二日後の昼過ぎ、旅荷を整えた雷蔵と惣之助は源家の玄関に立っていた。
 惣之助の回復を待つまで旅立ちを延ばしていたのだが、さすがに初めてで三人分の浄化は相当きつかったのか、惣之助は丸一日床についていた。けれども並の呪歌唄いならば三日は寝込むところ、回復の早さはさすがというべきである。神歌唄いは神に愛された唄い手であればこそ、相応の加護があるのだと、と雷蔵は錫状を揺らしながら説明した。ちなみにこの錫状は、一番最初の変装時に〈秘伝〉に括りつけてその場に放置していたものだ。いくら旅中とはいえ、町娘が錫状など手にしているのはおかしいということでの配慮であった。

 〈秘伝〉は一夜経てば自動的に継承者の手元に戻ってくる仕組みになっている。これまで色々試してみたが雷蔵はついぞ〈秘伝〉から逃げきれた試しがない。そして基準は分からないが、ある程度軽いものならば〈秘伝〉に括りつけておくと一緒に移動してくるようだ。しかし重い物や固定されているものは駄目らしく、前に樹の根に括りつけてみた時には、根を打ち破って戻って来たことがあった。今ではむしろその性能を利用して、荷の持ち運びのために便利に使っていたりする。

 二人を見送りに出たのは、源家の当主改め、この度目出度く城主となった実治である。
 休日専用なのか無頼者風の着流し姿だった。

「何だかでかい借りを作っちまったな」
「まあお互い様ってやつだよ」

 雷蔵は笠を抑えながら微笑む。「こちらこそお世話になってしまい」と惣之助の方は丁寧に頭を下げていた。

「祝言の日取りは決まったのかい?」
「ああ、早い方がいいってんでひと月後の大安吉日にな。今その準備で城は上から下まで大忙しだ」
「それはおめでとう」

 御前こと楠木節と実治がこうなるとはさすがに思わなかった。雷蔵の立てた予測はあくまで御前は城主の位を譲るだろう程度までだ。
 ただあの場で直感的に実治は御前を斬ることはなかろうと判断したから、成り行きを見守ってみた。結果的に好い方に転んだのだから、良しとすべきだろう。
 そして事の騒動の中心人物である老臣は、実治によって現在自邸にて謹慎の身に置かれている。見張りをつけられ、沙汰待ちの状態だ。だが事の重大さを考えると、極刑は免れぬとのことだった。
 節御前に諫言した者たちの変死は、彼女ではなく平野の仕業であったらしい。諫言の主たちが実は密かに春季を担ぎ上げようと画策していたためだ。節御前直属の忍びたちはすでに御前の手を離れ、長年の重臣である平野の命に従って動いていた。節御前は元よりすべてに無関心で、手を下してはいなかったのである。

 領主直属の忍び衆を勝手に動かし、家臣らの暗殺を命じた罪、前城主の落胤である春季を抹殺しようとした罪は相当に重い。そして驚くべきことに、平野は此度の謀反を計画したのはすべて己一人だと言い張ったのである。春季らに累が及ばぬよう丸ごと墓の下に持ち去るつもりのようだった。それが平野なりの、家臣として、そして武士としての誇りであり、けじめなのだろう。
 その覚悟を知り、実治は謀反人には特例の切腹を許し、一族郎党の連座および家名取り上げの赦免を約束した。長い間仕え、功労があり、そして赤心ゆえに罪に手を染めた重鎮へ、敬意を表してのことだった。武士の名誉を守る寛大な心に、平野は涙を流したという。
 こうして一件は無難な解決を得た。節御前を娶り新領主となった実治の許でこの地は安定を取り戻すだろう。
 雷蔵は「祝言には行けないけど」と断りながら袖の下をごそごそと探った。

「御祝儀代わりに」

 その手に乗っていたのは、紅入れを一回り大きくしたような大蛤の合わせ貝。

「何だこいつぁ」

 胡乱気ながらしげしげと眺めている実治。

「薬膏だよ」
「薬膏?」

 ちょいちょいと雷蔵は自分の頬のあたりを指差す。

「御前様のあの疤痕からすると疱瘡に罹った痕だろ。これは潤肌膏に少し手を加えて調合したものでね。一日一回塗れば、完全とはいかなくても、ある程度までは薄くなる」

 調合法については、雷蔵が独自に編み出した処方である上に、使用したのも名の無い薬草ばかりだ。恐らく他の薬師には再現できないから、あえて伝えない。尤も、この量を使いきるころには十分恢復しているだろうと判断していた。
 実治は何とも言えぬ面持ちで唇をへの字にしていたが、やがてぶっきら棒な礼一つで懐に収めた。憮然とした表情は、しかし少しだけ柔らかい色を宿している。

「お二人の祝言を見届けられずに申し訳ない。本当は高砂を贈りたいところでしたが」

 高砂とは、相生の松にちなんで夫婦愛と長寿をうたうめでたい能であり、婚姻の座において専ら謡われる言祝ぎの曲でもあった。
 心から残念そうに言う惣之助に、いいさ、と実治は無造作に手を振った。

「間男にいられちゃこちらとら気が散るってもんよ」

 間男という言葉に惣之助は困ったように苦笑した。御前のあの行動は真の恋心からのものではなく、心の闇が求めたものである。むしろその前に実治への想いがあったからこそ、御前は魔を引き込んでしまったのだ。
 実治はあの後、あらゆる者から何時の間に御前と心を通わせていたのかと好奇心丸出しの質問攻めにあった。更には美女好きで有名な実治が、何故さして器量も良くない御前を選んだのか、多くの者が首を傾げていたが、『人間にはそういうこともあるってもんさ』と実治は煙に巻いていた。実際実治は御前の外見に惹かれたわけではない。しかし言ったところで無駄だろうと察していた。分かる者にしか分からぬものというものがこの世にはある。実治の心には、ずっと泣きそうに樹を見上げ、大切そうに鞠を抱き、必死に針を通していた幼い日の姿が焼き付いていた。それだけのことだ。

