おっとさんが呼んでも
おっかさんが呼んでも
いきっこなしよ



 やにわに、白魚のような繊手が掠め過ぎかけた袖を引いた。
 伸びた腕を彩る袖は派手な柄の鮮赤色、そして引かれた袖は対照的に―――実に対照的な墨色。

―――遊んでいかないかい?」

 ねえ、お兄さん。
 着物よりも更に赤い紅をひいた唇が、吐息を零すように誘った。
 半ば諦め、半ば自棄のように、こめかみから一筋伸びる髪を咥えていた女は、ややしてから身動ぎ振り向いた姿に軽く瞠目した。
 過ぎ去る袖を何故引こうと思ったのか、女は分からない。
 掴む手をなぜ黙殺しなかったのか、彼は分からない。
 ただ、いつにない気まぐれ心が起きたのは、記憶の影を重ねたからかもしれなかった。瞳に映る憂いと―――重い病の香りに。




 視界の先で、店の入り口から出てきて、向こう側へと歩み去っていく人影があった。見かけたことのある顔だった。あの独特の衣の形と色合いは、聖職に身を捧げた者の証。
 少年は顔に軽蔑の色を交え、眺めやった。その人物が現れた店が、どのような品を売っているのかを知っていたから。
 この国の聖職者はやはり汚れきっている。彼らは快楽に堕ち、悪魔の囁きに耳を貸し、人々を悪の道へと唆しているのだ。あのような者たちから人々を救わなければならない。仲間が口々にする義憤を、少年も胸中で再確認する。

 ―――うさぎ うさぎ 何見て跳ねる

 ふと、風に乗って耳に届いた歌声に、上空を見上げた。
 色鮮やかな軒並みの二階に、窓辺に凭れる女の後ろ姿がちらりと垣間見えた。
 晒された眩しいまでの白い項に、緩く結いあげられた艶々しい黒髪から、零れた毛が幾筋か掛っている。
 深く抜かれた衣紋の色鮮やかさと相まって、濃厚な色香が漂っていた。
 遊女。いつもなら憐れみと軽蔑の、矛盾した気持が沸くだけだった。
 けれど何故かその時だけは。

 ―――十五夜お月さん 見て跳ねる

 空を見上げる後ろ姿を目にし、祈るような細い歌声を耳にした時だけは、言いようもない思いが込み上げ、胸を締め付けた。それは女が、退廃的な身形をしているにもかかわらず、まるで乙女のように清く可憐であったからかもしれない。
 熱視線に気づいたのか、歌が止み、ゆらりとおくれ毛が揺れる。気怠げな雰囲気を漂わせながら、濡れた黒い双眸が窓辺越しに向けられた。

「おや、坊や」

 細首を微かに傾がせ、ゆっくりと微笑む。
 少年の雀斑の散る頬が、さっと朱く染まった。視線が絡んだ瞬間どきりと鼓動を打った胸を押し隠すように、慌てて顔を逸らして、足早に道を急ぐ。

「またおいで」

 通り過ぎた瞬間、背後から追ってきた声に、少年は振り向かなかった。
 彼はその道が嫌いだった。その先に居住する者たちに教理問答(カテキスモ)を行うためには、どうしても通らねばならぬ道だった。その道は、いや、その街は、春を売る女の住処だった。汚れ、堕ちた娼婦たちの巣は、甘い香りに満ちすぎて、まだ幼く敬虔な彼には、あまりに息苦しかった。
 けれどその日以来、彼は何故か毎日そこに足を運んだ。自分でもわからないが、気づけば道の先で行う教理問答の担当を買って出ていた。
 ある時は素知らぬふりで通り過ぎ、ある時は少し立ち止まって何かを探すようにしながら、同じ道を辿る。そして目的の姿を見つけると、心臓が痛いほど脈打った。女はいる時もあればいない時もあった。いれば、時に少年へ微笑みかけ、そして時に気づかぬそぶりをした。そんなことにさえ一喜一憂してしまう己に当惑しながら、止めることができなかった。神に仕える身で、と何度も何度も己を諌め、嗜め、神に許しを請い、救いを求めて懺悔した。けれども少年の心から女の姿が消えることはなかった。これも神が与えたもう試練なのだろうか。

