揺れ動く心に随い赤味を増す瞳を見た時、彼は悟った。
 その中に息づく者がいる。
 そして膨れ上がった感情が爆発した時、それは現われた。
 持ち主の身体を奪って。

「『成り損ない』か。珍しい」

 それはうっそりと一つ目を細めて言った。
 『成り損ない』。
 その呼び名を口にする者はなく、本人さえもほとんど忘れかけていたことだった。

「目覚めてすぐに審神者がいるとは、いつになくお誂え向きなことだ。―――さあ、名問いを」

 名問いは依坐に降りた神や、時に妖に名を問い、答えを受けてその正体を見定める儀。降りた神は真名を呼ばれなければ人世にその存在を認められず、形を維持できない。審神者にしかできぬ役目だ。
 呼吸するのさえ苦しいほどの神威に晒されながら、けれども彼は応じなかった。

「断ると言ったら?」

 赤い眼が剣呑に光る。

「名問いはしない。疾くあるべき所に戻るがいい」

 一帯を圧倒する荒ぶる神力がいや増した。
 彼は後ろの樹に手を添えて身体を支え、真っ向から対峙する。どれだけ威されようとも瞳に揺らぎはない。

「生意気な。人間風情が逆らうか」
「皮肉なことにその人間風情に頼らねば君らは存在を保っていられないんだけどね」
「図に乗るなよ審神者」

 神の腕がある意図を持って伸びた時だった。不意にその指先が震え、やがてがくりと肩が落ちる。次に膝が砕けた。

「?」

 怪訝そうにその眉が顰められ、力の入らぬ身体を見下ろす神に、彼は小さく吐息を零した。

「中身は神でも、器は人間だから、一応は効くんだね」
「何をした」
「うん、さっき触れた時にちょっと細工をね」

 ひらひらと左手を振る。
 それから肩に担いだままの荷を下ろした。
 袋の中から取り出されたものに、神の表情が動く。

「それは」
「分かるかい?」

 彼はにこりと笑い、その楽器を掲げてみせた。

「紫香さんに感謝しないとね。彼女の最後の『伝言』があったから、何となく『玉響』に調弦を合わせておいていたんだ」

 はっきりと言われたわけではないが、予感みたいなものだったと彼は呟く。腰を据え、丸みのある楽器を膝に乗せた。長い弓を取り出し構える。

「やめよ」
「悪いけど、そこで大人しくしておいで」

 ばしりと火が走るが、彼はそれを〈秘伝〉で防いだ。
 弓先についた撥を弦に触れさせる。

「審神者め。己が役目を忘れたか!」
「忘れてないさ。名問いは不要と判じた。ならばあとは審神者として習わしに従い神送りをするだけだよ」

 弾かれた弦が震え、嫋と幽玄に響き渡った。




 高くにある空が桜色に染まっていた。先程の天変地異など嘘のように、長閑で優しい色合いをしている。
 仰向けで瞳をぼんやり開く美吉は、しばらく心ここにあらずといった風情でそれを眺めた。いつの間にか盛られていた痺れ薬が抜けきれず、四肢が上手く動かないのだ。
 いくらかして、ふと口を開く。

「殺せ」

 側にある気配に、そう投げかける。
 倒れてずたずたになった丸太の上に座る少年がくるりと首だけ向けて来た。

「殺せよ」

 もう一度美吉は言った。

「仇討ちは諦めたのかい」

 揶揄するような軽い応答があった。

「もういい」

 凶手が彼ではないことは、先刻の透視で知れた。いやもしかすると、視なくとも途中から薄々分かっていたのかもしれない。ただ認めたくなかっただけだ。前提が否定されたら、動く力を失ってしまうから。
 しかしこうなっては、紫香が誰に殺されたのか知る手だてはもうない。あの時すぐに透視をしておけば話は違ったかもしれないが、その時はまだ天目を使いこなせていなかった。尤も、今も使いこなせているとは言い難い。他人の記憶に引き摺られ箍が外れるくらいだ。
 どうせ滅ぶなら道連れにしようと思っていたが、その道が断たれた今、最早これ以上永らえる意味などない。わざわざあの場に戻って改めて透視をする気力さえなかった。何もかもが時すでに遅かった。失われたものはどうしたところで戻らないのだ。気持ちも満足しない。それにこのような危険な荒魂に怯えることにも疲れた。
 美吉が死ねば荒魂は永久に解放される。けれどこの少年ほどの力があれば、どうにかできるのではないかと思った。