「おや、そういえば仙台殿は?」

 キョロキョロと惣之助が首を巡らす。考えてみれば城から運ばれるようにして屋敷に戻るのを見て以来、春季とは全く会っていない。

「ああ、あいつな」

 実治は鼻の下を擦るようにした。笑いを堪えている仕草だ。

「まだ部屋で寝込んでるぜ」

 と親指で背後の屋敷を差した。惣之助は目を丸くする。

「どこかお加減が悪いので? やはり先日のことで心労が……」
「まあ心労と言えば心労だな」

 つうよりもあれは傷心の病ってやつだな、とにやにやしながら雷蔵へ一瞥を投じる。
 水を向けられた雷蔵は素知らぬ顔だ。

「まさか自分が惚れたのが実は男で、それも自分より年上だったんだからな。そりゃ打撃も相当だわ」
「向こうが勝手に思い込んだだけだよ」

 ひょいと肩を竦めての無情な一言。

「よく言うぜ」

 正直実治でさえ真実を明かされた時には度肝を抜かれた。
 しかしやはりそこは無意識の何かというもので、初めから雷蔵に対して異性を感じてはいなかっただけに、衝撃はそれほどでもない。

(もっとも、春季のアレも実際は男惚れってやつなんだろうが)

 あの分では本人は気付いていないに違いない。勝手な謀叛計画を仕組んだ仕置きも含めて、その違いが分かるまで放って置こうと、実治は布団に丸まる春季を思い浮かべた。柔腰に思えて実は熱血直情な義弟(この度名実ともに義弟となったわけだ)が、何やら莫迦なたくらみを企てていたことは薄々察していた。それでも春季を一人の男と目するからこそ、実治はあえて様子見に徹していた。それが実治や国を思っての行動であったとすれば、なおさら頭ごなしに処断などできない。とはいえ腹が立っているのは変わりないので、しばらくはこれをネタにいじるつもりだった。

「いやしかし、本当に男だったとはな。どうだ、俺様に仕える気はねえか」
「遠慮しておくよ」

 満面の笑みでばっさり即答した。実治の笑面に青筋が立つ。
 雷蔵は細めた双眸を少し開き、言い放つ。

「君では飼いきれない」

 その一言は冷たい深淵を含んでいた。実治も二の句を封じられる。顔は笑んでいるのに、底のない闇を見せつけられたかのようだった。

「じゃあ俺たちはそろそろ」

 何も言えぬ実治に気づかぬふりをして、会話を切り上げる。

「……ああ。ま、せいぜい行き倒れんようにな」

 最後まで悪態で応じる実治の肩越しに、雷蔵はふと視線を向けた。微かに笑い、笠を目深に下げて踵を返す。耳環が陽光に閃いた。

「行こう、惣之助殿」
「あ? ああ……」

 何だか不思議そうに瞬きながら、惣之助は慌ててその背を追う。
 やれやれと肩を怒らせる実治の後ろで、遠く襖の陰から春季がそろりと顔を出す。寝間着のまま這うような恰好で頬杖をついていたが、そのままがっくりと突っ伏した。先程一瞬目が合ったような気がしたが、気の所為だと思いたい。

「詐欺だ……」

 頬を廂の板間につけたまま、ぽつりと吐息を零す。
 こんなことってない。涙が出そうだ。
 何が悲しいって、男と分かった瞬間から、さっぱり男にしか見えなくなったことである。勿論春季には衆道の気などないから、まさしく悪い夢を見ていたとしか思えない。どうして女に見えていたのか、今ではむしろ不思議でしようがないほどである。

「だから言ったではござらぬか。あれは良くないと」

 ごく間近から声が降り注いで、ガバッと腕をつき上体を上げる。
 廂にはいつの間にやら佐藤が腰かけて、悠長ににぎり飯などを食っていた。目線は春季にではなく門の方を向いている。

「ま、まさか佐藤殿、知ってて……」

 春季はふるふると震えながら指を差す。

「知ってたなら言ってよ!」
「特に聞かれなかった故に。忠告はしましたぞ」
「君、魔性って言っただけじゃないか!」
「だからそのようなものだったでござろう」
「使い方を根本的に間違ってる!!」 

 地団駄を踏む代わりに板間をバンバン叩いて春季は憤訴する。「気づくと思ったのだがな。まあご愁傷様」と佐藤はいけしゃあしゃあ言ってのけた。その言葉の端々に楽しんでいるような趣きがあるように聞こえるのは春季の気の所為だろうか。
 それからふと、佐藤が旅装束であることを見止めた。
 どっこらせと妙に爺臭い掛け声と共に佐藤が腰を上げるところだった。

「佐藤殿、どこかへ行くのかい」
「ああ、故郷より父が危篤のため帰って来いという信がありましてな。短い間であったが世話になり申した」

 言うなり、佐藤はすたすたと庭を横切って表門とは逆方向へ向かう。

「そっちは裏口だけど」
「無言で去っていくのは何とも心苦しい限り。源殿にご伝言よろしく」
「はぁ? え?」

 何が何だか分かっていない春季を残し、ちっとも心苦しくなさそうな印象を置いて、佐藤も去って行った。
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