語り終って口を結ぶ虎一太を凝視したまま、不知火は動揺を隠せなかった。

「朱鷺兄が、間者だった?」
「ああ」
「そんな、そんな馬鹿な」
「だがそれこそが真実だ」

 たとえどれだけ信じがたい現実であろうとも―――時の流れとともに未熟さを克服した男は、低く落ち着いた声音で諭す。

「そんな、じゃあ」

 不知火は返すべき反応を、言うべき適切な言葉を完全に見失って、惑っていた。
 じゃあ、と、別の方に顔を雷蔵に焦点をずらす。

「今となっては言い訳でしかないが、あの時の俺は、お前達に真実を伝える術を持たなかった。かといって城に残された者達を見殺しにしたことを切り出す度胸もなかった。薬叉は俺の代わりにあえて泥をかぶったんだ」
「誤解のないように言っておくけど、見限りは俺自身が裁断したことだよ。別段汚れ役を買って出たというわけじゃない」

 一瞥せずに雷蔵がさりげなく口を挟んだ。虎一太を庇ったのではなく、結果的にそうなっただけのことなのだと。

「どうして隠し立てなんて」

 放心したように、おぼろげな眼差しで不知火が呟いた。質疑は虎一太ではなく雷蔵に向けられていた。

「あの場ではああ言うのが一番面倒がなかった。ついでにあの中でその役に向いていたのは俺だった。棟梁殿が言っては事が荒立ちそうだったからね。俺は最良と思う選択をとったに過ぎない」
「答えになってねえだろ! 俺たちにだって知る権利はあったはずだ! 俺だって、本当のことを知っていればあんな風に」
「いちいち説明する暇なんてなかったし、たとえ説明したとしてあの時の君らにそれを理解するだけの余裕があったかい? いたずらに事実をつきつけて使い物にならなくなられるよりは、ずっと事を運びやすいだろ」
「てめえはッ!」

 かあっと再び頬に血を上らせ、あわや掴みかからんとしたところを、虎一太が腕で制した。

「やめろ不知火。薬叉、お前もそう誤解を招く言い方をするな」

 やんわりと窘められた雷蔵は、閉口し腰に手を当てる。
 不知火、と虎一太が再び向き直り、その肩に手を置いた。

「薬叉はあえて本当のことを言わなかったんだ。影梟衆の一人、それも俺の腹心が裏切っていたとなれば、損害を被った京里忍城側は黙っていられぬだろうし、波風は避けられぬ。今後の信頼関係に罅が入る恐れもあった。おまけに事が事だ。あの場で下手に真実を告げたとしても、にわかには信じられることではなかっただろう。任務の最中で皆を動揺させ、疑心暗鬼に陥らせるよりは、自分一人に怒りを向けさせ駆りたてる方が良いと、そう判断したんだ。怒りは即時に団結力と動力を生むからな」

 「だから、ただ単に手っ取り早い方法だったからだって」と、何となく釈然としない風に雷蔵がぼやくのを聞いて、虎一太は諦めた風に息をついた。当人としては、冷淡を気取っているのではなく、あくまで純粋に効率を重視したに過ぎなかったのを、変に情を絡め拡大解釈されるのがお望みではないらしい。しかしあながち誇張でもないと思うのは、決して思い込みではないと虎一太は感じた。だから不知火にも誤解して欲しくなかった。

「……」

 不知火は何も答えなかった。ただ俯き、虚ろな眼差しを地に落とし続ける。しかしその瞳が見つめているのは、混乱と動揺が綯い交ぜになった心の裡だった。
 三者はそれぞれ沈黙を守ってそこに佇んだ。辺りはいつの間にか夕陽が差していた。




 結局のところ、突然里に帰って来た不知火の要件とは、開墾を進めている奥州において、地元豪族から持ちかけられた居住の条件について意見を仰ぐことだった。その豪族と言うのも、実は奥州筆頭である伊達氏の家臣筋であり、要するにこれは伊達氏との取り引きである。これを無視すれば奥州への移住は不可能になる。虎一太は不知火の携えて来た信書に目を通し、明らかに影梟衆の不利と思われる条件にのみ改めを求める旨の文を認め、鳥文で奥州に残る監督役に送った。
 昨日同様夜更けて屋敷にやってきた虎一太は、既に床に入っている雷蔵を見て、おやと珍しそうに目を瞬かせた。
 だがそれもほんの一瞬で、黙然と足音もなく布団をすり抜けると、縁側に到って胡坐を組む。障子の側に置いてあった、先日持ってきた酒壺を無造作に引き寄せて、注ぎ口から直接呷った。