「俺だってそんな荒神を無に帰す方法なんて知らないよ」

 美吉の考えを読んで少年は困った風に笑った。

「なら俺の〈秘伝〉もやるよ。天地が一つに戻れば対抗できるかもしれねえ」
「成程、それはやってみないと分からないね」

 これまで天の継承者と地の継承者が接触することはなかった。互いに存在を知ってはいたし、代替わりごとに連絡はとったが、直接対面することは避けられていたのである。それは〈秘伝〉を創った術師が、わざわざ天地二巻に分けたその意向に配慮してのことでもあった。
 強すぎる力は、分け離しておいた方がよい。
 少年が倒幹から降り、大の字で転がる美吉の側に歩み寄る。
 上から見下ろされるのを厭うように美吉は目を閉じた。

「死にたいのかい」
「ああ」
「命が要らないというわけだ」
「生きる意味はないからな」

 どうでもよさげにただその時を待つ。
 しかし返って来たのは、「なるほど」という場違いに軽い口調だった。

「ならばその命、俺が拾おう」

 美吉は閉じていた双眸を勢いよく開き、発言主を見た。

「は?」

 頭上にある面が莞爾と笑う。

「捨てられた物を拾うのは勝手だろう?」

 にこやかに滅茶苦茶な理屈を展開する少年に、美吉は唖然とした。開いた口が塞がらず、絶句する。

「そして拾った物をどう扱おうとも拾い主の勝手というわけだ」

 側に片膝をつき、覗きこむように笑う。

「生きなよ、みよし」
「何を」
「ちなみに拒否権はないからね。君の命は今や俺の胸一つ」
「……無茶苦茶だ」
「文句は筋違いだよ。君が先に自分で権利放棄したんだろ」

 自業自得というわけか。
 「ねえ、みよし」と少年が呼びかける。

「本当は、今日ここで俺が会うはずだったのは紫香さんだったんだよ」
「師匠が?」
「京里忍城を落ちてから、俺は紫香さんに『念言(ねんごん)』を送っていた。前代から〈秘伝〉を継承したから一応挨拶をと思ってね。本来接触は暗黙の了解で禁じられているのに、会おうと言ってきたのは紫香さんの方からだった。吉野の桜が満開になった時に、と」

 美吉が瞠目する。それは確かに紫香が今際に口にしたものだった。

「少しだけど君のことも紫香さんから聞いていたよ。でも、てっきり女性が来ると思っていたら現われたのが君だったから、ちょっと驚いた。〈襲義〉の儀は終えていたんだね」

 独白するように確認して、声音を落とす。

「このまま君が死んでも、結局『敵』の思うつぼだ」
「『敵』って誰だよ」
「さあ。でもどうやら君をけしかけて俺と争わせ、漁夫の利を狙っている輩がいるらしい。そんな誰かの思惑通りになってやる気は俺にはないね」

 それに、と調子を少し変えて続ける。

「紫香さんの望みでもある」
「師匠?」

 何故ここでその名が出てくるのか、美吉には分からない。
 混乱に揺れる眼差しを少年は受け止めた。

「『自分の代わりに君を頼む』。彼女が最後に俺に送って来た『念言』だよ」

 美吉の両目が零れんばかりに見張られる。

「『念言』っていうのはね、本来媒介がなければ送ることができないんだ。大抵は道祖神を使うんだけど、声だけを念で飛ばすことなんて離れ業は聞いたことがない」

 稀に媒介を経ずに声を飛ばす念話という異能を持つ者もいる。しかし少なくとも紫香はそうではなかった。

「けれども彼女は最後の一度だけ直に送って来た。余程の強い思いだったんだろう」

 紫香は元々熊野筋の未来見(さきみ)巫女だった。その全霊をかけ命を賭した念だったからこそ成し得た奇跡だったのかもしれない。
 少年も、急に降って湧いた声に、最初は驚いた。何のことか分からなかったが、今になってこのことだったのかと得心する。それほどまでに紫香は美吉が心配だったのだ。
 だから生きねばならないと、そう告げる。
 美吉は弱々しく引きつった笑い声を零した。
 泥に汚れた腕で顔を覆う。

