「bravo!」

 左脇で上がった音と声に、雷蔵は顔を上げた。
 唐服のような長い黒衣に白襟を巻いた見慣れぬ姿が立ち、しきりに手を打っている。蒼い瞳がこちらを見つめ輝いていた。
 さっきから妙な視線を感じてはいたが、これかと内心で思いつつ、きょとんと見返す。
 拍手を止めた青年は、改まった仕草で帽子をとった。

「Boa tarde」

 にこりと笑う。なおも黙然と首を傾げれば、

「どうもこんにちは」
「あ、どうも」

 流暢な和語とともに丁寧に頭を下げた赤毛の異人に対し、雷蔵もつられるようにぺこりと挨拶を返した。

「あのー大変失礼ですが貴方はワカシューさんですかムスメさんですか」

 異人との遭遇は誠に唐突ではあったが、その第一問もまた実に直球であった。
 しかし雷蔵は慣れたもので(最近は少なくなったとはいえ勘違いする輩はたまにいないでもない)、別段怒ることなくいつものように愛想良く笑む。

「男だよ。若衆という歳でもないけど」

 然様でしたか、と青年は目を丸くしている。ある程度分かってはいたものの、やはり少々信じられぬといった様子で上から下まで観察している。

「ああ、申し遅れました。私はジョゼ・ジュスト・ルイ・デ・フェレイラと申します。イルマンとして葡萄牙(ポルトガル)より参りました」
「それは遠路遥々ようこそ……」

 思い出したように自己紹介を始めた青年に雷蔵は思わず考え込むような顔をした。
 耳はいい自信はあったし、いかに長ったらしくとも氏名肩書を瞬時に覚える癖は身についていたが、さすがに異人のとなると一度で正確に理解することは困難であった。というか、長すぎて一体どこからどこまでが名前なのか正直分からない。ついでに知識として国名を聞き知ってはいるものの、どこにあるのかまでは承知していない。
 相手の惑いに気づいたらしく、あるいはこういう反応には慣れているのか、青年は眉毛を下げた。

「この国の人にはどうも覚えにくく発音しづらい名のようです。仲間は(ラテン)語音でユストと呼びますし、ルイと呼ぶ者もいます。お好きに呼んで下さって結構です」
「そう?」

 相槌を打つのみで一向に会話をしない雷蔵に、いささか当惑気味に青年は尋ねた。

「お名前をお聞きしても?」

 名乗ることに意味があるのかどうか。これは一期限りの出会いではないと言う示唆であろうか。
 逡巡を経てから、結局「雷蔵」と短く答えた。
 ユストと名乗った異人は、その名を口の中で転がしている。
 ちらりとユストの背後を一瞥する。向こうには同じような黒い外套を纏った異人の集団が、こちらを不可解そうな眼差しで眺めていた。
 そんな仲間の様子に気づいていないのか、ユストはにこやかに言う。

「先程から聴いておりました。とてもお上手で、感動しました」

 しかし雷蔵が無反応で見返してくるので、急に顔が戸惑いと不安に曇る。

「あの、私何か言葉を間違えましたか」

 和語の使い方を間違えて、機嫌を損ねたかと思ったのだろう。
 雷蔵ははたと瞬いてから、いいやと笑った。

「逆だよ。和語が上手だからちょっと驚いて」
「ここへ来て3年、勉強して覚えました。でもまだまだ難しいですよ」
「それだけ話せていれば十分だと思うけど」
「どうもありがとう」