「すまなかったな」

 一息ついてから、開口一番そう言った。

「君は謝ってばかりだね」

 雷蔵は目を瞑ったまま言を返す。眠りについていないのを見透かされたことに驚いている様子はない。互いに背を向け合いながらでの会話だった。

「責任ってやつかい。全く、外に内にと気苦労絶えないね、君も」

 揶揄とも同情ともつかぬ感想を口にする雷蔵に、虎一太もまた賛同とも否定ともとれぬ答えを返す。

「それが長というものだからな」
「君を見てると頭になんてなるもんじゃないとつくづく思うよ」
「おいおい、他人事のように言ってるが、お前とて本来ならば他人事ではなかったはずなんだぞ」

 あのままもし京里忍城が持続していたら、雷蔵はほぼ間違いなく次代の里長になっていたはずだ。里長は〈秘伝〉の継承者がなる仕来たりであったことは虎一太も聞き及んでいる。

「その点に関して言えば、うつけ殿に感謝してるよ」

 それが本気であるのか冗談であるのかは、声色からだけでは判断はつかなかった。
 酒壺の中で水音が鳴る。夜の静けさの中でそれは大きく響いた。
 薬叉、と虎一太が背ごしに呼びかけた。

「お前、何故忍びになった」
「また唐突だね」
「前から一度聞いてみたかったんだ。およそ生にも死にも執着のないお前が、どうして忍びの道を選んだのか」

 自我を排し、私欲を滅し、苦しい修行の果てに、他人の手足となって、命じられるがまま危険な任務をこなす。心身とも、想像を絶する痛苦に晒されながら。

「生まれは異なるとはいえ、隠れ里に育つ者はすべからく忍びになる定めだ。君だってそうだろ」
「まあそれはそうなんだが」

 訊きたいことを上手く言葉にできず考えあぐねる虎一太に、雷蔵は「分かっているよ」とあっさり言った。

「特に考えたことはないね。考えたところで無駄だし」
「物は試しだ。今考えてみろ」
「自己分析は趣味じゃないんだけど」

 気乗りしない語調に「たまには良いだろう」と虎一太はのんびり促す。
 言わねばこのままずっと食い下がりそうな空気に、雷蔵は小さくため息をついた。

「強いて言うなら何となくかな。ご指摘の通り、俺は多分己の命に関心が薄いのだろうし、特別生きたいとも死にたいとも思ったことはない。ただ動物は死に向かって生きているわけで、どうせいつかは死ぬのだから、自然に任せるだけだ。そして生きていくには選択肢は一つしかなかった」
「生存本能に従って流された結果、というわけか」
「そうなるね」

 生に意義を求めず、かといって自殺願望もなく、ただあるがまま身を委ねる。雷蔵らしいともいえる単純明快な答えだ。

「忍びは所詮死ぬまで忍び。それ以外の生き方をしてもその性は棄てられぬというが、お前はどうなんだ」
「さあ。少なくとも俺はもう忍びのつもりはないから、人それぞれなんじゃないかい」
「そういうものか」
「名も言葉も、すべては枷だよ。己で己に忍びと言う枷をつけているに過ぎない」
「相変わらず達観している」

 虎一太はくすりと苦笑した。そう簡単に思い切れればいいのだが。

「皆が真面目すぎると思うのだけど」
「一つこれと信ずるものがなければ、立っていられぬのだ。……人は弱い生き物だからな」
「そういうものかな」

 興味もないのか、抑揚のない声で雷蔵は先程の虎一太と同じ相槌を打った。

―――なぜ、最後まで頑なに不知火に真実を伝えようとはしなかった」

 つと、静かに問い質した。

「それが本題かい」
「すべて本題だ」

 外から戻った虎一太は、人から不知火の帰還を聞いた。しかし屋敷にはその姿が見えず、疑問に思っていたところに、もしやと思い至ってこの別邸を訪れたのである。果たして探し人はそこにおり、おまけに雷蔵と対峙するという最悪の状況となっていた。それでも虎一太はすぐに出て行くことはしなかった。二人の様子に、もう少し成り行きを見守るべく、気配を消して木陰に潜みながら対話を聞いていたのだ。雷蔵は気付いていただろうが、こちらも知らぬふりをしていた。
 だが、どんどん深みへはまり込んでいく不知火に対し、一向に誤解を解く気のない雷蔵に、ついに見かねて割って入った。最初に虎一太が口にした「すまない」は、不知火の非礼と、邪魔をしたことと、その他諸々を言下に含んだ陳謝だった。

