ねんねんよ おころりよ
坊やは良い子だ ねんねんよ
まだ夜が明けぬ お目ざにゃ早い
良い子だ 泣くなよ ねんねんよ

――岡崎の子守唄



 鬱蒼と生い茂る山林の中は、暁宵も判別できぬほどに薄暗い。およそ人の通る路などなく、獣の気配さえ時に希薄に感じられるほど、静寂さに押し包まれている。しかしそんな感覚に相反するように、そこここの影に何かがじっと潜みこんでいるような気がする。見渡す限りどこまでも果てしない緑の迷宮。一度踏み込んだマレビトを逃さぬとばかりの、出口なき不気味な迷彩。

 その中に、道なき道を音なく分け入る影があった。彼らは指示にあった目印―――予め知らされていてもなお、よくよく目を凝らさねば見落としてしまうほど微かな―――を確認しながら、慎重に奥へと進み行く。そのうちに先頭を走っていた者が、緩やかに足を止めた。まだ若い。
 ざんばら髪を揺らし、高い上背を伸ばすように森を見上げる。それだけで後ろについて来ていた者達にも目的地に到着したことが充分伝わった。
 指定された場所は此処のはずだ。しかし相手の姿も気配も、それこそ影形すら見当たらない。約束の時刻にはいささか早かったか。この暗さでは正確な時刻は計れないが、少なくとも体内時計は確かに時間内であると訴えていた。

 彼はゆっくりと、霧に覆われた辺りを見回す。噂には聞いてはいたが、相当なものである。霊山の気配とでもいうのか。丁度熊野の奥地がこのような感じだった。
 つと、空気が裂かれる音を聞いた。
 青年は咄嗟に隠し持っていた苦無でそれを叩き落した。
 彼らの間に緊張が走る。一変して皆身構えていた。
 棟梁、と背後から窺う部下の声に、微かな動揺と懸念と疑心を読み取る。しかし彼は落ち着いて、動じるなと返した。敵の正体を見極めねば。
 続けざまに再び飛来するものがあり、影が一斉に散る。

(十五か)

 敵の数に対し、こちらは六人。少数だが選りすぐりの精鋭である。しかし相手もさるものであった。青年が二人目を倒した時には、他の部下たちはまだ交戦中であった。実力伯仲とまではいかないが、思いのほか梃子摺っている。
 敵は何者なのか。
 罠という文字が一瞬脳裏を閃いた。
 彼が部下たちの応援に回ろうと足を向ければ、次なる凶手が挑みかかって来た。初手を難なく躱すも、こちらの後の攻撃も防がれる。
 力で押し切ろうとした青年の背に、別の影が差した。ハッとする。
 敵の数は十五。しかしその影は、十六人目のものであった。

(潜んでいたのか!)

 ひやりと背筋に冷たいものが走った。
 斬撃を覚悟した背に、しかし予想したものは訪れず、代わりにグッと濁った呻き声が上がった。続けて草地に身体が倒れる鈍い音が立つ。
 陣風が走った。
 間髪入れず、敵の姿が地に沈む。まるで草を刈り取るがごとく、あっという間に頭数が減った。
 ことごとく一撃必殺の元に蹴散らす疾風(かまいたち)の正体を誰も見捉えることはできなかった。
 そして間もなくすべてが終わると、ようやく土に膝をついている者の存在に気づいた。
 静寂を取り戻した森の中、ゆるりと立ち上がる後ろ姿を、青年は見つめた。
 小柄な身体に、肩口より少し長めの髪が揺れる。
 振り返ったそこには、闇の中の湖のような黒瞳があった。
 奥深く、底知れず、静謐で、何人をも拒まないが、受け入れもしない。まるでこの霊山そのものを凝縮したような。
 気を呑まれる青年らに対し、彼は目を伏せ慣れた身のこなしでスッと片膝をつき首を垂れる。

「藤浮虎一太殿以下、影梟衆の方々とお見受けいたします。京里忍城が里長隠洽(なばりあまね)の命により、御迎えに参上仕りました」

 少女とも見紛う風貌は、声変わりを迎えておらぬ少年特有の声音を伴っていた。
 警戒を解かぬ配下を制しながら、虎一太は前へ出て応じた。

「そちらは?」
「雷蔵と申します」

 ざわりと後方で配下たちがさざめく。その雷名があまりに世に轟いており、なおかつその正体がこんな子どもとは、誰もが想像しなかったからだ。しかし先程敵を瞬く間に打ち倒した鮮やかな手並みといい、実力を疑う余地はなかった。

「ではそちらがあの薬叉か」

 虎一太は驚きを隠さず目前の少年を凝視していた。

「世間でそう呼ぶ者もいます」

 そんな反応には慣れているのだろうか。謙遜するでも、自負するでもない、極めて淡々とした受け答えだった。

「到着が遅れ、不覚にも外来の襲撃に御方々を晒しましたこと、どうぞご容赦いただきたく。どうやらこちらの情報が何者かに漏れていたようです」

 そう言って、最後に沈めた刺客の身体を軽々と肩に担ぎあげ、音を立てず立ち上がる。疑問を込めて見つめる虎一太に、「この者のみ薬で眠らせてあります」と何と言うことでもない風に答えた。どこに雇われた者か、口を割らせるためなのは言うまでもない。どれを取っても、とても見た目通りの年齢とは思えぬ挙動であり、頭の回転であり、力だった。そして微かな―――血の臭い。

「いや、大事はない。こちらも無傷で済んだことだ。それに、時に遅れたのはそちらも襲撃を受けたためだろう?」

 少年はきょとんと顔を上げて虎一太を見た。瞬きののちに答えの替わりににこりと笑む。

「ここより先は私が案内いたします。里への道は里の者にしか開けません」
「そうか。すまないが、頼む」

 この時虎一太は二十三、先だって正式に棟梁に就任したばかりであり、対する雷蔵は年にして十六。これが初の邂逅であった。
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