 普通は謙遜するところを青年はにこにこと礼を言う。それから興味深そうに雷蔵の腕にある楽器に目を止めた。

「それはビワですね」
「まあ、そうだね」

 雷蔵は面倒を避けて肯定した。

「ちょっと触ってみてもいいですか」
「どうぞ」

 何の躊躇もなく、あっさり承諾して指し出した。
 ユストは跪くようにしてそっと受け取り、ほう、と嘆息しながらまじまじと観察している。

「これほど間近で見るのは初めてです。四弦……六弦琴のヴィオラとも全然違う。しかも手じゃなくて、専用のピックで弾くというのも」

 ブツブツ呟きながら、弦を指ではじいてみたりする。ポン、と軽い音が響いた。

「……あれ? 先程と音色が違うような」
「こいつは気難し屋だからね」

 雷蔵は含み笑いながら、再び楽器をユストの手から受け取って袋へと戻す。

「面白いですね。楽器が奏者を選ぶのですか。東洋の国々はやはり興味深いことだらけだ」

 ユストはまるで学者か何かの顔つきで、ふと雷蔵の目をじっと見据えた。

「見えてはいらっしゃるんですね」
「見えるよ」

 (めしい)だと思った?と微笑して訊き返す。ユストは微苦笑で返した。

「わが国でも手回し風琴を弾く芸人(サンフォニネイロ)は盲人が多いものですから」
「まぁ琵琶法師に盲が多いのは確かだけど、必ずしもそうとは限らないからねぇ」

 第一にして、雷蔵はそもそも琵琶法師ではない。

「先程唄ってた歌は、讃美歌ですか」

 蒼い両目をキラキラとさせてユストは次々と質問を重ねる。

「いや、ただの唄」

 本当は違うが、説明するのは面倒だし不必要である。
 雷蔵自身はこうした目立つ往来で弾くのは本来好まない。だが彼の持つ龍弦琵琶の名を冠する楽器は、魔の集まる場や汚れた所を嫌う。そのような地に踏みこむと途端に鳴き出すのである。それは奏者の資格のある〈楽師〉にしか聞こえぬ音なき音だが、聞こえる奏者にしてみればやかましいことこの上ない。それも、瘴気が濃ければ濃いほど鳴き声も煩くなるから困りものだ。感応力の高い〈龍の民〉の村落にあった頃は、村そのものが基本的に聖域に近かったから大人しかったそうだし、京里忍城においては家中でも常に清めたところに安置していたからさほど問題なかったのだが、外界は邪の気に満ちている。おかげで隠れ里を出て以来、雷蔵はこれを宥めるために一々弾いては周囲を祓い清めなければならぬ羽目になっていた。
 といったところで他人の信じる話でもなく、また開けっ広げに明かす内容でもない。ましてや相手は異教の信徒だ。

「ところで、お友達が待ってるようだけど」

 雷蔵は話を切り上げるようにユストの後ろへ視線を投じた。ユストはああ、と目を瞬き、頭を掻いた。

「そうでした。これから伝道に行かねばならぬのです。素晴らしい音楽に聞き入るあまりうっかり忘れておりました」
「異国の人にそこまで褒めてもらえて光栄だよ」

 一応心にもない礼を言っておくと、ユストの顔が輝く。全く一々の反応が大袈裟すぎると思うのだが、南蛮人とは総じてこういうものなのだろうか。

「ところでライゾウさん」

 仲間はいいのかと言ったばかりだというのに、全く気にした様子もなくユストは会話を続ける。

「デウスの教えに興味とかありませんか?」

 にこやかな質問は、やはり直球である。
 なので雷蔵も、屈託ない笑顔で打ち返す。

「全然」

 ユストはしゅんと眉をハの字にした。そうですか、と小さく応じる。

「君らの神様を否定する気はないけど、俺もやっぱり同じように仏の教えを信じて身を捧げているわけだから」

 これまた心にもないことを平然と口にする。

「嘘ですね」

 意外にも、即座に見破られた。
 おや、と雷蔵は小首を傾げる。

「なんでそう思う?」
「だってライゾウさん髪の毛があります。Bonzos……坊主はみなさんハゲ頭です」
「うん、ハゲじゃなくて剃髪ね」

 世の中の坊主頭の名誉のために一応訂正を入れておく。

「仏道にも色々宗派があって、俺は有髪密多宗ってやつで髪を伸ばしていい教義なんだ」
「そうなんですか?」
「そうそう」

 もちろん大嘘である。
 しかし雷蔵は至極真面目な顔でもっともそうに頷いた。

「それに仏像を見てごらんよ。どの仏像も髪の毛ちゃんとあるから」

 地蔵菩薩は例外的に禿頭だが、それはそれ。
 ユストは残念そうに首を振った。

「異教の偶像にはそこまで詳しくありませんので」

 勧誘失敗と分かってか、悄然と嘆息する。が、気を取り直したように顔を上げた。

「今回は残念でしたが、もし気が変わったらいつでも言って下さいね。歓迎します」
「気が変わったらね」
「私たちの司祭館(カザ)はこの町の南西にあります。気が変わらなくても、何か困ったこととがあったらぜひ頼って下さい。私たちが必ずお助けします」
「困ったことがあったらね」