「君はさ、人という生き物をどう見る?」

 唐突に全く異なる話題を振るような、さらりとした口調だった。

「どう、とは?」
「見方とか角度となると色々だけど、俺は、基本的に大きく四つの型に分けられると思っていてね」
「四つ……」
「脆くてすぐ壊れてしまう人。知らぬうちに少しずつ壊れていく人、粉々に砕け散っても立ち直ることのできる人。頑丈でびくともしない人。ちなみに俺はこれを玻璃型、陶器型、鋼鉄(はがね)型、塗壁(ぬりかべ)型と呼んでる」
「言い得て妙だな」

 洒落のような言い回しに虎一太は唸った。玻璃は繊細でちょっとした衝撃でもすぐ割れてしまう。陶器は一見丈夫そうに見えて、その実気づけば少しずつ罅割れゆく。鋼鉄は一度折れても熱を加えれば再び鍛え直せる。他者の行く道を塞ぐ塗壁は神経が図太い、といったところか。

「この中で一番厄介なのはどれだと思う」
「……知らぬうちに少しずつ壊れていく者だろう」
「分かっているね」

 声が笑った。虎一太が当てることを最初から予測していたのだろう。優れた忍びならば人間の心理に通暁していることは必須条件だ。

「つまるところ、不知火はその性質だってことさ」

 ようやく繋がった話に、虎一太は口を酒瓶から離した。あるかなしか呼気が空に溶ける。

―――……あいつはむしろ丈夫な方だと思っていた」
「一見問題なく見える人間ほど危ないものだよ」

 不知火は雷蔵への復讐に固執していた。その執着はいっそ度を越しているとさえ思えた。確かに、他の仲間もあの一件について雷蔵に対し好い感情は持たなかったが、不知火ほどではなかった。何故なら、他の者たちは忍びの実状や覚悟をよく心得てもいたからである。
 ところが当時ひときわ経験浅く、不慣れであった不知火は、受け入れがたい現実や抑え切れぬ感情をどうしていいか分からず、持て余し、復讐心に挿げ替えることで、力の糧へと還元して己を保ったのだ。それこそが今の今まで、不知火という人間の大部分を支えていたと言っても過言ではない。怒りと憎しみを原動力に、技を磨き鍛錬し仕事をこなした。だがその一本の支えがなくなってしまえば、それまで築き上げたものが一気に崩れ去ってしまう。そんな危うさが彼にはあった。

「あいつにとってはあれが初めての大仕事であり本格的な舞台だった。それまで小さな任務ならさせてきてはいたが、そろそろいい頃合だと思って連れてきたんだ。俺たちの生きているのがどんな世界なのか見せる頃合だと」

 虎一太が懺悔するように語る。任務が終わった後は現場で解散であったから、こういう話をする機会はなかった。

「道理で他の人員に比べて彼一人随分と青臭かったわけだ」

 年下である雷蔵の評価に虎一太は苦笑を禁じえない。

「百聞は一見に如かずと云うだろう。言葉ではなく、その身をもって実感させたかったのだ。俺もそうやって学んだ」

 たとえ義を重んじることを信条としてはいても、所詮は忍び。心の闇に耐え、背負っていかねばならぬ存在である。
 忍びの者は、殆ど例外なく人殺しの教育を受ける。習う方も幾度となく聞かされるから、分かったつもりではいるが、実際に実行するのとは覚悟が違う。騙し、陥れ、命を奪う。人を人と思わぬことに関しては、敵味方問わない。任務を重ねるうちに、人への不信や心の責に耐え切れず病んでしまう者を、雷蔵も多く見てきた。諜報などはまだいいが、暗殺となればその割合は比べ物にならない。その中で露悪主義に開き直るか、義を信じて立ち直るか、あるいは麻痺する者だけが、忍びを続けていけるのである。

「早すぎたとは思わんが、間が悪かったとは思う。少しずつ慣れさせるつもりが、いきなりあれではな」

 義憤と使命感のみに占められた青い精神には、耐え切れぬ打撃だったのだろう。それが『歪み』を生んだ。
 どうしようもならぬ定めを思いながら、虎一太はやれやれとぼやく。彼自身、棟梁の息子であったこともあり、初陣でそのことを学ばされた。それこそ否やを唱える暇も、衝撃を受けている間も、思い悩む猶予も許されず、次の仕事に駆り出された。その点に関して父の一郎太は非常に厳しい人だった。世の中に需要がある限り、必ず誰かが手を染めねばならぬ生業だったからこそ、実の息子に対しても妥協しなかったのだろう。

