花は何の花 つんつん椿
水は天から もらい水

――五木の子守唄



 墨を塗りたくった空に、薄月がかかっている。冴え渡るような秋冬の趣きと異なり、春夏の月はとろりと柔らかい。
 指先が疼く。こういう頃合いに、傍らに龍弦琵琶がないことが何とも落ち着かなかった。
 薄雲の向こうではきっと輪が半分に欠けているはずだ。

(片割れ月)

 その響きに、なんとなく分かれたきりの相棒をい出す。結局見届けぬままになってしまったが、緩んでいた“箍”はいま大丈夫だろうか。
 出会った頃に比べれば大分落ち着いた方だが、それでも彼の精神は揺らぎやすい。だからこその神功(よりまし)でもある。情緒の不安定さは感受性の強さの現れだ。そして感受性の強さは感応力の高さの証でもある。

 見るともなしにぼんやり見つめながら、雷蔵は一体自分はここで何をやっているのだろうと自問した。
 肥前で奇妙な伴天連青年に出会い、その幻想に振り回された揚句、厄介な荒神と対峙し、ようやく鎮めたと思えば今度は理不尽に播磨にまで拉致された上、他人の里の存亡の危急に巻き込まれる羽目となり、結果こうして月を見上げている。なんとも目まぐるしい。特にここ最近はこんなことばかりである。
 旅を始めたころは、刺客を打ち払い、追手を撒くことで忙しかった。思えばよくよく居所を掴まれたものである。顔だってそれほど知られていたわけではないというのに。それがほどなく落ち着いてくると、今度は不可思議に巻き込まれるようになった。旅をしていると色々な目に遭うものだが、これもその一つなのか、それとも別に要因があるのかは分からない。

 やれやれ、と雷蔵は上向いたまま声なく嘆じた。基本的に運命に抗うよりは流れるように流されていく性格ではあるが、これはあまりに数奇すぎる気がした。
 と、不意に背後で風が動くのを感じた。顔は月を向けたまま、「入れば?」と声を投げる。

「何だ、起きていたか」

 開けはなったままの襖から入って来た虎一太は、見破られたことを気まずそうにする様子もなく、スタスタと縁側に歩み寄って隣に腰掛けた。口を開かず、雷蔵と同じように月を見上げる。ちらりと横目でその横顔を一瞥すれば、疲労の影が薄くかかっていた。前にこうして並んで縁側で茶をしたのはつい昨日の昼だったはずだ。
 月暈が、二人の面輪を青白く照らしていた。

「片割れ月か」

 ぽつりと虎一太が呟いた。相槌を求めていない、独り言のようだった。

「逢ふことは片割れ月の雲隠れおぼろけにやは人の恋しき」

 唐突にさらりと和歌を口ずさんだ男に、雷蔵は意外そうに瞬きをした。

「何だい、いつになく風流な」
「たまたま覚えていただけだが」

 それにしたって意外である。会いたい人に見えられぬ切なさを、雲に隠れた半月に譬えた恋の歌とは。

「何だか薄気味悪いね。で、今度は一体何事なのさ」

 胡乱気に横目で見やれば、

「どうも屋敷を追い出されてしまったようでな」

 何だか気の抜けた顔で虎一太は答える。

「……奥方に?」
「いや、息子に」

 雷蔵は再び空を仰いだ。どこの世に息子から家を追い出される父親がいるのか。

「それはまた傑作だね。笑えるから一応経緯(いきさつ)を聞いてあげるよ」
「怒らないか」
「怒りそうな内容なのかい」
「『夜に妾を訪わないなんて目晦ましの意味がない』」

