ねんねんよ おころりよ
 坊やはよい子だ ねんねしな
 子守りの歌に 日が暮れて
 空には青い 星ひとつ

―――佐賀の子守唄



 こんがりとよく焼けた川魚の香ばしいかおりが漂う。

「暇」
「え?」

 飯の椀を左手に、解した柔らかな身を口中に放り込んだ雷蔵がやにわに呟く。それに千之助が振り向き目をしばたたかせた。

「日がなぼんやり過ごすってわりと憧れていたんだけど、こうしてみると、することがないというのはえらく退屈なものだね」
「庭は飽きたか?」

 向かいで朝餉を取っていた虎一太が、こちらは味噌汁椀を膳から取りながら小首を傾げる。ほぼ軟禁同然の状態だから暇つぶしになればと、庭の薬草園は自由に使わせていた。
 雷蔵は瞑目しつつ、黙然と箸でちょんちょんと彼らの向こうを指す。二対の目がそちらに向けられ、一方は呆れた風に嘆息し、一方はぎょっとなった。背後の襖には、箱やら器やらが並べられ、その合間には採取された薬草が笊の上で陰干し乾燥されており、まさしく所狭しという塩梅だった。そういえば縁側にも、こちらは日干し向きの薬草が乾かされていた。
 虎一太はしばらくじっとその有様を見やってから、

「よもや薬草園を丸禿には」
「まさか。俺だって、次の収穫のために残しておくくらいの分別はあるよ」
「それは良かった」

 本気で疑っていたのか冗談だったのかいまいち判然としない口調である。

「でも、どうせ全部は持って帰れないんだから、タダ働きもいいところだと気づいてさ」

 割に合わないからやめた、と雷蔵は漬物を咀嚼する。その対面で虎一太もバレたかと心内でこぼす。もちろん端から謀っていたわけではないが、うまいこと雷蔵の、その薬草に対してのみ発揮される研究心を利用できればと思わなかったとはいわない。
 隠れ里を持っている忍び衆は、大抵忍薬に関する知識や技術を独自に形成している。それこそ並みの医者よりも扱いに長けているものだ。中でも最も名高かったのは、京里忍城の忍薬術だった。
 彼らは次々と未知の薬材を発見するだけでなく、新たな薬功をも開発しており、その複雑かつ絶妙な配合の方を暴くのは困難を極めた。解毒方もまともに解明できず、対抗策に他の忍び里は相当頭を悩ませられたものだ。その伝説的とも言える薬術の使い手が、当時京里忍城の忍薬所を司っていた雷蔵であった。

 忍び時代の雷蔵は実に容赦なかった。ひたすら無表情、無情に敵を殲滅し、命を奪うことに躊躇いの気配などなく、といって使命感も虚無感も、あるいは高揚や快感など感じている様子など欠片もなかった。どこまでも淡々と任務をこなす。圧倒的な強さを誇り、薬術を巧みに駆使し、命を奪う反面で救いもした。そこでついた渾名が薬叉。誰がつけたか、それは薬師如来ならぬ薬師夜叉の略という話であったが、薬叉はまた夜叉の別の表記でもあった。夜叉あるいは薬叉とは、残虐非道な鬼神にして反面で人に恩恵を与える神霊だとされる。
 あわよくばその恩恵にを少しばかりあずかろうと目論んでいた虎一太であったが、腹算が早々と破綻して、残念そうである。

「仕方ないな。では何か読み物でも持ってこさせるか」
「それよりも身体を動かしたいね」

 雷蔵は首をひねりながら、全く異なる方面から要望を出した。

「ずっと引き籠りっぱなしだから身体が鈍ってどうにも。ああそうだ、人目につかない修練場とかあったりしない?」

 思いついた風に手を叩くのに、虎一太は「ふむ」と逡巡するように視線を遊ばせた。
 そこに、「あのう」と千之助が躊躇いがちに口を挟んだ。

「しかしまだ傷のお具合が」

 衣で隠れてはいるが、雷蔵の身には未だ塞がりきらぬ怪我がある。というより、運び込まれてからそれほど日数は経っていないし、ついさっきも包帯を取り替えたばかりだ。当初の衰弱状態からは大分回復したとえはいえ、本来は床で安静にしているのが望ましい。下手をすれば傷が開くだけでなく、化膿や副次的な病につながりかねない。

