23.火を裂き魂鎮む言の風 「な……んだ、それは」 絞りだすような声が、美吉の喉から発せられた。 それを一目にした瞬間、脳幹の奥に靄が掛かった。 早人が鞘から抜いた刀。その輝きに視線が張り付いて剥がれない。 鉄が明かりを反射して閃く。四肢が硬直する。法衣の下はすでに汗でびっしょりだった。体表は寒さを訴えるのに、体内の底深くで、赤い熱泥がとぐろを巻いている。 喉が何度も鳴った。 いきなり様子が急変した美吉に、不知火も眉を顰める。 しかし美吉にとってはそれどころではなかった。瞳に焼きつく像を愕然と見続ける。 「その黒い刃は何だ……!」 恐ろしい。ひどく不吉。あれはとてもよくないものだ。 美吉の言動が理解できず、不知火はますます奇妙に感じた。こいつは何をこんなに怯えているんだ、と、訝りをその表情が如実に語っている。 美吉が黒いと表現した早人の刀を見ても、不知火には普通の鋼の色にしか見えない。少々気色悪い気配を放っているという程度で。 「ほう、これが分かるか」 面白そうに、早人は首を傾けた。雷蔵の項に当てていた刀を離し、これ見よがしに掲げて見せる。 美吉の呼吸がどんどん浅く、早くなっていく。あの光に感じる恐怖。目をそらせない。瞬きすらできない。見てはいけないと思うのに、左の眼が、意に反して凝視し続ける。 「これは数えて七人の人間の、呪いの魂で出来ておる」 「てめえ……天目一箇を血で穢したな!?」 その悲鳴に近い叫びに、早人はさすがに驚いたように美吉を見た。 「……主、何者だ?」 真黒に染まる刀。そこにまとわりつく怨嗟と悲嘆の声に、美吉は頭がおかしくなりそうだった。あまりに強く昏い負の思念が、泥の如く刃に絡み、こちらにまで腕を伸ばしてきそうで、息苦しい。どれだけ唾を飲んでも、口内が乾いて粘つき、上手くいかない。 鞘は封印だったのだ。それが放たれた途端、身の毛もよだつおぞましい気配が溢れ出した。 「まあよい。特別に教えてやろう。これは、七人の血をもって焼き入れした刀だ。美しいであろう? この妖しくも見事な輝き……見ているだけで、持つ者の魂を奪う光だ。村正にも劣らぬ狂刀となるであろう」 うっとりと、どこか恍惚然とした表情で、早人は詠うように言った。 離れた場所で、行尊は釈然としない顔をして教祖を見つめている。 「ただ血を使うといっても、一思いに殺してはこれほどまではいかぬ。少しずつ少しずつ切り刻むのだよ。苦しみに苦しみを与え続け、泣き叫びのたうち回って、ついに狂った時に、ようやく首を刎ねる。すると、最も強い念が出来上がる。最高の呪鎖だな」 外道、となびきが小さく吐き捨てた。 「これを一度手にすれば、どんな剛の者でも気に狂い、殺戮に走ろう」 「そんなもの、何のために使う」 拘束された体勢のまま、雷蔵が低く問う。およそ四ツ輪衆の復興には何の関係ないようにも思える、呪の刀。 「もしこれが、たとえば―――今覇を唱えている大名たちに献上すればどうなるか、と思って作らせたのだ。……〈秘伝〉があればこれも無用の長物かもしれぬがな」 皮肉気にくっ、と喉を震わす男に、雷蔵は更に鋭く問いを重ねる。 「一宗教の教祖にしては、物騒で大それた発想だね」 「儂にも欲はある。四ツ輪は正確には儂の父が始めたものだが、儂は一介の教祖で終わりたいとは思わぬでな。男として生まれた以上、高みを目指したいと思って当然であろう?」 