「はぁ?」

 間髪入れず素頓狂な声が上がった。それから数拍して、ぐるりと首を隣へ向ける。

「おい、通詞(やく)してくれ」
「この国が欲しいんだってさ」

 雷蔵はあっけらかんと繰り返した。美吉の顔がこれでもかとばかりに歪む。「何言ってんだ、こいつ」

「国って、肥前国かい?」

 雷蔵は頬杖をつき、平坦に問い返す。この対照的な反応を楽しみながら、ユストは首を振った。

「もちろんこの国―――日本のすべてを手中に収めます。肥前はその布石にすぎません」
「南蛮人の君がこの異国を征服して、何がしたいわけ?」
「神の国を作るのです」

 神の国、と雷蔵はぼんやりその語を舌の上に転がした。わずかに瞼を下ろした双眸は、何の色も映していない。

「なるほど。で、その意味(こころ)は?」
「……」

 ユストは意味深に唇をつり上げた。どこか妖しい、いびつな笑みだった。
 呼吸を測るように、ゆっくりと口を開く。

「世界を」

 間違ったこの世に、粛清を。
 雷蔵も、隣に座る美吉も、沈黙した。
 ユストの瞳は、奥底に狂気を宿しながらも、本気だった。

「……全っ然、意味分かんね」

 ぼそりと美吉が吐き捨てる。

「この地はまだ列強の思惑に染まっておらぬ、まっさらな国です。ここを足がかりに、世界へと出る」
「また大それた夢物語だな。海を隔てたとこには強大な唐土がある。その先には天竺だ」
「あなた方は世界を知らない。印度―――あなた方が天竺と呼ぶ国は、すでに英吉利の手に落ちつつある。たしかに支那も大きく強力ですが、我らの敵ではない」
「やりたきゃあんたらで勝手にすればいい。だがこの国には何の関係もないし、俺らも興味なんかない。征服だか粛清だか知らねえが、他人を勝手に巻き込むな」
「ここは東の果てだ。背後には敵がない。国民も従順で染めやすい。だからここがいいのです」

 ユストは椅子から腰を上げ、立ち上がる。

「……仮にそうだとして、何故そこに俺たちが出てくる?」

 雷蔵はやはり落ち着いたまま、静かに質した。顎を上げ、ユストをまっすぐ見上げる。
 ユストはにこり、と元の温和な表情に戻った。それこそが本題とばかりに。

「あなた方の異能の力を下さいませんか」
「あいにくだけど、俺たちには君の望むようなことは何もできないよ。俺は祓うことしかできないし、美吉は視ることしかできない」
「それは嘘ですね」

 自信満々に否定される。
 それから暗い眼差しを―――美吉にあてる。

「『それだけ』じゃないでしょう?」

 ガタッと美吉が卓に両手をつき、音を立てて椅子から腰を浮かせる。刃のような壮烈な眼光を白皙の面へと注いだ。

「さっきから勝手なことばかり言いやがって。何がどうだか知らねぇが、どうでもいいし興味ない。俺は帰る」

 動じずに、ユストはもう一方を見る。

「あなたもですか?」

 雷蔵も肩を竦めてみせた。

「残念ながらご期待には添えそうにもないね」
「決まりだな。交渉決裂だ」

 美吉は結論付けた。
 そうですか……と異国の僧は赤毛に縁取られた瞼を伏せ、静かに嘆息した。

「では、少々気は進みませんが―――強行手段といくしかなさそうですね」

 にわかに室内の空気が緊迫する。
 ユストが手をすっと挙げ、何事かすばやく唱えるのと、二人が宙に五本の線を引いたのは、ほぼ同時だった。
 視界に稲妻が一陣駆け抜けた。燭台の炎が一斉に消える。
 蝋燭の代わりに防御の結界に照らされながら、手刀印を構えた美吉が唖然となる。