 雷蔵はしばらく無言になった。

「つまり夜這い」
「つまり夜這いだ」
「千之助殿って本当に君の息子?」
「俺もここ最近、真剣に疑問に思っている」

 そう言う虎一太からは茫漠とした雰囲気しか感じられず、実際のところどう考えているかは分からない。

「ともかく今夜はこの隣の間で寝ることにした」
「寝具は恵まないよ」
「そう言うだろうと思ってな」

 賄賂だ、と雷蔵とは逆側の影から酒瓶を持ち上げて見せた。

「枕一つくらいなら考えてやらなくもない」
「慈悲深いことだ」

 そのまま二人で、盃を片手に酒をちびりつつ、のんびり月見としけ込む。

「進展はどうだい」

 二口ほど嘗めて、酒盃を離してから雷蔵が口を切った。

「信長の方は今のところ沈黙しているよ。嵐の前の静けさのようで、いささか怖いものでもある」
「納得はしていないだろうからね」
「仕様がないな。我ながら疑わしいところが多いのも事実だ」

 言いながら、虎一太は手酌する。

「それでも、少なくとも確証が得られぬ以上、現段階ではあちらは手を出せぬまい」

 まあね、と雷蔵は酒に映る月を揺らして散らす。

「恐らくいずれ何らかの形で探りの手は入れてくるはずだ。こちらも里の周囲には常に目を光らせているし、里人も少数だから、潜り込んで紛れることはできぬだろうが」
「潜り込まれたとしても、まさか『囲い女(めかけ)』がそうだとは思わぬだろうし?」

 後を引き継いで小さく笑う。全く傑作というべきか滑稽というべきか。  虎一太も微苦笑して酒精を呷った。

「いずれにしろ警戒は怠れないね」
「ああ。とにかく今は少しでも時間を稼ぐしかない。次の里の受け入れ態勢が整うまではな」
「そうか。やっぱり拠点を移すんだね」

 虎一太が先日言っていた通りだ。今の状況では、確かに里ごと手の届かぬ場所にまで逃げるのが手取り早い。

「鳥文の様子では、移動先の準備も順調に進んでいるようだ」

 鳥文というのは、特定の鳥の足にくくりつけて飛ばす文のことだ。影梟衆に限らず、忍びには馴染みの通信手段である。

「早ければ十日後には此処を離れるだろう」

 それまでは何としても、と猪口に落とした双眸を細めた。

「今度の里は遠いのかい」
「奥州だ。あそこならば信長の手も及ばぬからな」

 奥州には閉ざされた土地柄で独自に権力を築き上げた藤原氏の勢力があるし、間には織田信長の天敵である越後上杉氏が構えている。確かに目下最も安全な圏域ではあった。

「そういえば話は変わるが、蝉太夫に那由他と名乗ったそうだな」

 不意に虎一太が言った。
 その問いに、雷蔵は一瞬沈黙する。しかし数度瞬きをしたのち、ああそのことかと思い出す。確かに身に覚えがある。とりあえず適当に何か名前をと思って、自然と口に登ったのだ。

「そうだけど、どうかした?」
「いや、不思議な名だと思っただけだ」
「不思議かな」
「変わってはいるな」

 『那由他』は仏道の詞だ。梵語の音釈で極めて大きな数を意味する。
 そう付け加える虎一太に、「よく知ってるね」と感心すれば、「算学はわりと得意なんだ」とさして得意気でもない調子が返って来た。

「適当に考えたにしては風変わりだ」
「いっそ落葉とかにしておけばよかったかい?」

 雷蔵が揶揄を込めてそう微笑すると、虎一太は微妙な顔をした。

「雲居のことを聞いたのか。さしずめ俺は夕霧ということか?……洒落にならないな」
「俺もご免だよ」

 あっさり言って、雷蔵は濁りのある酒精を味わった。虎一太の妻の名が雲居というのを小耳に挟んでの皮肉だった。何も知らぬ周囲はそれこそ『夕霧』のような展開やら愛憎関係を期待していそうだが、残念ながらそんな期待には添えない。

「変わってる、ね……」

 瞳を伏せがちにしたまま、ふと零す。怪訝そうな視線を感じた。しかしそちらには目を向けずに、水面を見つめ、口角を薄く上げた。

「実はそれが本名なのだと言ったら?」
「本―――?」

 常に茫洋としている面に、隠せぬ驚きが宿る。困惑気に揺れる眼差しは、意図を計りかねているようだった。

「『雷蔵』というのは、俺が四つの時に叔父からつけられた名前だよ。そう言う意味ではどちらも本名」

 疑問を言い尽くす前に、雷蔵が答えを明らかにした。

(『四つの時に叔父から』?)