「そんなもののために……」 果てしない軽蔑を込めてなびきは呟いた。この男の趣味の悪さに、吐き気と嫌悪感がする。 ふ、と早人は笑んだ。 「娘……なびき、とか申したな。主の父も、これの完成に一役買ってくれた。実に尊い犠牲であったことよ」 瞬間、なびきの両眼が剥き開かれた。言葉を失う。 苦しみ苦しみぬいて―――殺された? まさか、自分の父が七人のうちの一人だと。 あの、誰よりも優しかった父が。 凄烈な憎しみが全身を駆け巡り、血が沸き立つ。眼差しで射殺さんばかりの眼光で、なびきが吼えた。 「この下郎がァ! よくも、よくもっ……!!」 殺意を剥きだしに暴れるも、すかさず地面に押さえつけられる。しかし膨れ上がった憎悪の感情は止まらない。 その頂点に達した憤怒が、刀の妖気を助長する。 煽られ、いや増す負の念に、ドクリと一つ心臓が脈打ち、美吉は喉を詰まらせる。 駄目だ、と声に出さずに呟いた。駄目だ駄目だ、このままでは。 忙しない呼吸音だけが、鼓膜に響き、脳裏を支配した。汗が伝って睫から滴っても、瞼は動かなかった。急激に起こる立ちくらみのように、目が回り、視界が覚束ず、意識が朦朧として、なのに身体は緊張する。 意識の奥からせりあがってくる別のもの。普段は奥底に眠っているもの。滾る熱そのものであり、しかし確実な意思を持ったそれ。 〈秘伝〉がない。抑制できない。左眼が熱い。あつい―――……!! 刀のそれとは別に、急速に空間へ広がり始めたもう一つの気配に、雷蔵が焦った。珍しく焦燥を露にする。 「美吉!」 相変わらず頭を押さえ込まれた苦しい状態で、大声を放った。相棒の姿は見えないが、気配でどうなっているかは分かる。 「美吉、落ち着け!」 その場に居る者が訝しげにこちらを見るのが分かったが、構わなかった。事態は思わぬ方に転がりそうになっている。このままでは計画が狂ってしまう。 だが名を呼べども、慣れた気が元に戻る兆しは一向にない。それどころか、ざわざわとした胸騒ぎが激しさを増すだけだった。 あの馬鹿、と心で毒吐く。 「さて、世間話は終わりだ」 異様な雰囲気を察しながらも、早人にはその正体が分かっていないようだった。 ともかく当初の目的をまず完遂しなければ。これさえ終えれば、あとは思うが侭。そういう口ぶりで、雷蔵に向き直る。 「この刀の初斬りに相応しい獲物だろう。継承者の血をもって、最高の妖刀の完成だ。天の時を生む〈秘伝〉と人の和を生む〈神血〉、そして人の和を狂わす刀。これさえ揃えば、儂の向かうところに敵はない」 側に立った早人に、虎一太は黙って、一度だけ視線を動かした。「動かぬように抑えておれよ」そう言い、早人は刀を両手で握り、振り上げる。 「やめろ外道! やめろぉお―――!!」 喉を嗄らさんばかりのなびきの叫びが響き渡る。 その横で、美吉の双眸から、光が失われていく。 一気に収縮した空気に、ついに雷蔵は意を決して腹に力を込めた。 「龍!!」 声が張り上がった瞬間、振り下ろされる刃よりも早く、〈神御坐〉の壁が大音響を放って破裂する。 散らばる破片や瓦礫とともに入り込んできたのは、風だけではない。 長い鱗を持つ生き物―――まさに伝説上の龍の形をしたそれが、有無を言わさぬ勢いで、塵煙を裂いて現れる。 「ウワア!!」 「何だ、妖怪が!?」 流石の忍びたちも、泡を食った。彼らは外を荒らしまわっていたものの正体を見ていなかったのだ。 