煤に汚れた師の遺体を清め、手で穴を掘る。爪が割れ、剥げようとも気にしなかった。
 一度硬直した身体が、時を経て少し解れたところで腕を胸の上で合わせてやり、地中に丁寧に横たえた。
 一連の作業を、美吉はただ黙々と行った。右目は洞のごとく光を失い、どこも見ていない。
 土を被せ、上を固めてから、大きめの石を乗せる。その前に、すっかり固くなった酒蒸し饅頭を備えた。
 魂の抜け殻を背負い、塵芥と成り果てたあの山中からどうやってここまで来たのか、よく覚えていない。
 ただ胸には後悔と、自己嫌悪と、虚無だけが占めていた。
 怒りと悲しみに任せ、意識を『それ』に開け渡してしまった自分。挙句に、関係のない周囲の命までも奪った。
 救いようがない。

 握り絞めた土を、腹立たし紛れに捨て払う。
 両の拳を地面に叩き付けた。骨が軋む。
 どうしてこうなってしまったのか。
 紫香はどうして死んでしまったのか。
 自分が離れなければ。感情の奔流に負けなければ。
 今すぐにでもこの身をこの世から消してしまいたかった。
 だがそれさえも敵わない。己の死を選ぶ自由さえ、荒神を宿す美吉には許されない。
 屠ってやりたい。紫香を殺した者を。禍ばかり振りまくだけの己を。
 誰かいっそ殺してくれと、そんな昏い感情を抱え、どれほどの日が経ったのか。
 墓石に凭れかかる美吉の頬を、ひらりとひとひらの花弁が掠めた。
 白い桜の花びら。
 ピクリと瞼が動く。
 乾ききった鼓膜に、不意に蘇る声があった。

『吉野の桜が満開になった時』

 魚のごとく落ちくぼんで濁った瞳が、微かに動き、舞い散る花びらを追う。

「吉野の、桜」

 罅割れ、かさかさになった唇が音をなぞった。
 季節はすでに春に至り、桜は三分咲きだった。ここより寒冷な吉野の千本桜が満開になるのはまだ先がある。
 そうだ、と思う。
 自滅するのならば、その前にやるべきことをやらねば。

「天地は、一つになるべし―――

 がらんどうの黒瞳に、鈍い色が揺らいだ。許さぬ、と。
 許さない。許さない。
 師を手に掛けた者を、決して許しはしない。
 どうせ地獄に落ちるのならば、いっそ道連れにしてくれると。

「天の継承者」

 落ちた体力を、道すがら狩った獣肉や山菜で精をつけて戻し、紫香から引き継いだ人脈を使って裏の依頼を受けながら、勘を研ぎ澄ませた。
 〈秘伝〉天ノ巻の在り処は、昔から紫香より聞いて知っていた。京里忍城という、忍び界では知らぬ者はいない集団の隠れ里だ。しかし山城(やましろ)を目指す最中で美吉は京里忍城がすでに焼き討ちに遭い滅んだことを小耳に挟んだ。まさかという思いを抱きながら、師より教えられた場所に行けば、そこには建物の残骸が風化しかかる、打ち捨てられた荒野が広がっていた。空気の匂いには、長きに渡って栄えた名残はなく、かすかに燃え滓の残り香が漂うのみだった。紫香が死ぬ少し前のことであったらしい。

 天の〈秘伝〉は消えた。追う術を、美吉は持っていなかった。
 拍子抜けして崩れ落ちかける気力を無理矢理奮い立たせ、紫香の遺言の場所を目指した。
 辿りついた頃には、目前には見事な桜の森が満面に広がっていた。
 頭上を覆う花霞。気が遠くなるほどの薄紅の群雲。確か役小角が吉野の山神・蔵王権現の像を桜樹で彫ったことから神木と祀られ、以来常時少しずつ植えられてきた結果だと言う。あまりに幻想的な光景に、一瞬現実を忘れて魅入った。

 だが吉野の山はあまりに広く、紫香が最期に美吉に伝えようとした『桜』が果たしてどこのことなのか、判別がつかなかった。
 途方に暮れるまま漫ろ歩いていると、やがて何かに心を引かれるように爪先がある方角へと向いた。
 この感覚は一体何なのだろう。懐かしいような、温かいような、安心するような、焦がれるような。
 その正体を見極めようとどんどん奥へ踏み入り、最早己がどこをどう歩いているかも分からぬほど桜に幻惑された時だった。

 琴線に引っかかった。

 編笠越しに花の天蓋を仰いでいた顔を、つと下ろす。
 視界の延長線上の樹の前に、誰かがいた。
 先程の美吉と同じように、満開の枝を見上げ佇んでいる。雲水に身を包み、大きな荷を背負い、錫状を地に立てて。その横顔は天を望みながら、どこか遠くに意識を奪われてぼんやりしていた。

童子(こども)か? 女……いや男?)

