咄嗟に顔を上げる。朱鷺次がしゃべったのかと思った。まだ死んでないのかと。
 しかし、それは朱鷺次ではなかった。
 朱鷺次が溶けるように消え、別の姿に移る。
 朱鷺次よりも上背低く、小柄な姿。

「“戻って”きたね」

 そう小さく息を吐いた。

「薬……叉?」

 その名を、不知火は思い出したように呟く。肉薄し、己の突き出した刃は、彼の左脇で紙一重で避けられ、柄と鍔元を確乎と止められていた。
 自分の所在が分からない。辺りに夜の帳はなく、頭上には冬の太陽と、白い空が広がっている。風に揺れる草葉のさやさやとした音が鼓膜に入ってきた。長い夢を見ていたように頭がぼんやりして、現実との境がにわかには判断できなかった。一体どちらが現実なのだ。

「一度迷宮に踏み込んでしまった心を戻すには、きっかけとなった出来事を再体験させるのが最も効果的でね」

 かなりの荒治療だけど、と雷蔵は呟く。

「朱鷺兄……朱鷺兄は?」

 不知火は未だに混乱しているのか、定まらぬ焦点を左右に巡らす。

「今さっきまでたしかにいたんだ! 俺がこの手で―――

 殺した。手応えを感じたのだ。
 錯乱している不知火に、どこまでも冷静な声音が注がれる。

「彼は最初からどこにもいない」
「今のは……今までのはじゃあ、夢?」
「正確には過去の残像」

 不知火から身を離し、抑え込んでいた得物を解放して、雷蔵は訂正した。

「今君が見ていたのは、俺の記憶を介した過去の欠片だよ。鏡映しの術という」

 己の記憶を、鏡を媒介に相手の脳裏に映しこみ、夢として具現化させる幻術の一種だ。鏡は鑑。大鏡や吾妻鏡、通鑑の名がそうであるように、過ぎ去った事象を明らかに映しだす象徴である。

「再現とはいっても、多少いじっているけどね。あの時君はあそこにはいなかった。それでも起こったことの委細も、朱鷺次殿の言葉も、ほとんどそのままだ」

 不知火の双眸が混乱気味に瞬く。
 『一人前になれ』―――それは紛れもなく朱鷺次が遺した現実の言葉。

「何でそんなことを俺に」

 戸惑いを堪え切れず、不知火は問いかけた。彼は雷蔵に、逆恨みとも言える怨憎を向け続けた。
 その自分に、どうして情けなど。

「それは棟梁殿に聞くことだね。彼が君を此処へよこしたんだから」

 肩を竦めた雷蔵の返事はあっさりと素っ気なかった。口ぶりも軽いもので、悪びれる様子もない。
 事実、雷蔵としてはどちらでもよかったのだ。しかしただでさえ手持無沙汰であり、側で延々自失されているのも正直煩わしかった。

「この方法は中れば効果絶大だけれど、外せば取り返しがつかない諸刃の術だ。再度の精神的打撃に耐えきれず、完全に心を壊して廃人となる可能性もある」

 出口を見失った精神を取り戻させるには、捕らわれている分岐点(とき)に遡り、絡まっている糸を解いて、正道へ導かねばならない。それには“その時”を追体験させ、結果は変えぬままで、過程を変えるしかない。端的に言えば、時間を巻き戻し、足取りをなぞって、“やり直し”をさせるのである。そうすることで、(とりこ)となっている時の檻から解放し、自我を呼び戻す。しかしもしも選択を誤れば、糸は解けるどころか、絡まり合ったところでプツンと切れ、永遠に“戻れ”なくなる。
 陶器が鋼に生まれ変わるか、それとも粉々に砕け散るか。どちらに転ぶかは、雷蔵にも最後まで予想はできなかった。

「でも棟梁殿は君を信じていた。賭けは棟梁殿の勝ちみたいだね」

 風花のようにふわりと浮かんだ笑みを解き、「ただし」と釘をさす。

「戻って来たことが君にとって幸せとは限らないけど。裡に閉じ籠っている方がずっと良かったかもしれない」

 雷蔵にはそこまでの責任を負う気はない。恨むなら虎一太を恨めという話だ。
 不知火は依然応えることなく、佇みながら呆けている。ただ同じ無反応でも、先刻のように『聞こえていない』のとは違う。
 正気の時は口数の多い男が、ここまで静かと言うのも何だか不気味だと雷蔵は思ったが、大方まだ事情が呑み込めていないか頭の整理が追い付いていないのだろう。
 この男が殊勝に他人の話に耳を傾けることなど、これが最初で最後かもしれない。ある意味いい機会かと思い定めた雷蔵は、刀を納めながら再び言を紡いだ。

「与市さんはね、朱鷺次殿が裏切り者であることに感づいていたよ」

 不知火の耳がぴくりと動いたようだったが、是否は分からない。まあ覚えていようといまいと、この際構わない。

「事前に俺のところへ、自分を朱鷺次殿と同じ組にしてくれと言って来たんだ」

 雷蔵の眼裏に、その時の情景が浮かぶ。




「朱鷺次殿と同じ組に?」

 虚頓(きょとん)と振り返った雷蔵に、与市は肯いた。

「雷蔵よ。お前、返り忠に気づいてるんだろう」

 それだけで、与市の言いたいことを察した。

「与市さん。もし貴方がそう言い出すなら、俺は貴方をも疑わなくてはならなくなる。分かりますね」

 瞳を細め、心なし困った顔で慎重に告げる。
 与市は朱鷺次こそが内応者だとあたりをつけているというのだ。
 しかしその意見を鵜呑みにすることはできない。朱鷺次に濡れ衣を着せ、その実与市が裏切っている可能性が全くないとは言えないからだ。「某が怪しい」と申告することは、申告者自身にも疑いがかけられることを意味する。
 ところが与市は元より承知とにやりと口角を上げた。

