「何だか長い夢を見ていたような気がするよ」

 街道を草鞋で擦りながら、惣之助は万感の思いの込もる口ぶりでそう言った。
 あとから追いかけて来た佐介も、無言でそんな若い謡曲師を見やっている。

「伊村の家に戻るのかい」

 雷蔵の問いに、頷きで返す。

「許されぬかもしれないが、土下座してでも何日も門前に張り付いてでも、頼み込んでみる。もう一度一からやり直したいんだ。下っ端の雑用からでも構わないから」

 そう決心を口にする惣之助の瞳には、静かながらも芯の強い光が讃えられている。
 雷蔵はただそれに双眸を細めた。
 やがて街道の分かれ道に差しかかったところで、惣之助とは違う道を行くことを告げた。

「そうか、ここでお別れか」

 共に行けぬのが残念だと惣之助は肩を落とした。

「いつかどこかで、次期与左衛門の謡いを耳にするのを楽しみにしているよ」

 一切の皮肉も邪気も無くそう言った雷蔵に、惣之助ははにかんだような控えめの微笑を浮かべる。それは言祝ぎだった。

「それから今回教えたあの歌―――君なら一人でも謡いこなせると思う。ただあまりお勧めはしない。理由は分かっていると思うけど」

 かなり強力な浄化の呪歌だ。今回は雷蔵が補佐をしていたし大事に至らずに済んだが、使い方を誤れば己が身を滅ぼす。それでも禁じはしない。どのようなものであれ、歌は歌唄いのものだ。それを制限する権限など己にはない。

「胆に銘じておくよ」

 真摯な面持ちで頷く惣之助に、雷蔵は淡く笑み返す。

「世にも稀な神歌唄いに会えて嬉しかったよ」
「俺の方こそ、雷蔵殿に出会えて本当に良かった。君は俺が知る中でも最高の歌唄いだ」

 その瞬間、惣之助が瞳を曇らす。

「そしてどうか君にも」

 ふと零れた台詞に、雷蔵はきょとんとする。
 惣之助は視線を一度だけ逸らし、逡巡するようにしてから、言を接ぐ。

「君が俺の謡いを聴いて俺の心を感じ取ったように、俺もあの時君の唄を聴いて、少し感じ取れたものがある」

 その内容に反応したのは、むしろ側で聞いていた佐介だった。
 互いに同類であるからこそ。同じく歌唄いであるからこそ、響き合うものがある。
 惣之助の表情はどこか沈み込むようであり、あるいは哀しむようでもあった。
 雷蔵の唄はとても透明で美しかった。どこまでも透き通ったそれは、深く青い海を思わせる。けれどもそこには、何かが欠けている。綺麗なのに、何か一つ足りない。束の間触れた裡側は、まるで冷たく凍てついた結晶のようで―――惣之助は一瞬だけ、どこまでも続く暗闇と、深々(しんしん)と広がる雪原を垣間見た。
 一見朗らかに映る彼を、何がそうさせたのかは分からない。ただそこには哀しみも喜びもない。淡々と流れゆく時と、何も感じぬ心だけ。

「いつかそれを君が取り戻せるように。君が俺に思い出させてくれたように。そう心から祈っているよ」

 雷蔵はただ瞬き、それから微かに苦笑を浮かべて、そうなるといいね、と呟いた。




 雷蔵が叔父である日高に連れられ隠れ里に来たのは、四つの頃だ。その時からすでに何かが欠け落ちていた。
 来た時こそ雷蔵はまるで人形の如く無表情であった。瞳にも光がなく、といって狂気じみた闇もない。まさしく“無”。何もそこにはなかった。それを子供心に恐ろしく、同時に無性にやきもきしたのを、佐介は今でも克明に覚えている。
 それが、数日もするといきなり人間に戻ったみたいに、その面には表情があった。里に馴染むのにそう時はかからなかった。里の子より遅れて忍びの修行を始めたのに、見る間に抜きん出た才覚を発揮し、里の誰もが期待の若手として注目した。
 傍から見ている分には、雷蔵は常に朗らかで、誰とでも上手く付き合っていた。けれども佐介には、その笑顔の下に時折あの時の“無”を感じていた。表情がどこか上辺だけのものに思えたのである。周りからは雑駁な性質で取られがちな佐介だったが、その実人の心の機微に敏いところがあった。