 何ともなしに眺めていると、向こうが気づいたか首を巡らせる。風が吹き、枝がざわりと撓る。
 桜吹雪の中、朽葉色の目が合った。
 その瞬間、身体の奥底で鼓動が一つ打った。
 なんだこれは、と訳が分からず狼狽した。警鐘ではない。危険は感じなかった。なのに意思とは関係なく勝手に鳴り続ける激しい動悸。視線が逸らせない。
 これは共鳴か。―――何に対する?
 少しして雲水衣の少年が首を軽く傾げた。それから思い立った風に俯いて袖内から懐中を探る。
 取り出されたモノに、美吉の目はいよいよ釘づけになった。
 紫紺の組紐で括られた深緑の褾紙の巻物。
 ドクリと心の臓が一際強く脈打った。
 一呼吸ほどおいてから、少年が薄く微笑む。

「君が『みよし』?」

 刹那だった。
 雷に貫かれるように美吉の全身が慄き、衣を翻がえした。
 弾けるように一足飛びで間合いを詰め、足払いをかける。
 突然の攻撃を、少年は吃驚したように避ける。

「あれ? えっと、ちょっと待って」

 問答無用とばかりに尚も追ってくる殺気へ、緊張感なくきょとんとした風情で声をかける。間髪入れず空中に微かに煌めくものを無数に認め、慌てて飛び退った。それらが鍼だと知りえたのはひとえに少年の動体視力の成せる業だった。そしてその鍼の一つ一つがただ無造作に放たれたものではなく、確実に特定の一点を狙い打ちしていることにも。
 呼吸を置かずに肉薄していく美吉の手にも同じものがある。しかしそれは紙一重で躱され、あるいは絶妙にずらされて相手の衣や皮膚を掠めるに留まっていた。

 両者の速さは少年の方がわずかに上のようだった。防戦は悠々と言うほどではなかったが、幼い面立ちは相変わらず泰然として、嵩張る荷物を抱えているにも関わらず全くそれを感じさせぬ身軽さで、ぎりぎりの一線を確実に避ける。やがて呼吸を掴んだか、逆に反撃まで仕掛けてくる。美吉は間隙を突く少年の攻撃に対して完全に往なしきれずにいた。
 逃げる相手を追い、乱立する木々を挟んで並走する。時に幹を蹴って方向転換し、更に樹上の枝を足場に跳躍して宙空で攻防を交す。大環に取りついた遊環が木立間に鋭く鳴響した。

 擦れ違いざまの一手は封じられたが、着地は美吉の方が僅かに速かった。相手の着地を待たずに一気に間合いを詰めたところで肘鉄を放つ。少年がこれを退避して逃れれば、更に踏み込み腕を払う。拳打と見せかけて放たれた鍼は、すんでの所で錫状の柄に弾かれた。
 美吉が小さく舌打ちをする。汗が目尻に垂れ、沁みた。荒くなりそうな息を無理矢理押し込める。それほど時は経っていないが交した応酬はすでにかなりの数に上る。それでも決め手になる一手が打てない。打って出ればぎりぎりのところで躱される、その連続だった。少年はといえば、相変わらず切迫しておらず、若干の余裕さえ感じられる。油断なく美吉の動きを読んでは牽制する。しまったと思った時には美吉は相手の誘いに嵌まっていた。咄嗟に急所を庇うも、すっかり無防備だった金的に蹴りを受けた。これにはさすがに声もなく悶絶する。悔しさと屈辱で歯を食いしばり激痛に耐えた。

「聞いていいかな」

 少年は間合いを見計らって、美吉と広く距離を取り、改めて向き合った。やれやれという風に嘆息するも、疲れはまだ見えない。これだけ目に追えぬ無数の遣り取りを続けてなお、その気息に乱れはなかった。

「訳が分からないんだけど、何で君が俺に襲いかかってくるわけ?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみな」

 はじめて口を開いた美吉の返事はひやりとするほど冷たく重い。硬質な声音は相手へ鋭く切り込むようだった。
 しかし少年は応えた様子なく、いたって平然と言われた通り胸に手を当てて視線を泳がせた。

「駄目だ、聞いても分からないみたい」

 美吉の双眸が暗くなる。ふざけやがって、と無性に苛立ち奥歯を噛み締めた。

「……他人の師匠を殺しておいて、よく言う」

 堪え切れず、喉が情動に震えた。瞳に静かな怒りが揺らめく。
 腸には決して消えることのない憤怒と怨嗟が煮え立っている。
 あの時からずっと、治まることなく。
 しかし美吉の告げた句に、少年は虚を突かれ瞠目した。

