3.暗闇から聞こえる笑い声 まるで丹を塗ったような 完全に萎縮し叩頭する男を見下ろす。男を映すその瞳は黒曜石のごとく美しく煌きながらも、芯まで凍りつく冷淡な色を湛えていた。 震えるその背中へ、優しく語りかける。 「ようやった。褒めてつかわす」 男の肩甲骨のあたりが面白いくらい跳ね上がる。 「へぇ、あ……ありがとうございます」 頭を床に擦り付けたまま、男は震える声で答えた。恐怖のあまり、前に立つ女を直視できない。たしか、彼女の不興を買ったと言う者たちはことごとく無惨な姿で発見された。 女はころころと鈴を転がすように笑った。 「そんなに震えぬでもよいのだえ? そなたは妾の命令を守り、忠実にそれをこなしただけ。何も取って食いはせぬ」 「め、滅相も!」 萎縮して平伏す男の背後には、縄を打たれ床に転がされる雲水の衣が見える。 いい歳をした男が情けのない、でかい図体は見掛け倒しか、と女は侮蔑の目を男に向けた。それからその背後のものへ視線を移し、切れ長の双眸をうっそりと細めた。 「まあよい。お前は実にいい獲物を連れてきてくれた」 「は、はぁ……」 「今までの役立たずな若人よりは数十倍上等の、な」 漆を流したかのように黒くぬめる長い髪が、対照的に真白な衣の上を滑り落ちる。それだけで絹の音色でも聞こえてきそうだ。それほどまでに女は禍々しくも美しかった。 「では約束どおり、一つだけお前の望みを叶えてやろう」 その言葉に、男はガバッと勢いよく顔を上げた。 「で、では、俺の妻をどうか治してください!」 「お前の妻、とな?」 「はい、もうずっと寝たきりなのです。病の名も分からず、このままではどんどん弱っていくばかり……御子様のお力でなんとかしてやってくだせぇ! この通りでございます!」 あい分かった、と女の唇が言った。 「明晩にでも、ここへ連れてくるが良い」 男の顔に安堵と歓喜が広がる。 「ありがとうございます!!」 再び深く叩頭して、男は辞した。去り際に一瞬だけ法師の方を見たが、無理矢理顔を背けるようにして離れていった。 しばらく誰もいなくなった間で、女はじっと座っていた。暗い室内、女の右横に灯された燭台の周りだけほんのり浮かび上がり、あとは闇の中だった。板張りの床の上に畳一枚が敷かれ、その上に女は座している。 「このところ妙な噂のおかげでなかなか旅人が寄らなんだ上に、このあたりの集落の若者はことごとく獲り尽くしてしもうたからの……そろそろここも潮時かと思うていたが、直前でこんな上物が飛び込んでくるとは、運がいい」 ひっそりとそう呟く。 「それも、若いだけでなくかなりの『力』も持っているようだしね」 女はスッと立ち上がり、流れるような動作で倒れている法師のところへと近づく。そのたびにサラサラと衣擦れの音が響いた。 女は横に片膝をつき、白い指先を伸ばす。 と、その手首が逆に捕われた。 「なるほど、君が噂の御子様か」 「!?」 女の瞳に驚愕が走る。先ほどまで湛えていた余裕が、一瞬にして掻き消えた。 掴み返してきたのは、己の下で倒れ伏している者。 「お前……お前、目覚めていたのか」 美しかった女の顔が見る間に歪んでゆく。雷蔵は首だけ巡らして、朗らかに笑った。 「残念。目覚めたのではなく、意識を失っていなかったんだ」 縄はとっくに外れていた。縄抜けの術は基本中の基本、すなわち十八番である。 女は目をぎらつかせながら可笑しそうに唇を吊り上げる。 「おや、面白いことを言う。なかなか可愛い坊やだこと」 「これでも一応二十も半ばは超えているんだけどね」 再び女は瞠目する。それから楽しそうにころころ笑った。しかし二人の狭い間合いには、相変わらず緊迫した気が流れている。 「後ろから首を打ったと聞いたけれど、随分頑丈だこと」 「昔取った杵柄というやつでね」 ふっと女が妖艶に笑んで、捕まれていた腕を凄まじい強さで振り放す。どこからそんな力が出るのか、思わず雷蔵は手を放した。さっと女が身を引いて間を取る。なかなかの身のこなしだった。 むくりと起き上がって雷蔵は項の当たりを擦った。 「あの男、仕損じたね」 「悪いけど、簡単に背後を許すほど衰えちゃいないもんで」 言いながら、衣紋から腕の太さほどの細い丸太を取り出す。 ハッと女の目が細まった。 「空蝉の術かえ―――お前、何者だい」 数拍考え、それからゆっくり雷蔵は言った。 「ただの旅の法師だよ」 |