 愛想良くも釣れない相手にめげず、ユストは両手を組み合わせた。

「これもきっと神のお導きでしょう」

 言うなり腕を広げて抱擁してきた。楽器入りの荷を抱えて座ったままの姿勢であった雷蔵は、思わず逃げる時機を逸した。

「昨日の他人は今日の隣人、今日の隣人は明日の友です。別れは惜しいですが―――
「……何してんだ?」

 訳の分からない文句の上から、呆れたような声音がかかった。
 抱きつかれた格好のまま、雷蔵はのんびりと手を振る。

「やあ美吉」

 そこには腰に手を当て仁王立ちする相棒の姿。おまけに今は法衣を捲りあげ両肩剥き出し、頭部は作業者のように布切れで覆い、あちこち黒ずみだらけという有様で、まるで漁港で働く水夫の一員だ。極めつけとばかりに、肩には重そうな工具一式を担いでいた。雲水に袈裟をかけていることで、辛うじて法師であることが知れるが、はっきりいって正体不明である。

「これはまた随分と勇ましいご登場で」
「俺のことよか、お前だろお前」

 身を離したユストは、胡乱気に眉を潜めている美吉を見上げ、ポカンとしていた。
 一杯に瞠った青い目に、その姿を映している。
 「おい、こいつ伴天連僧じゃねえか」などと動転する美吉の声など聞こえてもいないかの様子である。
 しかし数秒後にハッとして、雷蔵と美吉を交互に見やり、それから再び美吉にじっと視線を注いだ。
 穴が開くのではないかとばかりの凝視と、見慣れぬ碧眼が落ち着かないのか、美吉は居心地悪そうに頬を引き攣らす。

「おい、なん―――

 なんだ、と言おうとした刹那、

「破戒僧!」

 指を指されての一刀両断。

「知ってます、貴方みたいなのを生臭ボーズというのでしょう」

 瞬時にして石炭化した美吉に代わり、雷蔵はすかさず言った。

「ああ、これは蓬髪天狗宗という宗派でこれが仕様だから、気にしないで」
「そうなんですか?」
「そうそう」

 何だそれは、と突っ込みかけた美吉だが、どうやら面倒になりかけたことが上手く収拾つきそうになっているらしいのを勘で察し、余計な一言を呑み込んだ。

「おい、ユスト! いつまでやってんだ!」
「早くしないと日が暮れてしまうぞ」

 ついに痺れを切らしたか、黒尽くめの集団から苛立った催促がかかる。存在に全く気づいていなかった美吉はぎょっとして身を引いた。言葉が分からずとも怒気は雄弁に伝わってくる。

「すまない、今行くよ」

 ユストはやはり彼らの言葉で大声で応え、雷蔵を振り返って鮮やかに和語へ切り替えた。

「貴重な出会いができて良かったです」

 膝を伸ばして立ち上がり、茫然としている美吉に向き直る。

「貴方にもお会いできて光栄です」

 空いている方の手を強引に握ってぶんぶん振る。美吉は完全に呑まれており、されるがままだ。

「私はユストです。どうぞお知りおきを」
「へ? あ、ああ」

 辛うじてそう答えたもののまともに聞いていなかった美吉は、次の瞬間手の甲に触れた感触に、音を立てて凍りついた。

「……うぎゃぁあ!」

 悲鳴とともに飛び上がり、なりふり構わず手を振り解いて逃げた。「気色悪ィ!」を連発する。

「何しくさっとんじゃオメェは!! 俺に怨みでもあるのか!?」

 他人事顔の雷蔵の背後に隠れるようにして抗議する姿は、残念ながら情けないの一言につきる。
 次の瞬間には「だからって俺の衣で拭くな」と雷蔵から肘鉄を入れられ、呻いた。
 ユストはこれはうっかり、とばかりの表情で、

「そうでした。この国では接吻(オスクルム)の習慣はありませんでしたね」

 まぁいいやとばかりに笑んだ。礼儀正しく帽子を胸にあて、目礼する。

「またどこかでお会いしましょう。では」

 来た時と同じあっさりで、仲間の元へと走っていく。

「雄包む!? おおおおい、悪いが俺ァそっちの趣味は……」

 何を勘違いしたか青い顔で寒疣を立てて呟く美吉を尻目に、雷蔵はその後ろ姿をじっと見据えていた。
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