「殺した? 俺が?」
「とぼけるならそれでもいいがな」
「待ってくれ、本当に話が見えない」
「人殺しは皆そう言うぜ」

 自分もその人殺しの一人だ、と美吉は皮肉に自嘲を零す。師は情のない人間ではなかったが、忍びという非情の務めを生業としていた。すべては生きるためであり、また〈秘伝〉を守り続けるだけの力を維持せねばならぬという使命があった。しかしそのようなものは言い訳にすぎないことも、重々承知していた。どれだけ理を尽くそうとも所詮は手前勝手な都合だ。殺される側の身にしてみればそんなもの関係ない。そしてどんな理由があろうと他人の命を奪っていい理屈はない。だからといって代替の方法もなかった。

「紫香さんは本当に殺されたのかい」
―――うるせえな」

 白々しく師の名を呼ぶなと、苛立ちがいよいよ頂点に達した美吉は後方へ腕を振り払うようにした。五指に鍼を挟み、地を蹴る。積もった花びらが土ごと抉れ、黒く汚れながら舞い上がった。
 聞く耳など持つ気はない。
 胸の奥底、魂の宿る処に焔がちらつく。
 金色(こんじき)の火。
 その向こうで赤い眼が虎視眈々と嗤っている。
 どうにでもなればいいと思う。すべてを消し去ってしまえばいい。己が生まれた過去ごと。
 駆けながら美吉は己の左を覆う布を無造作に剥ぎ取った。投げ捨てるそれに目もくれない。
 盲による隻眼だと思っていたのか、問題なく機能しているらしい瞳を見た少年の表情に意外そうな色が過ぎる。

 美吉が左目を封じたのは、紫香に拾われてすぐのことだ。覆布は鎮めの呪を施した符だった。不安定で精神的な負担の大きい左目の神力を抑するには、物理的に外界と遮断するしかなかったのである。
 元々視力は殆どなかったから不便はなく、わざわざ外すことはなかった。実際に制御できるようになったのは〈秘伝〉を継いでからだ。陰と地の理を納める〈秘伝〉地ノ巻は、火気金気を司る天目一箇神と相性がよく、その力の根源を抑制することができた。特に〈秘伝〉の器である巻物があると一層安定した。恐らく巻物そのものが強力な封印の呪具であったためであろう。

 それでも美吉は左目の覆いを取って、神の力を駆使する気はなかった。神を宿しているという事実そのものがあまりに厭わしく、恐ろしかったから。だから〈秘伝〉を継承しても封じ続けていたのである。―――紫香が死ぬまでは。
 美吉は吉野へ来るまでの最中、自ら進んで呪眼を用い、徐々に“これ”を馴らしてきた。
 すべてはこの時のために。
 透視をしなくても、解放するだけで呪力が上がる。〈秘伝〉を動かす時の疲労感、すなわち気の消耗が格段に減ることを知った。
 素早く印を組み、文言を唱える。少年の顔色が変わった。
 地が沈み脈動する。立っていることもままならぬほどの強い揺れに地面が割れ、深い谷底から炎の塊が噴き上がる。本来地中奥深くに眠っているはずの溶岩がとぐろを巻き、根元を呑まれた桜の木がいくつか、満開の花をつけたままズシンと倒れて燃上がる。

(こにきたれ)!」

 熱泥を避けながらも振動に耐えきれず跪いた少年が、やおら片手で印を結び一方の手を天へ向けた。地の理を手繰ることに集中していた美吉はハッとして上を見上げた。見る間に天上に暗雲が渦を巻きながら押し寄せ、冷たく凍った風が頬を打つ。舌打ちしながら美吉が印を変え呪を放つ。草間から蔓草が伸びて少年の身体に巻き付き、その足元の地が割れるのと、轟音と共に豪雨が降り注いだのは同時だった。

「!!」

 身体の表面を雹が叩き、美吉は思わず顔の正面を腕で庇う。天高くから勢いを持って降り注ぐ大粒の氷は下手をすれば骨さえも打ち砕きかねぬ強度を持つ。土を繰り壁を作って防ぐが、柔らかな土は雨水に溶けてしまい、もしくは雹に砕かれる。更に襲いかかった大風に飛ばされかけ、咄嗟に木を支えにしたが、竜巻のごとく渦巻く風になす術はない。
 しかしそれだけの風雨をもってしても、無限に蔵される地底の岩漿を駆逐することは敵わない。
 炎と冰雨、地揺れと大風がぶつかり合った。