「無理をされるとお怪我に障ります」

 おずおずとながら諫言する千之助に、雷蔵は微笑んでみせた。

「心配はないよ。程々に加減するし、いざとなれば自分で手当てもできるし」
「でも」

 困った風に救いを求める視線を向けられ、顎を撫でながら、父たる男は苦笑した。

「しょうがないな。俺たちみたいなのは傷も鍛錬で治すようなところがあるから」
「なんだかそれだとまるで筋肉馬鹿みたいじゃないか。せめて治癒力を高めると言ってくれ」
「それは失敬」

 雷蔵の抗議を受けて、いまいち違いが分かってなさそうに虎一太は謝る。

「とはいえ、人目につかぬところとなると里外の裏山あたりくらいで都合が悪い。いっそ庭に案山子か的を立ててみるのはどうだ」
「君ね、それこそ俺たちみたいなのがその辺の武士の稽古程度で事足りると思うわけ」
「思わんな」

 あっさり否定してから、さてどうしたものかと腕を組む。

「では手合わせ相手ということか。手隙ならば俺が相伴しても良かったが」
「棟梁殿は仕事しなよ。ていうかたとえ手隙でも、俺から遠慮する」
「ん? 何故だ」

 上げていた頤を戻し、不思議そうに虎一太が瞬く。味噌汁を啜った雷蔵はひと息つき、

「面倒臭いからね。君と手合わせなんてした日には、絶対に体慣らしって程度じゃすみそうにないもの」

 いつぞやのことを思い出す。敵を欺くためとはいえ、うっかり調子に乗りすぎて真剣になりかけた件はまだ記憶に新しい。

「それもそうだな」

 虎一太は同調しながらも心持ち残念そうだ。

「とはいえ手合わせにつき合わせるとなるとな……千之助というわけにもいかぬし」

 話題に出された千之助は真っ青になり、大仰に戦いてぶんぶん首を横に振った。無理ですと全身で訴えている。

「お前の相手となれば、そこらの腕の者では足りるまい」

 実力に差がありすぎては修練にならない。
 雷蔵も半ば予期していたことで、嘆息して諦めかけた時、

「ああ、そういえば適任がいた」

 と虎一太が己の思いつきにポンと膝を叩いた。

「適任?」

 雷蔵が訝しげに訊き返す。目つきがいささか胡乱気だ。

「後で遣させる。まあ気長に待っていろ」

 万事解決とばかりの満足顔で虎一太は最後の漬物の欠片を口に入れ、箸を置いた。






 リン、と鳴子が触れる。鳴子と言っても、徒人の目には見えない。その音色も、鼓膜というより、琴線を震わせるような音無き音だった。

 何者かが境界を超えたことを報せるこの鳴子結界はわりあい簡易な術で、敷地の〈地気〉を練り縒った“糸”で、四個の鈴をつなぎ、その鈴を各々敷地の四隅に埋めることで、四方に結界が張られる。何者かが外部から境界線を踏み越えると、〈地気〉の“糸”が触れ、地中の鈴が震えて術師の耳に届く仕組みになっている。もっとも、埋められた鈴が実際に鳴ることはないのだが、術による『無音の音』は、少し勘の鋭い者ならば耳にすることができる。ついでに特定の何者を排除したりする効力はない。ただ「報せる」ためだけのものだ。〈気涸れ〉から未だ充分に回復していない雷蔵には、呪力を用いる高度な結界を作り出すのは辛く、これが限界であった。そもそも結界術にはそれほど精通しておらず、忍術所、通称陰陽寮の人間に片手間で教わった程度のため、使える種類が少なかった。

 それでも侵入者の有無が確認できるだけでも、今の雷蔵には十分役立つ。少なくとも、どこから侵入されたかはわかるからだ。
 音は表玄関からの来訪を告げていた。玄関門から入るのは基本的に虎一太か千之助しかいないが、今朝の会話からすると、二人ではなく、恐らく『適任』者だろう。
 ただし虎一太はどのような人物が来ると明言はしなかった。幻術をかけておく方が無難かと逡巡しながら迎えに出ると、