「坊や、寄っていく?」

 ある暮れ、帰り道で初めて女がそう尋ねた。
 少年は棒のように突っ立ったまま、答えられずに迷った。駄目だ。駄目に決まっている。娼婦の誘惑に乗るなど、神への裏切りだった。
 なのに、足は勝手に敷居を跨いでいた。もしもこの光景を誰かに見られでもしたら。今ならまだ遅くない。引き返せる。冷や汗が流れた。それでも爪先は女を目指した。番台にいた女将が胡乱気に見たが、下に降りてきた女が一言言うと、しかめっ面をしたまま無言で通した。
 少年にとって、この国の精巧に作られた蓆はいまだに慣れぬものだった。正座も慣れなかった。井草の香がかすかにする筵の上に坐しながら、緊張で身体が固まっていた。
 女は、酒と食物の乗った膳を運んできた。慌てた少年に、彼女は先回りして言った。

「金なら気にしなくていいよ。あたしのおごりだ」

 優雅な所作で少年の隣に座り、袖をつまんで酒精を盃に注ぐ。その腕の白さに胸を高鳴らせ、同時にその細さに心を痛めながら、少年は極力女を見ぬようにして、酒にも手をつけず、ただ黙々と薄味の料理を口に運んだ。箸はこの国に来てからいやというほど練習したので、拙いながらもなんとか使えるようにはなっていた。

「あんた、言葉分かる?」

 隣で瞼を眠たげに落としながら、面白そうに観察していた女が訊いた。少年は躊躇いがちに頷いた。

「ふうん」

 女は笑い、立ち上がった。赤い裾を払いながら窓辺に移動する。少年はその場を動かず、残りの料理を丁寧に味わい続けた。

「あんたさ、いつもそこからあたしを見てただろ」

 飲み込んだものを喉に詰まらせた。ついせき込み、顔を真っ赤にする。彼女は可笑しそうに笑い声をあげた。

「なんでだい?」
「……」

 少年は箸に目を落とし、答えあぐねていた。しばらくしてから、ようやく「分かりません」と蚊の鳴くような声音で囁いた。
 女とのはじめての会話だった。
 女はそんな少年を、優しげに見つめながら、微笑した。

「あたしと寝たいのかい」
「そっ、そういうことは!」

 とんでもない発言に、少年は飛び上がって声を引っ繰り返らせる。

「あはは、坊やは正直だねぇ。まだ女を知らないんだろ。童貞かい?」
「ぼ、僕はそういう……!」

 顔を真っ赤にし、どもりながら、少年は女を睨みつけた。

「そういう、み……淫らなことなどしません!」
「ならなんであたしの誘いに乗ったのさ、異人さん?」
「それは」

 女の視線から逃れるように、彼は床へ目を落とした。まるでそこに答えが落ちているとでもいうように、畳の目をひたすら追っている。

「冗談だよ。あんたがあんまり可愛いものだから、ちょっとからかってみたくなっただけさ。まああたしみたいな冴えない女、誰も抱きたいとは思わないだろうけどね」

 穏やかな口調で、青白く痩せ細って己の両腕を抱く。折れそうな喉から鎖骨にかけて骨が浮かび、薄い皮が張り付いている。頬は紅を差しても誤魔化しきれぬほど顔色が悪い。
 少年は目を上げた。