 美吉は雨氷を堪え、垂れた雫がしきりに伝い入るのも構わずに双眸をこじ開けた。どこにいる。この眼から逃れることは絶対にできない。探せ、見つけろ、と。
 左眼が滝のような雨幕の向こうの姿を捉えた。
 動かす足がやや鈍い。衣が大量の水を吸って肌に張り付き、重い。ぬかるむ地を、美吉は己の踏む部分だけ〈秘伝〉の力で固めた。そして思いついたように同じく術を逆手に使い少年が立つ場の地面を湿泥に変ずる。足を取られよろめくのが視えた。
 駆けた。木々や障壁を交互に利用して風を防ぐ。氷塊が身体を打ち抜かんばかりに降り注ごうとも退かない。たとえこの身が砕け散ろうとも構わなかった。

 呼吸が荒い。眼球が熱い。肉体の深く、心臓ではなくもっと奥にある核の脈動が大きくなる。じわりと荒御魂が侵食してくる。
 間合いまであと二歩と言うところで、少年が顔を上げて美吉を認めた。その距離ならば、少年の腕前があれば充分に反応できたはずだった。けれども彼は釘づけになったように動かなかった。向かい来るものをひたすらじっと眺めていた。
 彼が見ていたのは美吉の左の眸。その虹彩が薄っすらと赤みを帯び始めているのに、当人は気づいていなかった。

 この風では鍼は狙いが狂う。美吉は躊躇いなく鍼を棄て、空いた右手を伸ばした。
 指が首筋に触れ、掌が喉仏を圧迫する。勢いのまま、掴む首ごとその後ろの幹へ押し付けた。
 風雨が少し弱まり、耳朶を打っていた轟音が和らぐ。
 ずぶ濡れの美吉に対し、少年は一滴の水もかかっていない。天義書の力の片鱗をそこで知る。

 濡れそぼる唇がはあはあと忙しなく息継ぎをする。しかし瞳は瞬きさえせず、強く凄烈に少年を射貫いた。
 不意に、首を捕らえる右手首を、少年の左手が逆に掴み返した。強くも弱くもない力だった。
 少年は眉ひとつ動かさない。時に焦香、時に灰茶に移ろう虎眼石のような澄んだ光彩が、美吉を真っ直ぐに見据え返していた。
 まるで、美吉に『視ろ』というかのように。
 呪眼の事は知らぬはずだ。なのに。
 その拍子に、美吉はぞろりと左目が疼くのを感じた。
 途端、意思とは裏腹に指から映像が滂沱と押し寄せてきた。

 闇の中果てしなく広がる、白と黒の無音の世界。

 刹那の狭間に視えたそれに、同時に覗きこんだ深淵に、美吉はひどく動揺した。
 どこまでも続く闇と雪原。これは『(ウロ)』だ。
 恐怖を覚えながら、無意識にその先にあるものが気になり、もっと深みに眼を凝らしてしまう。
 やめようと思うのに止まらない。勝手に次々と眼裏へ流れ込んでくる。

 最初に視たのは叫び声。
 それから火。
 怒号。
 刃。
 血。
 そして―――
 鮮血の海に沈む四肢の裂けた数人の身体と、真っ赤に濡れた小さな諸手。


 ―――狭由良―――


 鼓膜を突き破るような悲鳴に、美吉は声なき叫びを放った。
 バッと手を離し、狼狽しながら後ろ足を踏む。
 今のは何だ。今の映像は。
 己のか、それともこの目の前の者が持つものか。
 判別がつかぬほど、それほどに美吉は混乱した。
 蓋をしていた記憶が脳裏に白く閃き、視えた光景に重なる。


 ―――どっちだ。
 ―――これはどちらの過去(きおく)だ?


「お、前―――

 よろめきながら一歩二歩と後退る。
 緩慢な動きで美吉は頭を抱えた。
 耳の奥に残る、己のものであって己のものでない哄笑。
 逃げ惑う悲鳴と断末魔。
 手に掛かった重みからゆっくりと失われていくぬくもり。
 黒く広がる焦土の中、見上げた先には真っ赤な夕焼けがあった。
 やがて上った陽を背に声が降り注ぐ。

『一緒に来るかい?』

 垂れた瞼もやる気なさそうに、投げやりに伸ばされた手。
 何もかも失い、何もかもがどうでもよかった。
 どうしてその手を取ろうと思ったのか。
 生命の温もりが恋しかったのか。
 たとえそれが、闇に生きる業深い者だったとしても。

『美吉』

 真っ赤な血染めの白衣。
 呼ぶ声音は掠れて震え、裂かれた喉からごぽりと空気が漏れる。
 抱き上げた身体は重く、零れ落ちる命を留める術もなく、ただ見つめ続けるだけ。
 “あの時”と同じ。

「う……あああ―――!!」

 目が燃えるように熱い。
 少年がこちらを見て何か叫んだようだったが、何も聞こえない。
 世界が白く弾けた。
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