雨よ降れ降れ 川い水ァたまる
砂もいかりも くさるまで
雪よ降れ降れ 川い水ァたまれ
この子流してヨ 身を楽に

―――大阪の子守唄



 人にはそれぞれ、本分というものがあるという。
 雷蔵はそれを、生まれついての得手不得手―――端的に言うなら天性に左右されるものだと思っている。
 かつて佐介が、こう言ったことがあった。「お前がどこを見ているのか時折分からなくなる」と。
 だから答えた。「この目に映るものを見ている」と。
 佐介はどこか悲しげな顔をしていた。

 それは確か、いつかの任務の事だった。それがどんな内容で誰が立てた作戦であったかは、正直興味がなかったからあまり覚えていない。ただ一般的な思考回路を持つ者ならばまず好まぬ内容だった、という印象だけおぼろげに残っている。何も知らぬ若い下忍衆を囮に、敵忍を引きつけ、最終的には味方諸共殲滅するという類のものだった。雷蔵の属していた精鋭四人組『蔵四人衆』の長であり、里一の策士として『略師』の異名をとっていた上忍は、その策を聞いて眉を顰めてみせたという。しかし所轄外の任務には口出し無用が暗黙の了解であり、所詮結果がものを言う世界であったから、その作戦はそのまま遂行に移され、雷蔵が担当することになった。

 ただ生憎と雷蔵は、作戦に対してさほど忠実な忍びではなかった。結果第一であるから、逆に言えば任務さえ完遂できるならばその過程は適当でいいと考えており、他人の立てた計画という縛りに捕らわれなかった。もちろん全く蔑ろにしているわけではない。命令違反は指揮系統を乱す大罪である。だから大枠においては従いながら、細かな部分で融通を利かせるという方法をとっていた。この点においては、臨機応変に対応しなければならぬのが忍びの常であるから、罰せられる対象にならない。しかし策を立てる方としては、思い通りにならぬ実行者は、甚だ扱いづらいものであったことだろう。

 今思えば、『上』がそんな非道の策の遂行に雷蔵を宛ったのは、雷蔵のそういう性格を見越しての確信犯であったのかもしれない。
 その『上』の目論見が当たったか、あるいは偶々であったのか、雷蔵は任務の途中、まるで気が変わったかのように元の計画とは別の指令を下忍たちに与えた。囮におびき出された敵を風下の狭い空間に引き付け、風上から麻痺効果のある強めの薬香を流し、動きを封じたのである。結果、下忍衆を犠牲にすることなく目的を達成し、帰還した。

 烈火のごとく怒り、処罰を訴えたのは立案者である。上も、ひとまずは形ばかり身柄預かりとした。一方雷蔵はといえば泰然としたもので、「どちらかと考えた時に、あの方が無駄がなかった。加えて、たとえ下忍とはいえ一人前の忍びの養成には時がかかる。一度に大量の兵力を犠牲にするのは極めて非効率で、結局は里の負担になる」と言ってのけた。結局下された処断は僅かに報酬の額を減らされただけのものであった。立案者は不服を唱えたが、上は雷蔵の言こそを尤もとしたのである。この話は周囲から美談として語られることになったが、当の本人は別に義憤や情にかられたわけではなかった。さしずめ天秤ではかるように無機質に判断した結果だ。死体が多く出ると後々面倒だと思っただけで、それ以上の意味はない。
 そういう雷蔵の本意を、佐介だけは見抜いていたのだろう。それがあの科白に繋がったのだと思う。

『時々、お前のことが憐れになる』

 何故憐れまれるのかは分からなかったが、佐介の口ぶりには決して思い上がった響きや無意識からくる高慢さはなく、見つめてくる瞳はただ深い慮りを湛えていた。

『お前ほど忍びに向いていて、誰よりも向いていない奴はいない。俺はお前が心配だよ』

 悲嘆に暮れるように、そう告げる。
 遠くで風が胡弓の音を奏で、趣深く響いている。あれは龍弦琵琶の啼き声。

(違うよ佐介。俺は―――……)