「一緒に来るかって、そう言ってくれたんだ」

 差し伸べられた温もりが嬉しかった。向けられた情に、凍りかけていた心が溶かされた。人の殺し方を教わったが、人の助け方も教えてくれた。そして孤独も。苦しみながらなお生きよと言う。死んでまでも我儘な師匠だ。
 けれど。

「もう分からなくなっちまった。俺にそこまでする価値があるか? 気持ち悪いだろ。こんな訳の分からないものに憑かれていて、自分でさえ自分自身が何者なのか分からねえ。人間なのか、神なのか、妖なのか」

 そうだ、何なのだろう。寄って立つものも曖昧で、目的もなくただ流離(なが)れ続けて、〈秘伝〉の継承者にはなったがそれさえ自己を確定しうるとは思えず、意味を見出せない。ならばいっそ消えてしまえばいいと思ってここまで来た。すべては自暴自棄による自殺行為だ。
 何のために在るのだろう。師の思いを知っても、自己の気持ちに埋められぬズレがある。情けなさに滲んだ涙を袖が吸った。

「そこに意味はあるのかい」

 不意に投げかけられた静かな問いに、「え?」と美吉は腕を外して、顔を向けた。
 そこには不思議に透明な―――澄んでいるというより無しかない瞳が、こちらを見下ろしていた。

「この問答に意味があるというのであれば答えるよ。でも結局、君自身はどちらでありたいわけ? 人か神か化け物か、そんなものは所詮ひとが勝手に作った概念(ことば)に過ぎない。そんな価値観にどれほどの意味がある。鬼や畜生だって誰かを慈しむし、人間であっても残虐非道な輩はたくさんいるよ」
―――

 少年はかすかに変化する美吉の様子を窺いながら言を紡いでゆく。

「それでも人間がいいというなら、俺はそう答えよう。ただ、たとえそう言ったところで君自身が信じてない以上は意味がないし、かといって人間ではないと言ってもどうせ自嘲しながら傷つくだけなんじゃないのかい」

 ゆったりとした語調は、穏やかながら強さを秘めていた。

「俺、は……」

 言い差すも、美吉は言葉を見失って声に詰まった。顔を逸らし、苦しげに歪める。そう言ったって、自分は―――

「人外の力をもって人に仇なすのが異形だというなら、俺だってそうだ」

 あっさりと口にして見せた少年に驚いてハッと目を戻した。
 少年は微笑していた。その笑顔には翳りなど欠片もない。
 それから何を思ったか、おもむろに取り出した苦無で、晒した左腕を何の躊躇いもなく斬った。肌がざっくりと裂け、赤い血が見る間に溢れ筋となって伝う。
 美吉は吃驚して、思わず頭を浮かせた。

「おい! お前何やって」
「どこか違うかい?」
「は?」
「こうして斬れば血が出る。傷つけば痛みを感じる。人間も動物も皆そうだ。神や妖魔は知らないけどね。君は違うの?」
「!」

 少年はのんびりとした仕草で手巾を傷口に巻いていく。元は藍染めの麻布がじわりと濃さを増した。

「俺にしたら人か否かだなんてどちらだっていいしどうでもいい。少なくとも君が流している血と俺が流している血は同じ色をしている。同じように頭で考え、心で感じ、言葉を話す。だから俺と君の間に違いはない。それで十分だよ」
「……お前、馬鹿だろ」