「俺に父と同じことはできないのかもしれん」
「そりゃあ同じ人間ではないのだから当然さ。でも忘れちゃいけないよ。相手も違う人間なんだ」

 虎一太がその言葉に軽く振り返った。

「人の心は千差万別だよ。君のお父上と君が異なるように、棟梁殿と不知火もまた異なる。お父上がしたように君がやったとしても、同じ結果が得られるとは限らないし、実際同じようにはならなかったと思うよ。だからこれは誰の所為でもない。不知火があんな風になったことについても、時の運だったとしか言いようがないね」
「お前は不知火自身に気づかせたかったんだろう? だから今も昔も口を噤み、始終あんな態度を取っていた」
「……どうかな。根が単純な奴だから、時間が解決してくれるのを期待はしてたけど」

 おどけてみせたが、実際、時が経ち、冷静に物事を考えられるようになれば、復讐以外のものが見えるようになるのではと思っていた。だが読み誤りだった。
 当てが外れて、雷蔵は、不知火に己の歪みを自覚させる道を選んだ。あのまま雷蔵を殺したとすれば、それまでの行動目的を失った彼は、それこそ糸の切れた人形のようになってしまっていたはずだ。だからといってその歪みを真っ向から暴けば、強い衝撃に耐え切れずに錯乱し、自滅を招く。思考を誘導して、己で己のことを見つめさせ、自力で気づかせる必要があったのだ。答えを直接突き付けるよりは、答えまで導いてやる方が、反動は軽くて済む。

「折角の気遣いを水の泡にしてしまったな」

 ポツリと虎一太が呟く。

「棟梁殿が悪いわけじゃないさ。結局、あれは不知火自身の責任でもあった」

 見た目以上に落ち込んでいる男に、雷蔵は慰めめいたことを口にした。
 復讐を生きる理由としていた不知火は、それが幻影だったと知るや、燃え尽きたように無気力になった。何を言おうと始終上の空で、何も手に付かなくなった。憑きものが落ちると同時に、魂までもが抜けてしまったようだった。それこそ使い物にならなくなった不知火を奥州に返すわけにもいかず、里に留めている。
 こうなることが分かり切っていても、虎一太にはあれ以上看過できなかった。
 あのまま虎一太が止めに入らなければ、きっと不知火は引き返すべき線を踏み越えていた。そして雷蔵は宣言どおり確実に不知火を殺しただろう。己で気づかぬ以上、殺すべきだと考えて。

「君もつくづく甘いよね」

 部下に対し、完全に鬼となることのできぬ弱腰を雷蔵が揶揄すれば、意外な言葉が返ってきた。

「お前も人のことは言えんだろうに」
「俺が?」

 思わぬ反撃を受け、体勢は動かさず枕の上の頭をほんの少し巡らす。薄く開いた瞳に天井が映った。

「そうだろう? 最後まで何も言わなかったのも、心を壊すくらいならいっそ殺した方が不知火も楽だろうと思ったからじゃないのか」
「まさか。単に、事情を話したところで信じるとは思えなかったし、あのまま突っ込んで来るようならそれまでの男だと思っただけだよ。大体、彼にとって生死どちらが苦楽かなんて、俺に決められるものじゃない。―――俺は君が思っているほど優しい人間じゃないよ」

 相変わらず背中を見せたままで、雷蔵は可笑しそうに否定した。

「そうかな」

 しかし虎一太は小さく笑い、のんびり言い換えた。

「お前は自分で思うほど情の無い人間でもないよ」

 理解できないと、無言の空気が応える。それを肌で感じ、虎一太は苦笑して、磁器の肌を撫でた。

「ちなみにお前の目から見て俺は四種のうちどれだ?」
「当然、塗壁だね」

 あっさり即答されるのも少々情けないものがある。虎一太の眉が八の字になる。

「そんなに能天気そうに見えるかな」

 これでも悩むこともあるのだが、とやや抗議を込めて反駁すれば

「それでも君は壊れはしないだろ」
「……まあな」
「そこが不知火との違いだよ」

 こればかりは生まれ持った素質。ある程度は努力で改善されうるだろうが、根本的に生来の運なのである。

「そういうものか」

 ならば、と虎一太が不意に声を抑える。

「お前はどうなんだ」
―――……」

 一転、沈黙のみが返った。
 呼吸三回分の間を数え、余計な質問だったかと虎一太が思いかけた時、

「俺は、規格外だよ」

 クスリと、一言。

「一度壊れてそのままの、欠陥品さ」

 自嘲とも苦笑とも違う、諦観めいた含み笑い。感情の抑揚に乏しい言葉の真意は、声音からだけでは判断できなかった。いや。表情を見た所で、虎一太にはきっと量れなかっただろう。
 ただふと、雷蔵の抱える深淵が垣間見えた気がした。
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