13.酔い醒め夢覚め祝い直し



 白い世界の只中に、惣之助はいた。


 瞬きを繰り返す。一体此処はどこなのだろう。
 たった今まで自分は座敷で唄っていたはずだ。
 きょろきょろと見回した。
 ふと、鼻腔をついた香りに惹かれて目を向ける。
 そして瞠目した。
 先には、懐かしい梅の木が佇んでいる。
 その向こうに、人影。

「梅香……」

 まさか、と心臓が脈打つ。
 だが、踏みだそうとした脚が、一瞬竦んだ。
 束の間脳裏をよぎったのは、あの夕暮れの映像。黒く、暗く、黄昏に染まった―――
 心臓を鷲掴みにしたその記憶は、しかし幹陰から垣間見えた色によって霧散した。
 揺れていたのは紅の袖。
 俄かに愛しさが泪と共に込み上げ、胸を突いた。
 幹の後ろから、あのはにかんだ可憐な微笑みがこちらを覗いていた。

「梅香!」

 駆け寄って、その身体を抱き締めた。
 触れられる。暖かかった。
 白い面を両手で挟む。
 頬には紅が差し、黒い瞳が涙に滲んで輝いている。
 小さな唇が頬に寄せられ、そっと触れた。
 その時になって、惣之助は自分も泣いていることに気づいた。
 梅香だ。梅香が確かに此処にいた。

「梅香、梅香」

 掻き抱くようにして、何度も名を呼んだ。抱き返してくる腕の力さえ愛おしくて切なくて、もっと深く抱き込んだ。硬く目を瞑ると、涙が流れて止まらなかった。

「すまなかった、俺のせいで」

 微かに頭が横に振られるのを肩に感じる。
 そっと叩かれ、ようやく惣之助は身を離す。
 白い手が伸び、先ほどとは逆に惣之助の両頬を挟んだ。
 梅香は微笑んでいた。

 ―――いいの

 耳の奥に響いた声に、惣之助は驚いた。惣之助の知る梅香は話すことができなかった。

 ―――貴方が無事ならそれでいい

 けれど梅香の唇は動いていない。ただ声だけが届く。

 ―――ただ、寂しかった

 その顔が、耐えきれなくなったようにくしゃくしゃに歪む。

 ―――もどかしかった。切なかった。ずっと。ずっと

 堰切ったように、幾筋もの涙が頬を濡らす。

 ―――こんなにも近くにいるのに届かなくて、本当はすごく辛かった。こうして触れ合いたかった……

 血を吐くような慟哭だった。それでも惣之助を詰る響きはどこにもなかった。

「梅香……」

 本当にすまなかったと、惣之助は額を触れ合わせる。
 ただただ申し訳なくて、胸が押さえつけられるように苦しい。

 ―――でも、やっと会えた

 泣きながら、梅香は笑った。
 今までに見た中でも、はっとするほど美しく鮮やかな微笑みだった。

 ―――もう十分。何も思い残すことはない

「梅、」

 人差し指が唇に触れる。惣之助は二の句を封じられた。

 ―――謡って

 笑んだまま、梅香は言った。

 ―――どうか謡って。貴方の謡いを聴くのが、私は一番好きだから

 するりと惣之助の腕から抜けた。
 梅香はとんとんと軽やかに歩き、くるりと惣之助に向き直る。
 後ろで手を組んで、屈託ない笑顔を浮かべ、待っている。
 舞うんだね。
 惣之助は呟いた。俺が謡い、君が舞う。いつもの二人の儀式。
 梅香は嬉しげに肯く。

 ―――貴方の謡いで、私は往くの

 ようやく惣之助も笑った。

「ああ分かったよ。梅香―――




 ああ、歌声が聞こえる。恋うて恋うて、焦がれてきたものが。
 乾ききった喉を癒すような、輝きに満ちたそれに、手を伸ばそうとする。しかし身体が泥のように重く、どれだけ近付こうとしても、欲しい光からは遠のく。

「君はこっちだよ」

 涼しい声色がした。
 振り返れば、琵琶を抱える法師の姿があった。
 彼は坐しながら、淡然と微笑みを浮かべている。互いを結ぶように、間に黒い影が伸びていた。

「野暮な真似はおよし」

 何だ此奴め、と荒ぶる心のまま吼える。

「ワキで悪いけど、まあ我慢してよ」

 そう言う法師の隣には、ずんぐりとして大人しく蹲る別の気配がある。
 気づいたのか、法師は横を見ながら吐息で笑った。

「念自体は強かったものの、彼は願望を果たせたから思いの外物分かりが早くてね」

 あの二人は、肉体から離れ、魂だけの姿となって、はじめて再会できたのだ。邪魔者は退散しなければならない。
 泣いても笑っても、彼らにはこれが一度きりの逢瀬なのだから。
 そんな言葉にももう一方の影は身を焦がされるように悶える。
 嫌だ。
 嫌だ。
 ―――私を見て。
 影を制せられているために遠くへ行けぬことに気づき、暴れ抗う。
 オオ、と呻きが漏れた。こいつのせいで身が自由にならぬ。凶暴な衝動のままに、爪を剥いた。
 すると法師は弓を返し、撥の形をした部分で弦をかいた。嫋と鳴った響きで、身体が固まる。まるで網目に絡み取られたかのように動けない。

 ―――悲しい悲しい。
 ―――ああ、歌を聴かせて。
 ―――苦しい、こんなに苦しいのに。

 声が割れて反響する。

 ―――お願い、離して。
 ―――寂しい。あれが欲しい。
 ―――待って待って、待ち焦がれたあれが。

「大丈夫。(シテ)に及ばずながら、きちんと責任を持って送ろう」

 緩く低く、震える弦の生み出す楽の音に、それまでの荒れ狂うような渇望がふと鎮まる。

「耳を澄ましてごらん。ほら、聞こえるだろう」

 遠くで誰かが謡っている。
 ああ、と声が漏れた。
 耐えがたい孤独と哀しみが解けて、乾いた大地に潤いが沁み込むように、じわりと懐かしさが広がる。

「さあ、行くといい。重い魄を脱ぎ捨て、無垢の魂となって」

 歌声を道しるべに。
 遠くの声に、近くの声が重なる。
 歌声が重なり音色が輪を描き波紋となる。
 そしてやがて光となる。
 いつの間にか身体が軽い。
 それとも心か。
 思い切り伸びをするように、浮き立つまま踊り上がる。
 気がつけば、見たことのない僧形の男が、同じく晴れた面持ちでぼんやり見上げている。
 紡がれる音の波に乗り、共に上を目指して弾けるように駆け出した。
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