 動いた夜風に、ふと瞼を開いた。ひやされ冷たくなった肌が寒さに粟立つ。
 どうやら珍しく深く落ちていたらしい。周囲は暗く、そして縁側に静かな存在感があった。

「鈍いな」

 覚醒の気配を察したか、背影が言った。
 これほど側の気配に気づくのが遅れるのは珍しい。

「……誰かさんの無茶振りのおかげでね」

 額に腕を乗せ、雷蔵は深く息を吐いた。

「全く、もう若くないって証拠かな。大丈夫だと思って油断したらこれだ」

 〈気涸れ〉による昏睡から覚めてすでに日数が経っている。完全回復とは言えないまでも、それなりに元に戻っているつもりが、鏡映しの術を行使するには尚早であったようだ。昏睡するほどではないまでも、深く寝入るほどには後退してしまったらしい。

「俺が刺客ならば死んでいた」
「それもまた時の運だね」

 死にたいわけではないが、そうなった時はツイてなかったと諦めるしかない。その点も雷蔵は淡白だった。しかし、どうやら勝ったのは悪運の方らしい。
 そういえば畳の上にそのまま横になっていたはずが、いつの間にか上には掛け布団がかけられていた。千之助だろうか。

「時の運か……」

 無意識のような呟きに、何となく違和感があった。上体を起こしながら雷蔵は縁側を見やる。曇り空なのか、月は隠れ、星明かりも届かぬ玄冥がそこにある。

「棟梁殿?」

 何かが引っかかる。

「本当にそう割り切れるのか?」

 声は紛れもなく虎一太のもの。
 けれど。

―――君は誰だい?」

 すうっと瞳を細めた雷蔵に、影が息を吸ったようだった。
 そこから、まさに一瞬。

「!!」

 思ったよりも僅かに反応が遅れた。鈍っているのは勘だけではないらしい。僅差で背後を取られ、腕を後ろ手に捻り上げられた。そのまま畳に押しつけるように背に乗り上げられ、動きが封じられる。骨が軋み、治りきらぬ傷に響いた。
 雷蔵は迂闊さに胸内で嘆息をする。いくら病み上がりとは言え、いささか無防備に過ぎた。目先に突き付けられる刃の波紋を感動もなく見据える。

「よく気づいた」

 頭上からした冷徹な声音は、先ほどとは全く違う人間のものだった。

「偶々だよ」

 正直、声だけでは分からなかった。害意がなかったから余計にである。
 変装を得意とする忍びの中には声色を変幻自在に使い分ける者もいる。
 だが、男の地声はそれでもどことなく虎一太に似ているような気がした。後ろを取られている今、その姿を確認することは叶わない。幻術を警戒したのかもしれない。雷蔵はこれが『監視者』の手の者かと勘繰っていたが、次の一言で疑いが霧散した。

「やはり女ではないようだな。何者だ」

 なるほど。彼もまた、『囲い女』の正体を怪しんだ者の一人というわけか。
 しかし、それにしてはこれまでの者達と少し様子が違うように思えた。

「棟梁殿に知れたらただじゃ済まないよ」

 応ずる雷蔵の態度はのんびりとしている。

「他人の心配をする余裕があるのか。答えぬのならばそれなりの手段というものがある」

 鋼の冷たい感触が薄い皮膚に押し当てられる。

「人に尋ねる前に己が先に名乗るのが筋なんじゃないの。影梟衆は礼儀を知らないのかい」
「……」

 ふと息遣いが漏れた。浅く笑うような気配だった。
 次の瞬間、首筋に熱が走った。浅く切り裂かれた筋から、雫が伝うのを感じる。

「二度同じことを問うのは好まないが、慈悲だ。もう一度だけ機会をやろう。何を隠している」
「筋違いだろ。何故それを俺に訊く」

 あえて押し問答をするのは相手の立ち位置を見極めるためである。味方か、味方のうちに潜む敵か。

「理由は三つだ」

 男は抑揚のない口ぶりで告げた。

「一つ、ここから出て来た不知火の様子だ。あれは尋常のものではなかった」

 不知火には人目につかぬように出入りをさせていたはずである。それを見ていたということは、この男は予めどこかに身を潜め、窺っていたということか。はじめから怪しんで張っていたと言うのならば、全く侮れない。

「二つ、頭にはこのところ、隠し事をしている節がある。それも、里の存亡に関わるであろう重大なことを。いずれも貴様に何か関連があるはずだろう。現に性別素性を偽っているのだから」
「……」
「そして三つめ。たとえ問い詰めようと、“あれ”は話さんからな。ゆえにこうして質している」

