「おい、大丈夫か? 生きてるか?」

 傍らにしゃがみながら、投げ出された左手首を取る。肌は冷たく、脈も正常な鼓動よりは少し弱く乱れがあるが、命に別条はなさそうだ。ひとまずほっとする。
 少女は完全に意識を失っている様子だった。ざっと診た所では軽い血虚(ひんけつ)の症状だ。身体の細さや血色の悪さからして、充分な食を摂っていないのではなかろうか。
 さて、助け起こしたはいいものの、美吉はすっかり参ってしまった。悲しい医者の性で、病人を見捨てていくことには抵抗がある。
 とにかくこのままでは介抱もできない。どこかに休めるところはないかと辺りを見回していると、ややして、ぴくりと蒼白い瞼が震えた。

「あ……」

 気の抜けた声を零し、朦朧と見上げてくる。目がかち合った。

「あれ、私……?」
「自分のことは分かるか?」
「!」

 瞬間、少女は身を強張らせ、美吉の懐衿を掴んで己の身を引き起こした。予想外にすごい力であったものだから、ギクッとしてしまう。

「お願いです、話を聞いてください!」
「お、おい」
「後生です、どうか」
「落ちつけって」
「話だけでも、もう貴方しかいないのです。鏡が」

 「鏡?」美吉は訳が分からず素頓狂な声を上げる。言っていることが支離滅裂だ。倒れた際に頭でも打ったんじゃなかろうか。

「貴方が映っていたんです」

 倒れてもなお懐に離さず抱えていた鏡を、美吉に向ける。そこにはだらしがない形に、戸惑った顔をした己が映っていた。

「そりゃ鏡だから映るだろ」
「そうじゃない、そうではないんです」

 もどかしげに頬を歪ませる。一層強く衣を握り絞められ、美吉はついに声を張った。

「とにかく話の前に落ち着け!」

 一喝すると、恐ろしいほど強烈な光を宿していた少女の瞳から、にわかに精気が萎む。糸が切れたようにがくりと脱力した。
 極端に血が足りぬところをいきなり動いたせいか目が回ったらしい。
 美吉は若干憤懣気味に眉を上げた。

「お前なあ、急に倒れたかと思えば掴みかかって訳の分からないことをどうのこうのと、何がしたいんだよ」
「……すみません」

 焦点が合わない表情で、少女は申し訳なさそうに、支える腕から身を起こす。まだ頭がふらつくようで、額に手を当てたりしている。しゃがみこんだまま、美吉は少し語調を和らげ、声量を落とした。

「そのだな、不躾で悪いが―――いま、月のものは来ているか?」

 できるだけ事務的に聞えるよう淡々と、しかしそれなりに気を遣ったつもりだったが、言った瞬間、少女がさっと顔面を真っ赤に染めて、眉を吊り上げた。怒りのあまりか声もなく、口をぱくぱくさせている。大きく開いた眼は恥ずかしさから今にも泣きそうだ。
 それに、美吉はいかにもやりにくそうな、罰の悪い顔をする。

「誤解すんな、俺は医者だ。あんたが血虚気味のようだから念のために訊いているだけだ」
「……」

 たっぷり二呼吸してから、少女は泣き怒りのような戸惑いのような顔で、とりあえず小さく頷いた。それさえも一苦労とばかりに、深く息を吐く。
 美吉は荷を下ろし、風呂敷包みの中から挟みを取ると広げた。中には煮沸消毒をした極細の鍼がいくつも入っている。その一本を取り、手持ちの高濃度の酒精で一旦清めると、怯える少女を宥めながら腕のある個所に刺した。それから頭部と頚部にも一本ずつ。

「あの、これは……?」
「乱れた血脈を整えている。そのまましばらく動くなよ。物理的に血を殖やすことはできないが、足りぬ部分に行き渡るようにはなる」

 程を見て鍼を抜き、別の包みに丁寧に終い込んだ。
 それから風呂敷から取り出した丸薬を渡して呑ませる。以前雷蔵から分けてもらった増血薬だ。
大分顔色の戻った少女が、手品でも見ているかのような顔で身じろぎするのを制する。