 雷蔵の言動は決して見た目通りではない。面倒を避けるために、相手が望む、そつのない態度を取る。といって全てが偽りというわけでもない。その証拠に、佐介など一部の者には、物事への無頓着、無関心ぶりを隠さなかったし、仕事においての無情さは語り草になるほどであった。
 そんな雷蔵を、まるで生きながら死んでいるようだと、佐介はいつも思っていた。表情は他者と要領よくやっていくための道具でしかなく、演じるうちに知らず身についてしまっただけとばかりだった。しかし浄めの呪歌を唄っても、雷蔵自身には何も効果も生まないのは、その魂が別に闇に囚われているわけではないからだ。ただ麻痺しているのだ。

 そうと知って友人でありつづけたのは、生来のお節介性から、気になって放っておけなかったのかもしれない。あの“無”を覗き込んでしまったから。無論、同じ忍びとしての強さに純粋に惚れ込んでいたのもある。成人の儀で辞世の句に誓った生き様は、まぎれもなくそういう思いから来た覚悟だった。今でこそ別の人物に仕えているが、あの時に抱いていた気持ちは今でも残っている。
 それゆえに惣之助が言ったことには驚いたが、彼の願いは佐介には痛いほど理解できた。
 常に歯痒く思ってきたからこそ。

―――……」

 惣之助と別れてしばらく、沈黙を伴に物思いに耽っていた佐介は、不意に耳朶を打った一首の歌で、はたと現実に返った。

「あ? 何だって?」

 染め色を落とし赤茶けた毛を露わにした後頭部で手を組みながら、珍しいものを口ずさんだ元同僚へ首を巡らす。

「何だ佐介、知らないのかい?」
「いや、それは知ってるさ。いきなりどうしたって訊いてんだよ」
「うーん、何となく?」

 雷蔵は意味深に笑いながら、無邪気に小首を傾げる。何となくってお前、と佐介は呆れ顔をした。

「今の気分、かな」
「気分?」
「そうそう。色々あったからねぇ、その色んな気持ちを総括すると、こんな感じ」
「ふーん」

 相変わらず良く分かんねえな、とぼやきながら、佐介はすっかり暮れ色の空を見上げる。何かに思いを馳せるように。
 それからポツリと、自分もその歌を口の中で転がしてみた。


  ―――色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ

      うゐの奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず―――


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「歌行燈」を読んで衝撃を受け思い余ってモデルにするという暴挙をやらかしてしまいました。嘘やんけと思わないでください。私が一番思ってます。「こんな感じの話だったような」とウロ覚えで書いたら、どうもかなり勘違いをやらかしてたみたいです。衝撃を受けたとは思えぬ記憶力。それに平行して別の話も盛り込んだので何が何だか。本当の作品が気になる方はどうぞ青空文庫まで。

作中で出てくる地名は本物ですが、人物やら領地の云々やらは完全フィクションです。
怪しげなウンチクを初め(〈祝い直し〉なんて本当はいざなぎ流だし)、城持ちやら国人やらお家システムなどについても例のごとくふわっと知識です。家督相続権についても色々調べてみたんですが、残念ながらこういうケースは見当たらなかったので、これも憶測だらけなので信用しないで下さい。
あと三国同盟は通説では1568年の時点で崩壊してます。最初そこに合わせて時代設定しようかと思ったけど、どうしても矛盾が出てしまうので諦めてずらしました。これだけはうろ覚え知識とかではなく意図的です。潜伏理由がほしかったので三国同盟をネタにつかいました。

あと話中に出てくる薬草名は全て創作です。グーグル先生に聞かないでね。