 なるほどね、と雷蔵は相槌を打ち、瞳を伏せた。

「ならば俺も君の方式に則って、三つ答えよう」

 無言の相手に、平淡ながらおどけたように語りかける。

「一つ。名乗りもせぬ輩に話をする義理はない。二つ、この状態は人に物を尋ねる態度じゃない」

 そして三つ、と数え、

「棟梁殿が言わぬことを、俺が言うとでも?」

 柔らかに、醒めた笑みを刷いた。
 否や、ぎりと右腕が強く軋んだ。容赦や躊躇いなど一切挟まずに、勢いよく捩じり上げられたのだ。弾けるような激痛に息を飲みこむ。乱れ駆ける呼気を押し留め、頭を澄まして心を落ち着かせる。

「答えぬというのならば、その気にさせるまで」

 刃が離れた。否や、鋭い音と共に衝撃が落ちた。
 突如襲った鋭痛に、雷蔵が咄嗟に呻きを耐え歯を食い縛った。そこへ息をつく間もなく更なる劇痛が加わり、瞑った目の脇に汗が薄ら浮かぶ。
 後ろ手を取られている方とは別の、踏みつけ抑えられていた左手の甲から、白刃が生えていた。刀身は深く刺さり、床底を貫通している。その上で、刺さった刀身を回される。傷口が広がり、濃厚な血の香が夜闇に充満する。
 そうやってしばらく苛んだが、雷蔵になお話す気がないことを悟ったか、畳に縫いつけたまま刀を手離す。
 別の小刀が、耳環の光る耳の下の、皮の柔い所にひたりとあてられた。

「人は耳を失うとどうなるか知っているか」
「……均衡が取りづらくなるとは聞くけどね」

 大きく呼吸をして痛覚を散らしつつ応じる。

「試してみるか」

 ピリ、と裂ける痛みが緩慢に襲う。
 だが雷蔵は冷静に微笑した。

「生憎、そういう趣味はなくてね」

 含みのある口調に、凶器を持つ手が止まる。訝しむような視線が注がれた時―――
 男の鼻腔を、甘ったるい香りが微かに過ぎった。刹那、焦点が揺らいだ。
 ハッとして男が見やれば、捻り上げていた腕の拳が開かれており、その手の内に小さな匂い袋があった。
 緩んだ力の隙をついて雷蔵は右手をするりと抜くと、左手に刺さる小太刀の柄を掴んで引き抜き、血が溢れ出るのも構わずに背後へ向けて素早く薙ぐ。筋を限界まで伸ばされていた右腕が痛みを訴えるが、無視する。
 押さえつけていた重みが消えるや、即座に身を返して両腕を軸に蹴りを放ち、勢いのまま身軽に後転をして幅を取った。

 男は膝をつくようにして鼻から下を腕で覆っていた。しかし遅い。雷蔵が捕えられる間際に咄嗟に持ちだした匂い袋は、一定の圧力をかけ続けると芳香を放つ。少しでも嗅げば、経脈に作用し、眠りへと誘う。ただし、効き始めは即効性だが、完全に回るまでが遅効性なため、決定打に使うには欠陥がある。
 だが雷蔵にとってはその程度でも構わない。要するに敵の動きを止める隙さえ作れれば充分なのだ。
 影の男は白刃を構える雷蔵を無機質に見据えた。

「……どうやら少々甘く見過ぎていたようだ。日を改めるとしよう」

 薬効で四肢の動きに支障をきたしているはずだが、喋る様子はどこまでも平然としていた。

「何度来ようと構わないけど、歓迎はしないよ。次は首が飛ぶ覚悟で来ることだね」

 ポタポタと不断なく畳に滴る血と、熱を失い痺れる指先にもまるで無関心に、雷蔵は仄かな笑みを浮かべる。瞳に浮かぶ光は冴え冴えと冷たい。
 侵入者はひとつ鼻を鳴らし、そして闇に溶け込むように消えた。見事な引き際だった。後には葉のさざめきのみ、である。
 完全に去ったことを確認すると、雷蔵は「全く」と呟き、刀を下ろした。
 此処へ来てからというもの散々なことばかりである。
 とりあえず傷ついた左手を心臓より高く上げながら、後始末を考え再度溜息をつくしかなかった。
 冷え込む夜であった。
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