「根本的に血が足りてないんだ。今しばらくは安静にしていろ」
「ありがとう、ございます……」

 気まずそうに小声で囁き、「御迷惑をおかけしました」と謝る。

「もう大丈夫です」
「大丈夫って面じゃねえけど。お前、一人なのか? 誰か連れは」

 少女は一瞬淋しげな色を浮かべ、力なく首をふった。はぐれたと言う意味ではあるまい。

「余計なことだが、あんたみたいな娘の一人旅は感心しねえな。血虚で倒れるくらい脆弱じゃあ、腕に覚えがあるってわけじゃねーんだろ」

 抱きかかえた際の身体つきは、決して武術鍛錬をした者のそれではなかった。普通のか弱い娘でしかない。

「しようがないのです」

 少女は下唇を噛んで俯き、ぐっと鏡を抱え込む。
 それからおずおずと、

「やはり話は……聞いて戴けませんか?」

 と上目づかいに訊いてくる。
 恐らく聞けば関わらなければいけなくなる類の話だ。美吉は非常に嫌そうな顔をした。だがここで断ったとしても、あの剣幕では食らいついて離さないだろう。
 じっと少女を見る。長旅で草臥れた衣に、解れた草履。憐れなほど薄い肩や、乾いて血の気のない肌に、乱れ艶のない髪。眼の下はくすみながらも、瞳だけは芯がある。
 ひたむきな視線にたじろぎ、しばらく迷ってから、

「……あくまで聞くだけだぞ」

 と苦虫を噛み潰したように念を押す。甘いことは重々分かっている。けれども、この蒼白い顔をした幼い少女を前に、嫌だと言う言葉を吐き出せない。これでは相棒からことあるごとに「馬鹿がつくほどお人好し」だとか「いつまでたっても甘ちゃん」と評されるのに全く反論できない。
 そんな美吉の葛藤など知らぬ少女は、ぱあっと顔を明るくした。「有難うございます」と頭をふかぶか下げて、再び眩暈を起こしかける。美吉は呆れつつ、とりあえず側の岩に寄りかかるよう言った。
 言葉に甘えて岩に凭れた少女は、しばらく言葉を探し唇を舐めていたが、意を決したように顎を上げた。

「私は、失せ物を探すため旅に出されました」

 声を落とし、密やかに告げる。黄昏時に入って気づけば周囲に人気はなくなり、茶屋からも離れている。それでもなお人耳を気にする微妙な話らしかった。
 『出た』ではなく『出された』という他動的な言い回しに美吉は目を細める。

「失せ物?」
「神です」
「神?」

 つられるようにして声音を潜めながらも、間抜けた声を上げてしまう。
 再びええ、と、少女は真剣な面持ちで頷いた。戯れや何かで言っている様子ではない。

「失われた神を探しているのです」

 いささか思うところがありながら顔色には出さずに美吉は眉を顰める。

「それが、俺とどんな関係があるっていうんだ」
「この鏡は」

 質問に答えず、少女は鏡を持ち上げ、見つめた。

「映すべき人だけを映しだす神鏡です。神通力を持つ人間だけを」

 すっと下から平らに捧げ持った鏡には、美吉と、うすぼんやりと歪む少女の姿がある。

「その力が強ければ強いほど、姿がはっきりと映るのです」

 明瞭と見返してくる己の姿を睨み返しながら、美吉は己の運の悪さを天に毒づいた。

「俺は人間だ。あんたの探す神とやらじゃない」

 厭な記憶を思い出すも、心中に押し留めて、努めて淡々と答える。

「神通力だか何だか知らないが、お門違いだよ」
「ですが、現にこうして」
「その鏡が本当にそんな代物だなんて信じられるか」
「嘘なんかじゃありません!」

 ご覧ください、と少女は鏡を通りへ向けた。美吉の後方から、丁度こちらへ向けて一人路を行く者がいる。その者へ向けて傾けた鏡には、美吉の姿しか映っていない。振り向けば、そこには確かに人がいるのにも関わらず。

「徒人は映りません。私も少しばかり力はありますが、僅かに像が浮かぶばかりです」

 深刻な面持ちで、少女はぎゅっと鏡の縁を握り膝上に置いた。

「これまで旅をして、おぼろげに映る人はあっても、ここまではっきりと姿が見えた人はあなたが初めてです」
「……それなりに修行したから、多少の法力があるってだけだ」
「それでも構いません」

 あくまでシラを切りとおそうと目を背ける美吉に、少女は縋った。

「もう貴方様しか頼れる御方がいないのです。どうか私を―――私たちの里を呪いからお救い下さい」

(呪い―――?)

 俄かに話が不穏な響きを帯び、美吉は瞳を眇めた。
 少女は自分は御座村の者だと告げる。

「御座―――聞いたことはないな」
「山間の奥深くにある、人知れぬ小さな集落ですから。しかし長きに渡り人の営みの絶えたことのない村です。四方を囲む深山の幸と、渓流から流れ込む水の幸に恵まれ、およそ三十戸が身を寄せ合い暮らしております。そんな村にも、守られつづけた祀りがありました。毎年、四季毎に神へ祈りと供物をささげ、五穀豊穣と子孫繁栄を祝ってきたと言います」
「『言う』?」

 伝聞調なことに疑問を向ければ、少女の眉間が曇った。

「祖父の代より、祭りは廃れました。いえ、正確には、祀るべき神が消えてしまったのです」

 消えた。それは先程も少女が口にしたことだった。
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