にわかに混乱をきたす大広間で、龍の姿をしたものが真っ直ぐ中央を目指す。あまりの突飛な出来事に、早人は咄嗟には反応できなかった。 龍の鼻先が早人の身体を吹っ飛ばしたかと思えば、そのまま対面の壁へ直撃して穴を開け、再び表へ出て行く。 嵐のような強風が吹き荒れ続ける。 緊縛の解けた雷蔵は、逸早く台座の〈秘伝〉を奪い取ると、広げたままで身を反転させた。突然の騒動に思考が追いついていない不知火と、彼に後ろから抱えられるようにして自失している美吉を視界に入れる。 「退け、不知火!!」 「んなっ!?」 一瞬にして肉薄され、不知火が口を開ける。構わず雷蔵は勢いを殺さず、不知火だけ狙って足蹴りを入れた。慣性のなすがままに、二人して飛ぶ。 「美吉の左目を塞ぐんだ!」 轟音を放つ風に負けぬ大声で、雷蔵は不知火を膝で踏みつけた状態で身体を上げ、美吉の近くにいるなびきへと叫んだ。訳が分からず戸惑うなびきに「急いで」と強く繰り返す。 なびきは慌てて、ぼんやりと虚ろに宙を見たまま、瞠られた美吉の両目の、左を掌で覆った。 「痛っ!」 だが触った瞬間、音が弾けた。 あまりの激痛に手を離してしまう。見れば掌が赤く焼け爛れていた。 恐ろしいものを見る目つきで、なびきが美吉を見つめる。それから救いを求めるように雷蔵を振り返った。 「すごい熱で……!」 遅かったか、と小さく吐き捨て、雷蔵は地を蹴ろうとした。 しかし、寸前で足首をつかまれる。見れば、不知火が痛みに唇を歪ませながら、しっかと捕らえていた。 「てめえ、逃がすかよコラ……」 ところが、言い終えぬうちに不知火の手が弾かれる。自由が利く足の方で、雷蔵が蹴りつけたのだ。 なおも追いすがろうとする不知火は、今度は後ろから現れた虎一太に襟首をつかまれ、問答無用で引き離された。文句を言おうとする不知火を制し、雷蔵に頷く。 「行け」 「恩に着る」 一言言い残すのと、駆け出すのは同時だった。 疾走しながら、恐怖に強張るなびきへ「離れて」と指示し、勢いをつけて美吉の頬を思い切り張り飛ばした。正気に戻すには、拳よりも平手の方が効くのだ。 美吉の身体が吹っ飛び壁にぶつかる。 そのまま壁に押しつけ、雷蔵は美吉の左目へ強く左手を押し当てた。熱油に触れたような痛みが走り、皮膚と肉が嫌な音を立てる。だが気にしてなどられない。 「この身は誰のものだ?」 「………」 押し殺した声で強く問う。美吉の唇が僅かに動いたように見えたが、確かな反応は無い。 「下がれ下がれ、 念じるように目を閉じ、素早く、鋭く囁く。そして瞼を上げた。 「汝が名を取り戻せ―――『美吉』!」 名に言霊を乗せる。奪い取った〈秘伝〉を、その懐に押し付ける。 そのまま膠着して待つことしばらく。見開かれたままだった美吉の右の瞳に徐々に光が戻る。数拍置き、何度か瞬いた。 「……あれ?」 「『あれ?』じゃない」 「グフッ!!」 すかさず鉄拳が懐に入り、美吉はこの世の終わりみたいな顔で蹲った。 「全く……」 「わ、悪い」 懐中へ戻ってきた馴染みの感覚を確かめながら、美吉は情けなさと申し訳なさで頭が上がらなかった。自己嫌悪でまともに顔をあわせられない。 「……面目ない」 「終わったことはいい。それよりも終わっていない事の方だ」 未だに止まない強風で、広間の明かりはすっかり消えてしまっている。 暗がりの中に、雷蔵はある姿を探して首を巡らした。 |