「そんなことはない。あなたはとても綺麗です」

 何を言っているんだ自分は、と口走ってから思った。顔が熱い。酒は飲んでないはずなのに、血が上る。
 女は驚いた様子だった。ぽかんとして、少年を見返している。

「僕は、その、聖職者ですから、女性に触れたりとかできないだけで、その、貴方が美しくないとかそういう意味ではないのです」

 彼は本気だった。本当に心から、そう思った。男に身体を売ることを生業とする遊女。穢れているはずの心身。けれどそれでも彼女は美しかった。すっと通った鼻筋と涼しげな目尻が、夜空に浮かぶ月を思わせた。
 数拍ほど我を忘れていた女は、ようやく笑みを零した。

「いいんだよ。どうせ瘡持ちだからさ。どっちにしたってやめておいた方がいい」
「瘡?」
「二度目なんだ。ぶり返しは死病のはずが、奇跡的に治りかけてるけどね。でも、ありがとうよ」

 最後の一言に、少年もほっと微笑んだ。

「かぐや姫って、知ってるかい」

 不意に女はそんなことを呟き、喉を反らした。視線の先には、いつの間にか昇った月が滑らかな乳白色に輝いている。

「ようやく好いた男ができたのに、最後はすべてを捨てて、全部忘れて、男を置いて月に帰っちまうんだ」

 歌うように語る横顔に、少年はぼうっと魅入った。

「残された男は毎夜月を見てどんな思いになっただろうってさ」

 「切ないねぇ」眉宇を少し寄せながら笑う。今にも泣きそうな、悲しい笑顔に、少年は胸を締め付けられた。

「そこにあるのに、手を伸ばしても届かないんだ。遠くて、遠すぎて」

 女はひたむきに瞳に月を映している。

「どれだけ恋うても、こうして見つめ続けていることしかできないんだ」

 独り言めいた言葉がちくりと刺さった。
 痛み。それは直感だった。少年は尋ねた。

「あなたも、届かぬ想いを見つめているのですか」

 女はゆったりと顎を落とし、少年に白い面を向けた。
 両目を眩しげに細め、そして再び外に滑らせる。けれど今度は空ではなく、地上を行きかう人々を見ていた。

「気まぐれ、だったんだよねぇ」

 誰へともなく放たれる独り言。
 ほんの一時的な、気まぐれだったんだ。
 いやに幼顔の世捨て人が似合わぬ色街を歩いているものだから、ちょっと揶揄ってやるつもりで引っかけた。今の坊やみたいにさ。なのに。
 クスクスと喉を震わせる。

「部屋に入ってさ、酒も肴もそっちのけですぐに手首を取られたもんだから、見てくれのわりに意外と好き者なのかと思ったよ。それならそれで死出の道連れに伝染してやろうって思ったのに、顔色一つ変えずいきなり『病はいつから』って訊いてくるんだもの。さすがに呆気にとられちまったね」

 面立ちに不釣り合いな凪いだ瞳と柔らかな物腰で、淡々と触れる手つきには情欲の欠片さえなかった。

「抱くわけでもなく、薬と花代置いて、あっさり帰っちまう。そしてある日『これで最後』って言うのさ。たったの三回だよ。三回会っただけで、こんなに心をかき乱しておいて、あっちは涼しい顔で知らんぷり。酷い男さ。初めからあたしのことなんて目に入っちゃいないんだ。こっちだって気まぐれだったのに、ずるいったらありゃしない」

 毒づき、自嘲しながら、なお愛おしげな語り口に、少年は無意識に胸元を押さえていた。深く、細く呼吸をする。

「皮肉だね。すぐそこにいるのが分かっているのに、手を伸ばしても届かないんだ。ならいっそ当てつけに残りの薬ぜんぶ不二の霊薬よろしく焚いちまおうかと思ったけど、結局できなかった」

 そっと、袷の上に手を添える。
 微笑みを湛える頬に、一筋の雫が線を描いた。
 静かに涙を落とす横顔の美しさに心奪われながら、少年は女にかける言葉を失った。ただ、女がいつも浮かべていた遠い眼差しの先を、細い歌声の向けられた相手がいることを知って、身を裂かれそうな悔しさを噛みしめた。
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