「いいさ、存分に疑え。何なら、俺が怪しい行動をしたら即殺せるように監視をつけてくれても構わねえ。だから奴を同じ組に入れろ。あいつ、人目を気にしながら里の外れをウロついていた。どうにも臭うんだよ。俺が奴を見張る。何かあった時は俺が責任を持って止めてやるさ」

 与市は強い眼差しで雷蔵を見据えた。
 その覚悟の堅いことを看て取り、雷蔵も小さく嘆息をし、了承したのである。




「与市さんは言葉通り、命に変えても彼を道連れにしようとしたよ。あの人は任務のために命をかける覚悟ができていたからね。必要なら仲間を手にかけることだってしてみせる人だった。その反面で、とても仲間思いな人でもあった」

 滔々とした語り口が、静けさの中に溶けていく。

「その点は君らの棟梁殿も同じだ。情け深く、義を重んじる。けれど必要に応じて冷酷にもなれる。一体どこでその心を割り切っているのだろうね。俺には分からないけど、少なくとも与市さんも棟梁殿も、それで闇に呑まれたりはしなかったよ」

 雷蔵は不知火の反応を注意深く見つめていた。

「それが忍びだ」

 不知火の目が、初めて雷蔵を映した。

「闇に生きるならば闇を手懐ければならない。それがたとえ己の心の生みだす闇であろうと」
「……それが忍び、だからか」
「そうだよ」

 ようやく返って来た反応に、淡く頷き返す。
 地面を見つめ俯く不知火の面が、痛みを堪えるような苦渋に歪む。

「じゃあ何だ。忍びっていうのは何なんだ。俺たちは一体何なんだよ」
「その答えが必要なのかい」

 あまりに醒めた物言いに、不知火は冷や水を浴びせかけられたように、我に返った。
 図らず戸惑う不知火をそのままに、雷蔵はスイ、と視線を滑らせた。

「心の上に刃を重ねて『忍』と成る」

 謡うように嘯く。

「ある者はその字の様をして、常に刃をつきつけられながら耐え続ける精神だと言う。またある者はこう言う。一方の手に手段(やいば)を、一方の手に意志(こころ)を以って、生に死す者だと」
「生に、死す……」

 生きながら死ぬ―――
 その言葉は、ずしりとした重みを伴って不知火の鼓膜を震わせた。
 耐えざるを耐え、忍ばざるを忍び、支える刃の重みに押しつぶされぬよう保ちながら、その不屈の“心”を以って“刃”を振う。(やいば)が過ぎても、(こころ)が過ぎても、成り立たない。
 『忍』という字が体現する生き様は、しかし所詮忍びとしての心得にすぎず、そこにどのような解釈を抱くかも、どのように思い定めるかも、人によってそれぞれだ。元より正しい解などない。
 忍びとは何か。答えが欲しくば、己で考え、納得のゆくものを見つけるしかない。

「なら、お前にとってはそれは何なんだ」
「さあね」

 再度の素っ気ない返事に、不知火が露骨に眉根を寄せた。

「俺は答え(それ)を必要としなかったから、考えたこともないし、考えることに意味も感じない。ただ一つ、確かに言えることは、忍びに迷いは許されないということだ」

 でも、と雷蔵は付け加える。

「迷うからといって、君が弱くて与市さんが強いというわけでもない。要するに向いているか向いていないかという違いでしかないんだ。与市さんはたまたま忍びに向いていた。棟梁殿もそういう性に生まれついた。でも人は千差万別だから、当然そうでない者だっている。同じことをしたからといって、必ずしも同じようになるとは限らない。それが個というものだからね」

 両側に垂らした諸手をギリと硬く握りしめ、不知火が強く強く睨み据えた。

「俺が……忍びに向いてないって言うのか」

 低く押さえた声音で、唇を微かに戦慄かせながら、詰問する。

「それを決めるのは俺じゃない。畢竟、君次第なんだよ。仮に君が忍びを続けられないと言っても、棟梁殿は里から追い出したりはしない。できる仕事を宛がうだろう」

 雷蔵がこう言うのは、別に老婆心でも親切心からでもない。同じ目に二度も三度も遭うのはご免だから、ここではっきりさせる心算だった。
 不知火は、歪む顔を片手で覆った。畜生、と小声で吐き捨て、ぐしゃりと前髪を握りしめる。

「なら教えてくれよ。俺はどうすればいい」

 隙間から零れおちる声は、縋りつくように掠れていた。「俺は、一体どうすれば良かったんだ」と、苦しげに細く揺れる。

「それも自分で考えるしかない」

 雷蔵の答えは、どこまでも冷厳だった。だから言ったのである。戻って来ることが幸せであるとは限らない、と。

「……」

 不知火は思い沈むように目線を落とす。思うところはあるのだろう。
 これ以上話すことはないと、雷蔵は何も言わず不知火の手に刀を持たせ、押し遣るようにして屋敷を後にさせた。
 邸の門から出た不知火の瞳には、辺り一面、先の見えぬ闇ばかりが漠然と広がっていた。
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