 虎一太はその言い回しに不自然さを覚えた。しかしそこからは口を噤み、黙って耳を傾ける。促さずに相手に話をさせた方がよいと、直感的にそう思った。
 雷蔵の目線は相変わらず遠くを眺めているようだった。目前の景色も、今の時の流れも映さずに。

「親がつけた元の名が那由他。村が焼かれて、叔父に京里忍城へ連れて来られるまでは、その名で過ごしてきた。殆ど覚えてはないけどね」

 物心つく頃にはすでに京里忍城にいたから、実際のところ実感はあまりない。
 それでも脳に焼きつき、今も鮮明に思い出せる記憶はある。

「……てっきり産まれも育ちも京里忍城なのだと思っていた」

 虎一太は素直に思った感想を述べた。それほどまでに、雷蔵の忍びとしての技能は突出していたから。

「残念ながら生粋じゃないんだ」

 しかし当の本人は大して重要なことではないとばかりに色の無い笑みを湛えている。

「基本的に閉鎖されていた京里忍城でも、ごく稀に外の者を受け入れることはあったよ。本当に、滅多にないことだったけれど。……それでも結局、返り忠を防ぐことはできなかったみたいだけどね」
「……」

 『返り忠』という言葉に、虎一太は喉の奥に込み上げた苦い記憶を噛み締める。信長が内通者の手引きによって京里忍城の結界を突破し奇襲したというのは、以前に雷蔵の口から聞いていた。

「里を二度焼かれたせいか、時々思うんだよ。もしかすると、俺が『それ』を呼び寄せたんじゃないかってね」

 雷蔵が片膝に肘を立て顎をつきながら、静かに言った。庭先を望み、少し瞳を眇めるその姿は、どこかで目にした半跏思惟の塑像を思い起こさせた。己のことを疫病神か何かのように語りながらも、そこには卑下も悲嘆も悔恨もない。ただ幽玄で、浮世離れしている。

「考え過ぎだろう。こういう時代だ。お前の場合たまたま不運が重なったにすぎない」

 迷いなく率直に述べる虎一太に対し、「そうかな」と応じる横顔は静寂を湛えている。
 雷蔵は思う。自分は運命や宿命といったものなどどうでもいいと思っている。仮にそういうものがあるなら、きっと逆らわずに流されてきた方だろうし、そのことに特に何の感慨も持たない。けれど、そんな己の運命が周囲を“禍中”へと引きずり込んだのではないだろうか。〈龍の民〉の里では那由他として。そして京里忍城の隠れ里では雷蔵として。
 因果を感じずにはいられない。どちらの里の崩壊も、遠因に己が関わっている以上。

「君も、早いところ俺を放逐した方がいいかもしれないよ。災厄を呼び込む前に」
「生憎だが」

 虎一太は茫洋としながらも、はっきりと言い返した。

「今の乱れた世では、戦禍は常にそこら中に潜んでいる。たとえどのようなものであろうと、己の身に降りかかった災難を誰かの所為にするほど、俺は愚かでないつもりだ」
「君らしいね」
「お前は逆にらしくない」
「そうかもね。少し酒に酔ったのかもしれない」

 顔色にも口調にも酔った気配など全く見せずに、雷蔵は微笑んだ。ザルも酔うことがあるのかと、虎一太が不思議そうにぼやいている。顔に似合わず酒豪であることはとうに知られている。

(全く、これが酔いならばいいんだけど)

 逸らした目線の先で双眸を細めながら、雷蔵は微かな予感にさざめく胸中で、そっと呟いた。
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