「……おやまあ、これは」

 珍しい客だね、といささか呆気にとられた様子で、雷蔵は廊下に立つ人影を認めて呟いた。

「……」

 現れた不知火は、しかし無言だった。焦点はどこともつかぬところにあり、雷蔵を見ていない。
 人が変わったかと思えるくらいの様変わりようだった。以前の不知火とは比べものにならないほど覇気もなければ、生気さえ感じられぬ色の悪い貌をしている。まるでからくり人形だ、と雷蔵は思った。
 それでも辛うじて認識感覚はあるらしい。黙然と歩いてきた不知火は、雷蔵から二歩三歩前で立ち止まり、無造作に白い紙を放った。
 二人の間の床板の上に落ちたのは懐紙だった。雷蔵は手を伸ばし、紙縒りの封印を解いて開く。

『土は金を生ずと言う。ただ信じ託すのみ。 太一』

 白い紙面の上に、真黒な墨でただそれだけが短く記されていた。
 雷蔵は眉をわずかに顰めた。謀られたと知る。
 「土生金」は雷蔵の言った人の四つの型に便乗した表現だ。土は陶、金は鉄。「『陶器』も『鉄鋼』に変わることがあるのではないか。信じている。任せたぞ」と言っているのだ。
 つまり体よく押し付けられたというわけである。

(自分の責任とか言ってたくせに、ほんとちゃっかりしているよ)

 聞こえていても聞かず、見えていても見ない。この様子では任務など任せられる状態ではない。辛うじて虎一太の命は聞くようだが、叱咤しようと宥めようとどうにかなる問題ではないことを、虎一太もよく知っているのだろう。
 そうして弱り果てた結果、雷蔵の方に寄越したのだ。“適任”とはつまりそういうこと。雷蔵の正体を知っていて、時間をつぶす相手になりそうな人間という時点で、気付くべきだったのかもしれない。
 少し間を開けてただ憮然と腰を落ち着けている男を、さてどうしたものかと、こちらも黙然と座りながら、雷蔵は首を捻った。
 不知火はその名のごとく(と言ってはやや語弊があるが)、焔を体現した為人だった。それも、激しく燃え盛る炎。喜びも怒りも、率直かつ賑やかなまでに表に出す。
 けれど今の彼は、灯でさえなかった。火桶の火も白き灰がちに、などとは笑えもしない。
 意気消沈というには悄然とした様子はなく、一点に据えられた視線はどこも見ていない。動かぬわけでも、五感が欠落したわけでもない。ちゃんと身体が求めるまま飲み食いするし、生きる本能までが失われたわけではないが、魂の伴わない抜け殻だった。
 一度“壊れ”た者を治すのはそう簡単なことではない。

(せめて〈編み解き〉ができればね)

 龍の民の呪歌である〈編み解き〉は、聞き手の抱える“蟠り”や“滞り”を自ずと解き、忘れてしまった心を取り戻すよう導く。しかしあいにくそれをするに不可欠な龍弦琵琶は今手元にない。
 第一にして、自分は鍛錬相手を頼んだはずだというのに、何だってこのような面倒を押し付けられなければならないのか。いささか釈然としないながらも、やがて雷蔵は立ち上がった。
 不知火が機械的に携えてきた刀のひと振りを、手に取って抜く。刀身がすらりと白く輝いた。
 しばらく刃紋を見つめるようにした後、雷蔵はおもむろにそれを振った。
 ひゅっと風を切る音がして、止まる。刀の切っ先は不知火の喉元に当てられていた。
 けれども不知火はぴくりとも反応せず、ただじっと視線を下に落とし続けていた。刃がその面を鏡のごとく映している。
 雷蔵は数拍ほどその状態で刀を構えたままでいたが、やがて息をついた。
 確かにこれは重症だ。虎一太には荷が重いだろう。

(このツケはでかいよ、棟梁殿)

 むしろここのところツケばかりだ。よもや踏み倒す気ではあるまいなと胡乱に思いつつ、緩やかに双眸を伏せ、低く唱え始めた。
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