「何だこれは」

 足元に、床を埋め尽くさんばかりの青白い文様が輝いていた。

「おい雷蔵、判るか?」
「君に解らないものが俺に判るわけないだろ」

 背中合わせに、やはり手刀印で空中の晴明桔梗(セーマン)を維持する雷蔵が素っ気なく答えつつ、部屋中に視線を走らせる。控えていた者たちは平然としている―――やや強張った面持ちではあったが―――ところを見れば、彼らは事前に知らされているのだろう。
 間一髪で防塁を築いた二人を、ユストは隙のない目つきで見つめている。

五芒星(ペンタルファ)―――まさかこのようなところで『魔法使いの星』にお目にかかるとは」

 あるいは「悪魔の印」、「悪鬼の十字架」、「魔女の十字架」、「魔女の足」―――教会の人間は黄金比で形成される五角の星をそう呼んで忌んでいた。しかし元は、古い昔から神秘なる図象と崇められていたものだ。ある時は神の星、ある時は女性の子宮、ある時は「切れ目のない」護符として。

「あなた方も『星』を持っているのですね。ならば」

 ユストは鋭く呪文を唱える。と、足の下で光の線が揺れ、一部が変形し始める。
 完成した図形は、五芒星に似ているようで五芒でなく、六つの角を持っていた。

(これは……籠目?)

 雷蔵が怪しんで眉を顰めると、ユストはにやりとした。聖なる正三角形は天と地、火と水、男と女の証。それを上下に交わらせたソロモンの封印(ヘキサグラム)は大宇宙の相似、精霊召喚の『門』となる。

〈Vi Veri Vniversum Vivus Vici〉

 文言が声高く詠唱されるや、二つの桔梗紋が玻璃の音を立てて散った。
 驚く間もなく、ガクンッと地が揺れた。否、地が揺れたのではない。自分が傾いたのだと気付いた時は、美吉は柔らかいものの上に頬を付けていた。視界が半分遮られるほど脚の長い絨毯に埋もれていた。

 なんとか腕を張って身を起こそうとするが、叶わない。先ほどの十字架とは比べ物にならぬ負荷だった。必死に後頸に力を入れ、頭を巡らす。雷蔵もまた床に這って、苦悶の汗を浮かべていた。
 美吉は左眼を抉じ開けた。絨毯に浮かび上がる六芒星(かごめ)を中心軸とし、いくつもの図形が複雑に融合した陣形は、術の式だ。初見ではあるものの、理を読むことはできる。が、解き方までは分からない。奇妙な波動だった。力の源流であるところに、何かが埋め込まれているようだ。
 はっ、と浅く息を吐き出した。肋骨と肺が圧迫されて苦しい。雷電に身体が痺れる。

「こういうの、和語では敵ながらアッパレというのでしたか。椅子の方の術はあっさり見破られてしまいましたし、お茶に入れた薬の方は何故か効きませんし。おまけに最終手段を使った挙句、ペンタクルが飛び出してくるとは、本当に面白い」

 ユストはクスクスと喉を鳴らし、愉快そうに碧眼を細めて、二人を眺めている。
 薬が効かなかったのは当然だった。美吉は左眼によって何か盛られていることを知っていて飲んだふりしかしなかったし、雷蔵は元より大抵の薬に耐性がある。
 しかし最後の謎の結界ばかりは、感知できなかった。幾重にも巧妙に隠されていたのだろう。

「この部屋の各所に埋めたタリスマンは強力です。さすがに動けないでしょう」

 にっこりとユストは言った。

「こんの、くそったれ」

 噛みしめた歯の奥から唸る。
 地中に埋まる呪具によって描かれたものならば、地の〈秘伝〉でどうにかできるかもしれない。しかし力を振り絞って精神集中を試みた美吉の後頭部で、ガツンと不穏な音がした。

「ぐッ!」

 重い衝撃とともに視界が揺れる。

(畜生……)

 急速に閉じ行く意識の中、美吉は深い闇へと落ちていった。
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