 力が抜けたようにゴツンと後頭部を地面に落とす。
 そんなことを言うためだけに、自らを切り裂いたのか。
 一方、心外だという顔つきで少年は瞬きをした。

「勘違いで一方的に襲いかかっておきながら、殺してくれだなんて言い出す君には言われたくないね」

 再度美吉は口籠らされる。確かにその通りなのでぐうの音も出ない。
 少年は深く溜息をつき、頬杖をつきながらまるで手のかかる弟に向けるような眼差しを注いでくる。

「君はどうやら自分が何者なのか分からないと己の足で立つこともできないようだね。ならばいっそ探すことを糧としてみてはどうだい」
「探すって、自分をか」
「青臭いことこの上ない目標だけど、甘ちゃんな君には丁度良いだろ」
「自分より年下の野郎に言われたかない」
「紫香さんの話では君と俺は同い年だそうだよ」
「え」

 十八、と少年は頬杖を外しその手をひらひら振ってみせた。美吉の表情が世も末とばかりに絶望する。
 そんな反応を尻目に、少年は立ち上がった。やれやれと言いながら伸ばした腰に手をあて、四方を見渡して唸る。

「折角の景観が台無しだね」

 芝草や花びらの絨毯は一面千々に乱れて泥に汚れ、地面は至る所に亀裂が入り、割れて(あぎと)を開いた谷間は底なしに深い。桜の森林はあるいは根元から燃え尽き、あるいは横倒しになり、あるいは豪雨によって花が散って侘しい姿を晒している。幸いさほど広域には渡っていないが、逆に一部のみが天変地異の様相を呈しており、摩訶不思議な天災にしばらくは地元民の噂も絶えぬことだろう。
 とりあえず美吉の最初の仕事は、裂けてしまった地面をできる限り元の自然な形に戻すことだ。
 自業自得とはいえ面倒を覚えてげんなりしているところへ、「ほら」と墨染の袖が伸びた。
 差し出された手を怪訝そうに見つめていると、少年がニヤリと唇を引く。

「いつまで寝てるつもりだい。薬はとうに切れているだろ」

 すっかりバレている。
 憮然と渋面を作りながら、美吉は気怠げに身を起こす。体中が軋み悲鳴を上げている。
 差し伸べられた手を、取った。

「そういやお前、なんて名前?」

 手を借りて立ち上がりながら、物のついでのように訊く。
 「俺?」と軽く小首を傾げるようにして、少年は目を細めた。

「雷蔵だよ。そういえば君の名前も、音だけは知っているけど字はなんて書くんだい」
「……美しいに、吉」
「ふーん。なら綽名は『よしよし』だね」
「はあ?」

 ぎょっとして振り向く美吉に、「だってどっちの字も『よし』って読めるじゃん」と雷蔵はケロリとして言ってのけた。

「ということで今後ともよろしく、よしよし」
「やめんか、気色の悪い」

 美吉は寒気の走る両腕を摩りながら雷蔵から距離を取った。
 それから渋々〈秘伝〉に意識を集中させ、理を繰って一帯の修復にとりかかる。あまり人の来ない場所とはいえ、誰かに見咎められる前にできるかぎり元に戻しておきたいところだ。背後にて樹の根に腰かけている雷蔵から呑気な声援がかかるが無視した。何やら己は、とんでもない者に喧嘩を吹っ掛けてしまったのではないかと今更後悔が擡げる。
 あれだけ死闘を繰り広げたというのに、互いの間に殺伐とした空気は皆無で、あっけらかんとしている。そんな軽いものではなかったはずなのに、と奇妙な違和感があったが、不思議と座りの悪い心地ではなかった。矛盾している。
 昏く淀み、胸中に渦を巻いていた濁流は、気がつけば綺麗に消え去っていた。
 淡い薄紅の桜の花びらがひらりと舞う。
 これは災難の始まりなのか、それとも幸と転じるのか。
 美吉にそれは分からない。雷蔵にも分からないだろう。
 胸の澱は未だにずくりとした鈍痛を伴い残っている。見えぬ敵への不安。内なる敵の恐怖。師を手にかけた者への怒り。大切な者を失った悲しみ。
 けれども今は、とりあえず何も考えぬことにした。
 考えるべき時に考えればいい。あるいはふとした瞬間に悟るべきものなのかもしれない。いずれにせよその先に、いつか『答え』を見つけられるだろうかと、密やかに思った。
前へ 目次へ