。
 雷蔵の意図を察して、若き棟梁は苦笑を禁じえない。

「これは一本とられたな」

 いささか残念そうに零し、では、と別れの挨拶代わりに法衣の肩を叩いてその脇を通り抜ける。
 だがすれ違いざまに、ふと小さな声音で―――それこそ、空気のみで、囁く。

「美吉と言ったか。あの男」

 なびきと何やら会話を交わしている美吉をチラリと一瞥し、続けた。

「危ういぞ」
「分かってる」

 確とした答えに、ならいい、と虎一太はもう一度ポンと肩を叩いた。
 離れ行く後姿を見送ることなく、雷蔵は物思いに耽るように、何もない宙を見つめていた。
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